『二つめの選択肢』
昼休みの会議室は、いつもより静かだった。蛍光灯の白が机の木目に貼りついて、誰の言い分も同じ温度で冷ましてしまう。窓の外では、ビルの谷間を風が通り、どこかで誰かの笑い声が跳ねた。こっちは、笑う余裕を探している途中だ。
向かいの席で、花乃が腕を組んだまま、僕のノートの端を見ている。彼女は「整理」の人だ。余計なものを削って、筋を通す。僕は「余白」の人だ。削られる前に、置き場所を作っておきたい。
部署の皆は、僕らを二つのタイプに分けて楽しんでいるらしい。「守る人」と「広げる人」。会議の前に誰かが冗談で言った。「今日も対決? 二択の勝負だね」って。まるで、世の中のボタンが二つしかないみたいに。
「この文言、強すぎると思う」
花乃が言った。手元の原稿には、太字の注意書きがいくつも並んでいる。
「強くしないと届かない、って判断もある」
僕が返す。原稿の余白に、入口の案内を書き足したい気持ちがうずく。
「“届く”っていうのは、誰に?」
「困ってる人に」
「困ってる人を増やす言い方になってる」
言い合いの形だけ整っていく。互いの粗探し。ここ数年、僕らはそれを仕事としても、生活としても覚え過ぎた。社内のチャットでも、世間のコメント欄でも、相手の一文を針でつついて穴を見つける。その穴から「ほら、あなたはこういう人だ」とラベルを投げ込む。
今日の議題は、地域イベントの注意喚起ポスターだった。会場の安全のために、ルールを周知したい。だけど、ルールは武器にもなる。花乃はその点に敏感で、僕は逆に「やさしい言い方は読み飛ばされる」恐怖を抱えている。
「一回、現場の空気見に行かない?」
僕が言うと、花乃は「時間ない」と即答しかけて、途中で止めた。止めたのは、時間じゃない。自分の即答癖だ。
「……今日の夕方なら」
「じゃあ、行こう」
夕方。僕らは会場予定の公民館へ向かった。途中で、イベントの公式アカウントに届いた通知がスマホを震わせる。投稿した告知文への返信だ。
『ルール多すぎて息苦しい』
『こんなの守れない人は来るなってこと?』
『いや、当たり前だろ。守れないなら帰れ』
五分で、二つの陣営ができて、互いを殴り始める。殴り始める速度だけは、いつも世界最速だ。
「コメント欄、閉じる?」
花乃が言った。彼女の“整理”は、燃え広がる前に火元を断つ。
「閉じたら、今度は“言論弾圧”って言われる」
「言われる前提で動くの、嫌」
「……僕も」
その一言で、花乃がちらっと僕を見る。会議室の時みたいに、刺さった表情だ。僕は画面をスクロールしながら言う。
「閉じるかどうかじゃなくて、第三の動き方が欲しい。ルールを出すなら、理由と、助け舟もセットで」
「助け舟」
「困ったらスタッフに声かけてください、ってやつ。来るな、じゃなくて、来ていい、でもこうしてね、って」
花乃は頷きかけて、また途中で止めた。頷くと“全面同意”になってしまうから。彼女は同意の代わりに、メモを取った。
公民館の入口で、準備担当の高齢の男性が鍵を開けてくれた。床はワックスの匂いがして、壁には昔の運動会の写真が貼ってある。花乃は掲示板の前で立ち止まり、貼り紙の角を指でなぞった。几帳面な癖が出る。
「ここ、導線が狭い」
「人が詰まるね」
「詰まったところで、誰かが強い口調になる」
「強い口調って、伝染するんだよな」
僕が言うと、花乃が「伝染」と繰り返した。
「だから、最初の一言が大事。強い一言を置くと、みんな強くなる」
「でも弱い一言だと、誰も読まない」
「……うん」
僕らは同じ壁にぶつかっている。方向が違うだけで、足の痛みは似ている。
帰社して、ポスター案を詰め直す。花乃はルールを短くし、僕は入口の案内を足す。コメント欄には、当たり障りのない返答を一つだけ置いた。「ご意見ありがとうございます。現場で困った時のために、案内も追記します。」それだけで炎が消えるわけじゃない。けれど、火に油を注がない選択はできる。
