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短編集  作者: 科上悠羽


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1/6

『二つめの選択肢』

 昼休みの会議室は、いつもより静かだった。蛍光灯の白が机の木目に貼りついて、誰の言い分も同じ温度で冷ましてしまう。窓の外では、ビルの谷間を風が通り、どこかで誰かの笑い声が跳ねた。こっちは、笑う余裕を探している途中だ。

 向かいの席で、花乃が腕を組んだまま、僕のノートの端を見ている。彼女は「整理」の人だ。余計なものを削って、筋を通す。僕は「余白」の人だ。削られる前に、置き場所を作っておきたい。

 部署の皆は、僕らを二つのタイプに分けて楽しんでいるらしい。「守る人」と「広げる人」。会議の前に誰かが冗談で言った。「今日も対決? 二択の勝負だね」って。まるで、世の中のボタンが二つしかないみたいに。


「この文言、強すぎると思う」

 花乃が言った。手元の原稿には、太字の注意書きがいくつも並んでいる。

「強くしないと届かない、って判断もある」

 僕が返す。原稿の余白に、入口の案内を書き足したい気持ちがうずく。

「“届く”っていうのは、誰に?」

「困ってる人に」

「困ってる人を増やす言い方になってる」

 言い合いの形だけ整っていく。互いの粗探し。ここ数年、僕らはそれを仕事としても、生活としても覚え過ぎた。社内のチャットでも、世間のコメント欄でも、相手の一文を針でつついて穴を見つける。その穴から「ほら、あなたはこういう人だ」とラベルを投げ込む。

 今日の議題は、地域イベントの注意喚起ポスターだった。会場の安全のために、ルールを周知したい。だけど、ルールは武器にもなる。花乃はその点に敏感で、僕は逆に「やさしい言い方は読み飛ばされる」恐怖を抱えている。


「一回、現場の空気見に行かない?」

 僕が言うと、花乃は「時間ない」と即答しかけて、途中で止めた。止めたのは、時間じゃない。自分の即答癖だ。

「……今日の夕方なら」

「じゃあ、行こう」


 夕方。僕らは会場予定の公民館へ向かった。途中で、イベントの公式アカウントに届いた通知がスマホを震わせる。投稿した告知文への返信だ。

『ルール多すぎて息苦しい』

『こんなの守れない人は来るなってこと?』

『いや、当たり前だろ。守れないなら帰れ』

 五分で、二つの陣営ができて、互いを殴り始める。殴り始める速度だけは、いつも世界最速だ。

「コメント欄、閉じる?」

 花乃が言った。彼女の“整理”は、燃え広がる前に火元を断つ。

「閉じたら、今度は“言論弾圧”って言われる」

「言われる前提で動くの、嫌」

「……僕も」

 その一言で、花乃がちらっと僕を見る。会議室の時みたいに、刺さった表情だ。僕は画面をスクロールしながら言う。

「閉じるかどうかじゃなくて、第三の動き方が欲しい。ルールを出すなら、理由と、助け舟もセットで」

「助け舟」

「困ったらスタッフに声かけてください、ってやつ。来るな、じゃなくて、来ていい、でもこうしてね、って」

 花乃は頷きかけて、また途中で止めた。頷くと“全面同意”になってしまうから。彼女は同意の代わりに、メモを取った。


 公民館の入口で、準備担当の高齢の男性が鍵を開けてくれた。床はワックスの匂いがして、壁には昔の運動会の写真が貼ってある。花乃は掲示板の前で立ち止まり、貼り紙の角を指でなぞった。几帳面な癖が出る。

「ここ、導線が狭い」

「人が詰まるね」

「詰まったところで、誰かが強い口調になる」

「強い口調って、伝染するんだよな」

 僕が言うと、花乃が「伝染」と繰り返した。

「だから、最初の一言が大事。強い一言を置くと、みんな強くなる」

「でも弱い一言だと、誰も読まない」

「……うん」

 僕らは同じ壁にぶつかっている。方向が違うだけで、足の痛みは似ている。


 帰社して、ポスター案を詰め直す。花乃はルールを短くし、僕は入口の案内を足す。コメント欄には、当たり障りのない返答を一つだけ置いた。「ご意見ありがとうございます。現場で困った時のために、案内も追記します。」それだけで炎が消えるわけじゃない。けれど、火に油を注がない選択はできる。


