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短編集  作者: 科上悠羽


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122/126

『修了証の角』

 職業訓練センターの三階教室は、修了式の日だけ妙に広く見えた。

 いつもはぎゅうぎゅうに詰まっていた机が、半分ほど片づけられているせいだ。壁際に積まれたパイプ椅子、返却待ちの参考書、誰のものか分からないマグカップ。三か月前は知らない人しかいなかった場所なのに、今日はもう「終わる場所」の顔をしている。


 秋庭遼は、椅子に座ったまま、膝の上の修了証書を見ていた。

 厚紙の匂いがする。名前がちゃんと活字で入っている。

 たぶん、こういうのをもらうために通っていたわけじゃない。

 けれど、じゃあ何のためだったかと聞かれると、少し返事に困る。


 三十二歳。

 去年まで勤めていた印刷会社が工場統合で人員整理になって、半年ほど仕事を探し、それから市の再就職支援でこの訓練センターへ来た。

 コース名は「建物設備保守実務科」。

 電気、空調、給排水、簡単な修繕、点検記録の書き方。要するに、建物を動かし続ける側の仕事を学ぶ場所だった。

 最初は正直、気が進まなかった。

 もう三十を過ぎて、今さら教室で座学を受けるのも情けなかったし、知らない人間とグループを組むのも面倒だった。

 なのに、終わるとなると、少しだけ息の置き場がなくなる。


「遼、顔こわいって」


 前の列から振り返って言ったのは、同じ班だった三崎だった。

 年は二十五。元々はアパレルの販売をしていて、店が畳まれてここへ来たらしい。口は悪いが、人の沈んだ空気だけはよく拾う。


「こわくない」

「修了証に恨みでもある顔してる」

「ない」

「じゃあ嬉しい?」

「それも違う」

「面倒だな」

「知ってる」


 三崎は笑って前へ戻った。

 その雑さがありがたかった。

 この三か月、教室の連中はだいたいそんな感じだった。

 妙に踏み込みすぎず、でも放っておきすぎもしない。

 大人だからこそ、気の遣い方が少しだけ雑で、その雑さが救いになることもある。


 このクラスには十五人いた。

 前職も年齢もばらばらで、二十代前半から五十代までいる。

 整備工、介護士、営業、事務、飲食、倉庫、接客。

 最初のころは、互いにどこか警戒していた。

 仕事を失って来た人間特有の、ちょっとした見栄と疲れが全員にあったからだ。

 聞かれたくないことも多いし、自分から話したくないことも多い。

 だから初日は、誰も必要以上に笑わなかった。


 空気が少し変わったのは、二週目の脚立実習だった。

 安全帯の使い方を習って、二人一組で器具交換の手順をやる日。

 遼は五十代の矢部と組まされた。元トラック運転手で、腰を悪くして積み荷仕事を続けられなくなった人だ。

 無口で、初日からずっと「勉強なんて柄じゃねえ」としか言っていなかった。

 その矢部が、脚立の上で電球ソケットを外そうとして盛大に手順を間違え、下から見ていた全員に突っ込まれた。


「危なっ」

「矢部さん、それ逆!」

「落ちる落ちる!」


 あのとき初めて、教室にちゃんとした笑い声が出た。

 矢部も降りてきてから、「お前ら今のは見なかったことにしろ」と真顔で言い、さらに笑いが広がった。

 たったそれだけのことで、ずいぶん息がしやすくなった。

 人は、恥をかいたのが自分だけじゃないと分かると、少しだけ正直になれる。


 修了式は簡素だった。

 所長が前へ立ち、形式的な祝辞を読み、担当講師が一人ずつ名前を呼ぶ。

 前へ出て証書を受け取る。戻る。

 たったそれだけ。

 それなのに、遼は自分の名前が呼ばれたとき、妙に喉の奥が乾いた。


「秋庭遼」

「はい」


 受け取る。

 頭を下げる。

 席へ戻る。

 その一連の動きだけで、三か月が急に本当のものになった気がした。

 途中で辞めなかった。

 朝寝坊しそうな日も、気分の悪い日も、求人票を見て勝手に落ち込んだ日も、なんとか来た。

 それだけのことが、今の自分には案外大きい。


 式が終わると、教室は一気に騒がしくなった。

 証書を見せ合うやつ、講師へ挨拶に行くやつ、もう次の面接の話をしているやつ。

 終わる日というのは、感傷だけでできていない。

 むしろ、終わるからこそ次の現実がすぐに顔を出す。


「遼、午後どうする?」


 三崎がまた来た。

 片手に証書、もう片手にペットボトルの水。

「どうするって」

「駅前で昼くらい食う?」

「打ち上げ?」

「打ち上げってほどでもないけど」

 三崎は少しだけ視線を泳がせた。

「矢部さんと片岡さんも誘おうって話してて」

 片岡は四十代の元介護士で、記録書類が抜群にきれいな人だ。

 この三人と三崎、遼で、いつのまにか班の空気ができていた。


「いいよ」

 遼が答えると、三崎はあからさまにほっとした顔をした。

「よかった」

「何」

「遼、こういうとき一人で帰りそうだから」