夜。プリンタの前で紙詰まりを直していると、背後から「ちょっと」と声がした。花乃だ。いつもなら用件だけ投げて去る人なのに、今日は立ち止まっている。
「さっきの。決めつけが嫌い、って」
「うん」
「私、あなたのこと……“甘い人”だと思ってた」
言われ慣れた単語だった。僕自身も、自分をそう呼んだことがある。けれど花乃の口から出ると、それは否定ではなく、観察の結果みたいに聞こえた。
「あなた、誰にでも優しい顔するから。結果、守れないこともある、って」
花乃は紙束を抱え直した。「守れない」と言うときの声が、少しだけ掠れている。
「僕は、花乃を“冷たい人”だと思ってた」
「……冷たいのは、私の得意技」
冗談みたいに言うのに、目は笑っていない。得意技って、身につけた理由が必ずある。
プリンタが、直りました、という音を出した。紙が一枚、静かに吐き出される。白い余白が眩しい。
その日の帰り、ビルの一階の小さなカフェで、僕らは偶然同じ列に並んだ。雨が降り出して、外へ出る勇気を失った人間が寄り集まる場所。メニューの黒板には、限定の焼き菓子が二種類だけ書いてある。
「どっちにする?」
僕が訊くと、花乃は黒板を見たまま黙る。たぶん、二択が嫌いなのだ。二択は分断の入口になる。片方を選べば、もう片方を否定した気になってしまう。
「……半分こ、って手もある」
僕が言うと、花乃の口元がわずかに緩んだ。
「甘いのと、しょっぱいの?」
「うん。二つとも。否定せずに済む」
僕らは店員に、二種類を一つずつ頼んだ。トレーに乗った紙皿が二枚、机の上に並ぶ。花乃が袋から、小さな缶を出した。蓋に、見覚えのあるキャラクター。僕が中学の頃、こっそり集めていた古い漫画の、端役だ。
「それ、まだ出回ってるの?」
「再販、してる。……知らない?」
「知ってる。むしろ、好きだった」
花乃は目を丸くした。「え」と、普段出さない音が漏れた。
「あなた、そういうの、興味なさそう」
「興味があるものは、見せびらかさないタイプなんだ」
言った途端、僕は自分の言い方の格好つけに笑いそうになった。花乃も、耐えきれなかったみたいに、小さく息を吐いた。笑いの入り口は、こういう瞬間にある。大げさな共感じゃなくて、肩の力が抜けるズレ。
焼き菓子を割ると、熱い蒸気が立って、甘い匂いがふわっと広がった。花乃が「これ、危ない」と言った。
「何が?」
「こういう匂い。気が緩む」
「緩んだら、ダメ?」
「……緩むと、思い出すから」
花乃は缶の蓋を指で撫でた。きれいな爪。だけどその動きが、やけに慎重だ。
「昔、誰かに言われた。“優しい言い方は、責任を取らない逃げだ”って」
「ひどい」
「ひどいけど、当たってる部分もあった。私は、逃げたくなくて……だから、強い言葉を選ぶ。強い言葉は、逃げ道を塞ぐから」
僕は口の中の甘さを、ゆっくり溶かした。強い言葉は、逃げ道を塞ぐ。つまり、相手の逃げ道も。
「僕は逆だ。強い言葉を使うと、誰かが折れる。折れた人は静かになる。静かになった人は、助けを呼べない」
「だから、余白を作る?」
「余白があると、遅れてきた人が座れる。声の小さい人が、置ける。……そう信じてる」
花乃は頷きかけて、途中で止めた。頷くと“同意”になってしまう。彼女は同意の代わりに、質問を選んだ。
「じゃあ、ポスターはどうする?」
ようやく本題に戻る。でも、戻り方が違う。相手を刺すためじゃなくて、並んで考えるための問いだ。
「二つの文言を、同じ紙に載せるのは?」
「矛盾しない?」
「矛盾に見えるだけ。ルールの線は引く。けど、困ったら来ていい、って入口も書く。注意と案内をセットで」
花乃は少し考えてから、トレーの端に指を置いた。
「入口、必要」
たった四文字で、空気が変わる。会議室で何分もやっていた戦いが、同じ四文字を得るための遠回りだったみたいに。
翌日、部署の朝会でポスター案を出した。花乃の短いルール文と、僕の案内文が上下に並ぶ。上司が眉を上げた。
