『修了証の角』
職業訓練センターの三階教室は、修了式の日だけ妙に広く見えた。
いつもはぎゅうぎゅうに詰まっていた机が、半分ほど片づけられているせいだ。壁際に積まれたパイプ椅子、返却待ちの参考書、誰のものか分からないマグカップ。三か月前は知らない人しかいなかった場所なのに、今日はもう「終わる場所」の顔をしている。
秋庭遼は、椅子に座ったまま、膝の上の修了証書を見ていた。
厚紙の匂いがする。名前がちゃんと活字で入っている。
たぶん、こういうのをもらうために通っていたわけじゃない。
けれど、じゃあ何のためだったかと聞かれると、少し返事に困る。
三十二歳。
去年まで勤めていた印刷会社が工場統合で人員整理になって、半年ほど仕事を探し、それから市の再就職支援でこの訓練センターへ来た。
コース名は「建物設備保守実務科」。
電気、空調、給排水、簡単な修繕、点検記録の書き方。要するに、建物を動かし続ける側の仕事を学ぶ場所だった。
最初は正直、気が進まなかった。
もう三十を過ぎて、今さら教室で座学を受けるのも情けなかったし、知らない人間とグループを組むのも面倒だった。
なのに、終わるとなると、少しだけ息の置き場がなくなる。
「遼、顔こわいって」
前の列から振り返って言ったのは、同じ班だった三崎だった。
年は二十五。元々はアパレルの販売をしていて、店が畳まれてここへ来たらしい。口は悪いが、人の沈んだ空気だけはよく拾う。
「こわくない」
「修了証に恨みでもある顔してる」
「ない」
「じゃあ嬉しい?」
「それも違う」
「面倒だな」
「知ってる」
三崎は笑って前へ戻った。
その雑さがありがたかった。
この三か月、教室の連中はだいたいそんな感じだった。
妙に踏み込みすぎず、でも放っておきすぎもしない。
大人だからこそ、気の遣い方が少しだけ雑で、その雑さが救いになることもある。
このクラスには十五人いた。
前職も年齢もばらばらで、二十代前半から五十代までいる。
整備工、介護士、営業、事務、飲食、倉庫、接客。
最初のころは、互いにどこか警戒していた。
仕事を失って来た人間特有の、ちょっとした見栄と疲れが全員にあったからだ。
聞かれたくないことも多いし、自分から話したくないことも多い。
だから初日は、誰も必要以上に笑わなかった。
空気が少し変わったのは、二週目の脚立実習だった。
安全帯の使い方を習って、二人一組で器具交換の手順をやる日。
遼は五十代の矢部と組まされた。元トラック運転手で、腰を悪くして積み荷仕事を続けられなくなった人だ。
無口で、初日からずっと「勉強なんて柄じゃねえ」としか言っていなかった。
その矢部が、脚立の上で電球ソケットを外そうとして盛大に手順を間違え、下から見ていた全員に突っ込まれた。
「危なっ」
「矢部さん、それ逆!」
「落ちる落ちる!」
あのとき初めて、教室にちゃんとした笑い声が出た。
矢部も降りてきてから、「お前ら今のは見なかったことにしろ」と真顔で言い、さらに笑いが広がった。
たったそれだけのことで、ずいぶん息がしやすくなった。
人は、恥をかいたのが自分だけじゃないと分かると、少しだけ正直になれる。
修了式は簡素だった。
所長が前へ立ち、形式的な祝辞を読み、担当講師が一人ずつ名前を呼ぶ。
前へ出て証書を受け取る。戻る。
たったそれだけ。
それなのに、遼は自分の名前が呼ばれたとき、妙に喉の奥が乾いた。
「秋庭遼」
「はい」
受け取る。
頭を下げる。
席へ戻る。
その一連の動きだけで、三か月が急に本当のものになった気がした。
途中で辞めなかった。
朝寝坊しそうな日も、気分の悪い日も、求人票を見て勝手に落ち込んだ日も、なんとか来た。
それだけのことが、今の自分には案外大きい。
式が終わると、教室は一気に騒がしくなった。
証書を見せ合うやつ、講師へ挨拶に行くやつ、もう次の面接の話をしているやつ。
終わる日というのは、感傷だけでできていない。
むしろ、終わるからこそ次の現実がすぐに顔を出す。
「遼、午後どうする?」
三崎がまた来た。
片手に証書、もう片手にペットボトルの水。
「どうするって」
「駅前で昼くらい食う?」
「打ち上げ?」
「打ち上げってほどでもないけど」
三崎は少しだけ視線を泳がせた。
「矢部さんと片岡さんも誘おうって話してて」
片岡は四十代の元介護士で、記録書類が抜群にきれいな人だ。
この三人と三崎、遼で、いつのまにか班の空気ができていた。
「いいよ」
遼が答えると、三崎はあからさまにほっとした顔をした。
「よかった」
「何」
「遼、こういうとき一人で帰りそうだから」
「失礼だな」
「当たってるでしょ」