 夜。プリンタの前で紙詰まりを直していると、背後から「ちょっと」と声がした。花乃だ。いつもなら用件だけ投げて去る人なのに、今日は立ち止まっている。

「さっきの。決めつけが嫌い、って」

「うん」

「私、あなたのこと……“甘い人”だと思ってた」

 言われ慣れた単語だった。僕自身も、自分をそう呼んだことがある。けれど花乃の口から出ると、それは否定ではなく、観察の結果みたいに聞こえた。

「あなた、誰にでも優しい顔するから。結果、守れないこともある、って」

 花乃は紙束を抱え直した。「守れない」と言うときの声が、少しだけ掠れている。

「僕は、花乃を“冷たい人”だと思ってた」

「……冷たいのは、私の得意技」

 冗談みたいに言うのに、目は笑っていない。得意技って、身につけた理由が必ずある。

 プリンタが、直りました、という音を出した。紙が一枚、静かに吐き出される。白い余白が眩しい。


 その日の帰り、ビルの一階の小さなカフェで、僕らは偶然同じ列に並んだ。雨が降り出して、外へ出る勇気を失った人間が寄り集まる場所。メニューの黒板には、限定の焼き菓子が二種類だけ書いてある。

「どっちにする?」

 僕が訊くと、花乃は黒板を見たまま黙る。たぶん、二択が嫌いなのだ。二択は分断の入口になる。片方を選べば、もう片方を否定した気になってしまう。

「……半分こ、って手もある」

 僕が言うと、花乃の口元がわずかに緩んだ。

「甘いのと、しょっぱいの?」

「うん。二つとも。否定せずに済む」

 僕らは店員に、二種類を一つずつ頼んだ。トレーに乗った紙皿が二枚、机の上に並ぶ。花乃が袋から、小さな缶を出した。蓋に、見覚えのあるキャラクター。僕が中学の頃、こっそり集めていた古い漫画の、端役だ。

「それ、まだ出回ってるの?」

「再販、してる。……知らない?」

「知ってる。むしろ、好きだった」

 花乃は目を丸くした。「え」と、普段出さない音が漏れた。

「あなた、そういうの、興味なさそう」

「興味があるものは、見せびらかさないタイプなんだ」

 言った途端、僕は自分の言い方の格好つけに笑いそうになった。花乃も、耐えきれなかったみたいに、小さく息を吐いた。笑いの入り口は、こういう瞬間にある。大げさな共感じゃなくて、肩の力が抜けるズレ。