「注意喚起なのに、“困ったら来てね”って甘くない?」
花乃が口を開くより先に、僕は答えた。
「甘い、じゃなくて、止めるための入口です。守れない人を排除するんじゃなくて、守れる形に寄せるための」
言いながら、僕は花乃の顔を盗み見た。彼女は、ほんの少しだけ口角を上げていた。承認でも同意でもなく、たぶん“許可”。僕が勝手に花乃を背負うのを許してくれた表情。
朝会は拍子抜けするほどあっさり終わった。「まあ、やってみよう」と言われた。二択の勝負だと思い込んでいると、第三の案が通った時に呆気なく感じる。
イベント当日。公民館の入口に、僕らのポスターが貼られた。紙は少し湿気っているけれど、文字は読める。会場には子どもが走り、保護者が追い、ボランティアが笑っている。世界は二択じゃ回らない。ここには、やることと、見守ることと、手を貸すことが同時にある。
開始から一時間ほどで、小さな揉め事が起きた。列の順番を巡って、二人の来場者が声を荒げたのだ。周りの空気が一気に硬くなる。硬さは、伝染する。
花乃がすっと前に出た。声は低く、短い。
「止めてください。危険です」
強い一言。場の背骨を立てる言い方。二人の動きが止まる。
僕はその横に並び、少しだけ柔らかく続けた。
「順番、見落としがちですよね。こちらで整理します。今、どこから並び直せばいいか一緒に確認しましょう」
花乃が僕を見る。僕が勝手に“柔らかい役”を取ったことを咎めない目だ。二人は互いの顔を見て、少し気まずそうに息を吐いた。
「……俺が先だと思った」
「私もそう見えた」
視点が違うだけ。そこに悪意がない時、解決は意外と早い。花乃が列の端を指し示し、僕が次の案内をする。最後に二人が小さく頭を下げ合った。謝罪というより、着地のための儀式みたいな動き。
周りの空気がほどけ、誰かが「助かった」と言って笑った。笑いも伝染する。良い方に。
片付けの時間。壁のポスターは、端が少し丸まっていた。花乃がテープを押さえ直しながら言う。
「今日みたいに、強い言葉と、案内がセットだと……」
「うん」
「守れる」
それは、彼女の“勝ち”でも僕の“勝ち”でもない。二つの得意技が重なった場所の、小さな成果だ。
帰り道、雨上がりの歩道に街灯が映って、二重の道ができている。花乃が傘を閉じながら言う。
「私たち、似てるね」
「似てるって言うと、また二択に戻る気がする」
「じゃあ……重なるところが、ある」
その言い方が、彼女らしい。重なる、は否定を含まない。
僕は笑ってしまった。花乃も、今度は隠さず笑った。腹を抱えるほどではない。けれど、胸の奥に残っていた硬い塊が、少しだけほどけるくらいには。
「次は、コメント欄どうする?」
「閉じるか、開けるか、じゃない」
「うん。置く。入口を」
僕らは同時に言って、また笑った。
ビルの入口で別れる時、花乃が小さな缶を僕に差し出した。
「これ、ダブった。……余白に置いといて」
「余白に?」
「あなたの机、いつも空いてるから。誰かが座れるみたいに」
言われて、僕は自分の机の“片付かなさ”を思い出し、少し赤くなった。けれど反論はしなかった。余白は、整っていなくても作れる。大事なのは、そこに“置いていい”と許すことだ。
「じゃあ、僕も」
僕はポケットから小さなシールを取り出した。仕事用のノートに貼ろうとして、貼れずにいたもの。無地の吹き出しだけが描かれた、何も言わないシール。
「これ、あげる。言えない時に、貼る用」
花乃は受け取って、吹き出しを見た。
「……便利」
たぶん彼女は、便利という言葉に、少しだけ救われるタイプだ。
エレベーターの扉が閉まる。ガラスに映る自分の顔が、少しだけ柔らかい。
明日、またすれ違うかもしれない。けれど、その時は、二つしかないふりをしない。選択肢を増やす。入口を残す。笑える余白を、机の端に置いておく。
それだけで、今日より少し、世界は回りやすくなる気がした。