当たっていた。
こういう節目は、一人でやり過ごしたほうが楽なことも多い。
別れ際の気まずさとか、妙な湿っぽさとか、そういうのが苦手だからだ。
でも今日は、それを避けたくない気もしていた。
昼の定食屋は、予想通り少し騒がしかった。
駅前の古い店で、揚げ物の匂いが服に残るタイプのところだ。
五人でテーブルを囲み、日替わりの唐揚げ定食や焼き魚定食を前にして、最初はみんな少しだけ変な顔をしていた。
学校でもないのに、修了日に食事。
青春じみていて、気恥ずかしい。
全員そう思っているのが、むしろ可笑しかった。
「で、矢部さんは?」
片岡が聞く。
「もう決まってるんですか、次」
矢部は味噌汁をすすってから言った。
「決まってねえ。明日また面接」
「明日かあ」
「朝早え」
「そこ」
三崎が吹き出す。
「秋庭は?」
今度は矢部に聞かれて、遼は少しだけ箸を止めた。
「一応、ビルメンの契約社員で一件」
「一応って」
「まだ受かったわけじゃないんで」
「でも受けるんだろ」
「受けます」
「ならいいじゃねえか」
矢部はそう言って、唐揚げを一つ口へ入れた。
その雑な言い方が、妙にありがたかった。
まだ何も始まっていないのに、始めることを認めてもらえる感じがしたからだ。
食事の途中で、三崎がぽつりと言った。
「なんかさ」
「何」
「終わるの、ちょっとやだね」
その一言で、みんな少しだけ黙った。
誰も真っ先に「分かる」とは言わなかった。
そういう照れくささが、この場にはまだある。
けれど矢部がしばらくしてから、ぽそっと言った。
「俺もだよ」
それが合図みたいになって、片岡が笑う。
「私もです」
「俺も」
遼も、小さく言った。
口にしてみると、少しだけ胸のつかえがほどけた。
「でも、言うのダサい気がしてた」
三崎が言う。
「わかる」
遼は思わず笑った。
「今さら熱いの、うざいかなって」
「それな」
「いや、お前ら最初からずっと熱かったろ」
矢部が真顔で言うので、また笑いが起きる。
こういう時間のことを、たぶん後から思い出すのだろうと思った。
何が特別だったわけでもない。
でも、仕事を失ったり、迷ったり、見栄を張ったりしてここへ来た人間同士が、同じ教室で同じところを少しずつ覚えていった。
その馬鹿みたいな時間が、案外大事だったのだと、終わる日に初めて分かる。
店を出るころには、雨はすっかり上がっていた。
駅前の空はまだ白いが、雲の切れ間が少しだけ見える。
解散はあっさりしていた。
じゃあまた。
連絡する。
面接どうだったか言って。
その程度の言葉しか交わしていない。
それなのに、遼は一人で改札へ向かいながら、なぜか少し泣きそうになった。
大げさだと自分でも思う。
三か月だけだ。
家族でもない。
特別深い友情を誓い合ったわけでもない。
でも、再出発なんてきれいな言葉が似合わない人間同士で、同じ教室に毎朝来て、同じところでつまずいて、同じように少しずつ前へ出た。
その事実だけが、妙に重かった。
駅のホームで電車を待ちながら、遼は修了証をもう一度見た。
厚紙の角が、少しだけ鞄の縁へ当たる。
たった一枚だ。
これがあるから人生が何とかなるわけでもない。
でも、無かったころの自分と、今の自分が同じでもない。
そのくらいの違いは、ちゃんとある気がした。
ポケットのスマホが鳴る。
三崎からだった。
【言い忘れた】
【出会えてよかったです】
遼はメッセージを見て、思わずホームで立ち止まった。
面と向かって言えないくせに、こういうときだけ素直だ。
その素直さが、眩しくて、少しだけ腹立たしくて、でもやっぱりありがたかった。
少し考えてから、遼も返す。
【俺も】
【ちゃんと助かった】
送ってしまえば、もう少し何か言えた気もする。
でも今の自分に出せるのは、その程度だった。
それで十分だとも思った。
立派な言葉じゃなくても、届くものはある。
電車が来る。
ドアが開く。
遼は乗り込んで、窓際へ立った。
動き出したホームの向こうで、訓練センターのある方向の空だけ、少し明るく見えた。
それぞれの一歩なんて、たぶん格好よくは始まらない。
不安もあるし、見栄もあるし、言えなかった言葉も山ほど残る。
それでも、あの教室で過ごした時間が、ちゃんと自分の足の裏へ残っている気がした。
恥ずかしくて、格好つけて、最後まで上手くは言えなかった。
でも、大事なものほど、そういう不器用な形でしか手元に残らないのかもしれない。
遼は揺れる車内で証書の角を指先でなぞり、次の駅名が流れるのを聞いた。
まだ何者にもなっていない。
それでも、前より少しだけ、進む準備はできている気がした。