 焼き菓子を割ると、熱い蒸気が立って、甘い匂いがふわっと広がった。花乃が「これ、危ない」と言った。

「何が?」

「こういう匂い。気が緩む」

「緩んだら、ダメ?」

「……緩むと、思い出すから」

 花乃は缶の蓋を指で撫でた。きれいな爪。だけどその動きが、やけに慎重だ。

「昔、誰かに言われた。“優しい言い方は、責任を取らない逃げだ”って」

「ひどい」

「ひどいけど、当たってる部分もあった。私は、逃げたくなくて……だから、強い言葉を選ぶ。強い言葉は、逃げ道を塞ぐから」

 僕は口の中の甘さを、ゆっくり溶かした。強い言葉は、逃げ道を塞ぐ。つまり、相手の逃げ道も。

「僕は逆だ。強い言葉を使うと、誰かが折れる。折れた人は静かになる。静かになった人は、助けを呼べない」

「だから、余白を作る?」

「余白があると、遅れてきた人が座れる。声の小さい人が、置ける。……そう信じてる」

 花乃は頷きかけて、途中で止めた。頷くと“同意”になってしまう。彼女は同意の代わりに、質問を選んだ。

「じゃあ、ポスターはどうする?」

 ようやく本題に戻る。でも、戻り方が違う。相手を刺すためじゃなくて、並んで考えるための問いだ。

「二つの文言を、同じ紙に載せるのは?」

「矛盾しない?」

「矛盾に見えるだけ。ルールの線は引く。けど、困ったら来ていい、って入口も書く。注意と案内をセットで」

 花乃は少し考えてから、トレーの端に指を置いた。

「入口、必要」

 たった四文字で、空気が変わる。会議室で何分もやっていた戦いが、同じ四文字を得るための遠回りだったみたいに。


 翌日、部署の朝会でポスター案を出した。花乃の短いルール文と、僕の案内文が上下に並ぶ。上司が眉を上げた。

「注意喚起なのに、“困ったら来てね”って甘くない?」

 花乃が口を開くより先に、僕は答えた。

「甘い、じゃなくて、止めるための入口です。守れない人を排除するんじゃなくて、守れる形に寄せるための」

 言いながら、僕は花乃の顔を盗み見た。彼女は、ほんの少しだけ口角を上げていた。承認でも同意でもなく、たぶん“許可”。僕が勝手に花乃を背負うのを許してくれた表情。

 朝会は拍子抜けするほどあっさり終わった。「まあ、やってみよう」と言われた。二択の勝負だと思い込んでいると、第三の案が通った時に呆気なく感じる。


 イベント当日。公民館の入口に、僕らのポスターが貼られた。紙は少し湿気っているけれど、文字は読める。会場には子どもが走り、保護者が追い、ボランティアが笑っている。世界は二択じゃ回らない。ここには、やることと、見守ることと、手を貸すことが同時にある。

 開始から一時間ほどで、小さな揉め事が起きた。列の順番を巡って、二人の来場者が声を荒げたのだ。周りの空気が一気に硬くなる。硬さは、伝染する。

 花乃がすっと前に出た。声は低く、短い。

「止めてください。危険です」

 強い一言。場の背骨を立てる言い方。二人の動きが止まる。

 僕はその横に並び、少しだけ柔らかく続けた。

「順番、見落としがちですよね。こちらで整理します。今、どこから並び直せばいいか一緒に確認しましょう」

 花乃が僕を見る。僕が勝手に“柔らかい役”を取ったことを咎めない目だ。二人は互いの顔を見て、少し気まずそうに息を吐いた。

「……俺が先だと思った」

「私もそう見えた」

 視点が違うだけ。そこに悪意がない時、解決は意外と早い。花乃が列の端を指し示し、僕が次の案内をする。最後に二人が小さく頭を下げ合った。謝罪というより、着地のための儀式みたいな動き。

 周りの空気がほどけ、誰かが「助かった」と言って笑った。笑いも伝染する。良い方に。


 片付けの時間。壁のポスターは、端が少し丸まっていた。花乃がテープを押さえ直しながら言う。

「今日みたいに、強い言葉と、案内がセットだと……」

「うん」

「守れる」

 それは、彼女の“勝ち”でも僕の“勝ち”でもない。二つの得意技が重なった場所の、小さな成果だ。


 帰り道、雨上がりの歩道に街灯が映って、二重の道ができている。花乃が傘を閉じながら言う。

「私たち、似てるね」

「似てるって言うと、また二択に戻る気がする」

「じゃあ……重なるところが、ある」

 その言い方が、彼女らしい。重なる、は否定を含まない。

 僕は笑ってしまった。花乃も、今度は隠さず笑った。腹を抱えるほどではない。けれど、胸の奥に残っていた硬い塊が、少しだけほどけるくらいには。

「次は、コメント欄どうする?」

「閉じるか、開けるか、じゃない」

「うん。置く。入口を」

 僕らは同時に言って、また笑った。


 ビルの入口で別れる時、花乃が小さな缶を僕に差し出した。

「これ、ダブった。……余白に置いといて」

「余白に?」

「あなたの机、いつも空いてるから。誰かが座れるみたいに」

 言われて、僕は自分の机の“片付かなさ”を思い出し、少し赤くなった。けれど反論はしなかった。余白は、整っていなくても作れる。大事なのは、そこに“置いていい”と許すことだ。

「じゃあ、僕も」

 僕はポケットから小さなシールを取り出した。仕事用のノートに貼ろうとして、貼れずにいたもの。無地の吹き出しだけが描かれた、何も言わないシール。

「これ、あげる。言えない時に、貼る用」

 花乃は受け取って、吹き出しを見た。

「……便利」

 たぶん彼女は、便利という言葉に、少しだけ救われるタイプだ。


 エレベーターの扉が閉まる。ガラスに映る自分の顔が、少しだけ柔らかい。

 明日、またすれ違うかもしれない。けれど、その時は、二つしかないふりをしない。選択肢を増やす。入口を残す。笑える余白を、机の端に置いておく。

 それだけで、今日より少し、世界は回りやすくなる気がした。


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