095 樽酒
ブリヤート人の部隊が去って道が空いた。われらは一目散に北進する。諸方面から砲声が轟き、南方と東方からは銃声も頻りになった。食事を摂る暇はなく、朝からずっと歩き続けている。とにかく停止するという考えが少しも起きない。疲れも空腹も眠さも感じず、足は勝手に前に出た。
午後2時頃、大きな松が茂っている山の斜面に達した。ここではじめて30分の休憩をとった。主計官は乾麺麭と缶詰を配ったが、誰も彼も食べるよりも地面に脚を投げ出していたかったらしく、食べようとしない。
前方の街道上から濛々たる塵烟が巻き上がった。焚き付けた火は、強風に煽られて炎々と燃える。ふと見上げると、松の梢には白地に赤十字を描いた旗が翻っていた。旗の注記を見ると、此処にはチェルケス人部隊の繃帯所があったのだとわかった。わずかな休憩時間ながら少し気になって繃帯所跡の様子を窺うと、出血が続いたまま止血さえ処置されずに横たわる重傷者が何人もいた。どうやら旗のみを残して、医官も看護卒も去ってしまったらしい。気の毒だが、われわれには手の施しようが無かった。繃帯も医薬品も、衛生資材は梱包したままだし、荷を解いている暇はない。
もう、山の後ろにまで銃声が迫ってきた。流れ弾も飛んでくる。山の上からチェルケス人が叫んだ。
「脚をやられている。俺には構わず、先へ行け」
その後ろには日本兵が迫ってきている。彼は捕虜となるのか、それとも最後の抵抗を試みて死ぬつもりなのか。いや、そんなことより自分の身を心配すべき場合だ。私は夢中で駈けだした。
遠い、遠い、果てなく続く鉄路の向こうの本国は、いまどうなっているのか。考えたところで仕方ないことが頭に浮かんでは消えた。紛失物品に対する賠償の責めを負わねばならぬとて、主計官は当面必要の無い官品をも棄てようとしなかった。そのために人馬がどれほど苦難を強いられていることか。この大釜を棄ててしまえば榴霰弾を浴びた重傷者を何名か乗せていけるというのにだ。銃声は刻々と近づき、かつ激烈となった。路上に倒れ伏した傷者を捨て置いて北進しなければならない。いつだったか、たとえ捕虜となっても重傷者とともに残ろうなどと思ったこともあったが、私の足は勝手に走り出してしまったのだ。
幅広く両側を生け垣で仕切られた街道上を、各輜重車は塵埃に包まれながら互いに密接して行進する。街道に面して3戸の家屋があり、清国人の群衆に取り巻かれていた。此処にはロシア軍の倉庫があるが、もはや焼き捨てるほか仕方が無い。倉庫番は思い切って扉を開放し、通過する部隊に何でも右から左へと見境なしに分配していた。われわれも馬糧の燕麦と、缶詰とを貰った。いよいよ自分も逃げるとなれば、品々を焼かずに清国人に渡そうというのだった。
「命令は、日本兵に渡すなだったからな」
ということで、清国人の群衆は倉庫番が逃げ出すときを、今や遅しと待っているのだった。
倉庫番は医長に
「火酒を樽ごと渡しましょう。消毒にも使えるし」
と、申し出た。けちんぼダヴィドフの眼は輝いたが、しかし輜重車に空きが無い。
「せっかくですが」
と、主計官が断ってしまった。兵卒たちは火酒を貰わなかったことを怒って、小声で主計官に憎まれ口を叩いた。
「それじゃあ……」
と、倉庫番は樽の鏡板を叩き割って、柄杓と漏斗で望み次第に火酒を分配し始めた。兵卒たちは、みな水筒を差し出して配当を受けた。毛皮帽を脱いで、その中に火酒を汲み込む者もいた。帽子一杯となると、たいへんな量だが、兵卒たちは一気に飲んでしまった。
飲んだ兵卒の足取りが覚束なくなったのは当然だが、生命の危険が迫っている場合だからか、みなそれなりの速さで歩くことが出来た。神は人間を巧く創り賜うたものだと、そのときは心から思ったものだった。