「失礼だな」

「当たってるでしょ」

 当たっていた。

 こういう節目は、一人でやり過ごしたほうが楽なことも多い。

 別れ際の気まずさとか、妙な湿っぽさとか、そういうのが苦手だからだ。

 でも今日は、それを避けたくない気もしていた。


 昼の定食屋は、予想通り少し騒がしかった。

 駅前の古い店で、揚げ物の匂いが服に残るタイプのところだ。

 五人でテーブルを囲み、日替わりの唐揚げ定食や焼き魚定食を前にして、最初はみんな少しだけ変な顔をしていた。

 学校でもないのに、修了日に食事。

 青春じみていて、気恥ずかしい。

 全員そう思っているのが、むしろ可笑しかった。


「で、矢部さんは?」

 片岡が聞く。

「もう決まってるんですか、次」

 矢部は味噌汁をすすってから言った。

「決まってねえ。明日また面接」

「明日かあ」

「朝早え」

「そこ」

 三崎が吹き出す。


「秋庭は?」

 今度は矢部に聞かれて、遼は少しだけ箸を止めた。

「一応、ビルメンの契約社員で一件」

「一応って」

「まだ受かったわけじゃないんで」

「でも受けるんだろ」

「受けます」

「ならいいじゃねえか」

 矢部はそう言って、唐揚げを一つ口へ入れた。

 その雑な言い方が、妙にありがたかった。

 まだ何も始まっていないのに、始めることを認めてもらえる感じがしたからだ。


 食事の途中で、三崎がぽつりと言った。

「なんかさ」

「何」

「終わるの、ちょっとやだね」

 その一言で、みんな少しだけ黙った。

 誰も真っ先に「分かる」とは言わなかった。

 そういう照れくささが、この場にはまだある。

 けれど矢部がしばらくしてから、ぽそっと言った。

「俺もだよ」

 それが合図みたいになって、片岡が笑う。

「私もです」

「俺も」

 遼も、小さく言った。

 口にしてみると、少しだけ胸のつかえがほどけた。


「でも、言うのダサい気がしてた」

 三崎が言う。

「わかる」

 遼は思わず笑った。

「今さら熱いの、うざいかなって」

「それな」

「いや、お前ら最初からずっと熱かったろ」

 矢部が真顔で言うので、また笑いが起きる。

 こういう時間のことを、たぶん後から思い出すのだろうと思った。

 何が特別だったわけでもない。

 でも、仕事を失ったり、迷ったり、見栄を張ったりしてここへ来た人間同士が、同じ教室で同じところを少しずつ覚えていった。

 その馬鹿みたいな時間が、案外大事だったのだと、終わる日に初めて分かる。


 店を出るころには、雨はすっかり上がっていた。

 駅前の空はまだ白いが、雲の切れ間が少しだけ見える。

 解散はあっさりしていた。

 じゃあまた。

 連絡する。

 面接どうだったか言って。

 その程度の言葉しか交わしていない。

 それなのに、遼は一人で改札へ向かいながら、なぜか少し泣きそうになった。

 大げさだと自分でも思う。

 三か月だけだ。

 家族でもない。

 特別深い友情を誓い合ったわけでもない。

 でも、再出発なんてきれいな言葉が似合わない人間同士で、同じ教室に毎朝来て、同じところでつまずいて、同じように少しずつ前へ出た。

 その事実だけが、妙に重かった。


 駅のホームで電車を待ちながら、遼は修了証をもう一度見た。

 厚紙の角が、少しだけ鞄の縁へ当たる。

 たった一枚だ。

 これがあるから人生が何とかなるわけでもない。

 でも、無かったころの自分と、今の自分が同じでもない。

 そのくらいの違いは、ちゃんとある気がした。


 ポケットのスマホが鳴る。

 三崎からだった。


【言い忘れた】

【出会えてよかったです】


 遼はメッセージを見て、思わずホームで立ち止まった。

 面と向かって言えないくせに、こういうときだけ素直だ。

 その素直さが、眩しくて、少しだけ腹立たしくて、でもやっぱりありがたかった。


 少し考えてから、遼も返す。


【俺も】

【ちゃんと助かった】


 送ってしまえば、もう少し何か言えた気もする。

 でも今の自分に出せるのは、その程度だった。

 それで十分だとも思った。

 立派な言葉じゃなくても、届くものはある。


 電車が来る。

 ドアが開く。

 遼は乗り込んで、窓際へ立った。

 動き出したホームの向こうで、訓練センターのある方向の空だけ、少し明るく見えた。

 それぞれの一歩なんて、たぶん格好よくは始まらない。

 不安もあるし、見栄もあるし、言えなかった言葉も山ほど残る。

 それでも、あの教室で過ごした時間が、ちゃんと自分の足の裏へ残っている気がした。


 恥ずかしくて、格好つけて、最後まで上手くは言えなかった。

 でも、大事なものほど、そういう不器用な形でしか手元に残らないのかもしれない。

 遼は揺れる車内で証書の角を指先でなぞり、次の駅名が流れるのを聞いた。

 まだ何者にもなっていない。

 それでも、前より少しだけ、進む準備はできている気がした。

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