086 防勢
スルタノフの病院には新顔のカメネワという特志婦人がいた。亭主は砲兵士官で、わが軍団に属しているという。彼女は一人の子供を家に残して夫の側近くに出てきたのだ。常々彼女は張り詰めた表情をしており平素から昂奮気味だ。彼女の親族は有力な政治家だというので、夫もともに後方勤務へ異動させるよう周旋してはどうかと周囲の者みな提議したが、彼女は周囲の人々に対して失望の色を見せ、
「もし、夫が後方勤務を希望したなら、もう彼に取り合いません」
と、答えた。
腹の据わった若奥様だと思ったが、例の11インチの砲声は聞き慣れぬ様子で、一発轟くごとに青白くなった。
砲声は逐日激烈となり、また、日本軍が西方から奉天の背面へ迂回しているとの不確かな報知が、われらに大なる恐怖心を惹起した。そのせいでもあるまいが将校用の病室は満床になった。ある者は咳嗽、またある者は発熱など、他覚症状があればまだしも、局所的な痛みやしびれ感などの神経症状は自覚症状でしかなく、確認しようがない。確認できるのは将校用病室では骨牌遊戯に耽る者が大多数で、苦痛を堪えながら横たわる者は稀だということだ。
夕闇迫る17時過ぎ、わが病院の上を通り越した巨弾が奉天北方に落ちた。当然ながら、わが病院は11インチの射程内だということだ。あるいは西方から奉天の背後へ迂回した日本軍が11インチを運んで行ったのか、そんなことを同僚医官と論じていたところ、病室の将校たちは
「莫迦なことを」
と、嗤った。とうてい馬で何処までも牽いて行けるような大砲ではないのだということだ。鉄道の沿線でなければ弾薬を運ぶことすら難しいらしい。だとすると11インチは奉天周辺全域を狙える位置にいるのだろう。
馬糧調達のため奉天西方の村落に赴いた或る主計将校が、その帰途に北方へ向けて行進する日本軍の縦列を見たという。しかし、その報告書に対して軍団長は
――馬鹿
と大きな字で書き加えたうえ、虚偽の風説を流布する者だとして軍法会議にかけると言って憤ったそうだ。
巨弾は奉天の北方、わが病院の背後に向けて弾着が続いた。かつまた、全正面に日本軍の野砲が放った砲弾が狂暴して唸っている。野砲は一分間に14発乃至15発もの砲弾が破裂する。その砲撃が止んだとき、いよいよ日本兵が突撃してくる。いよいよ危ないとなれば、わが遊動野戦病院は比較的短時間のうちに輜重車に資材を積み込んで移転してしまえるが、師団病院や赤十字病院など固定的に運用される病院に対しては本日付を以て撤収命令が出たそうだ。すぐに資材を梱包して北方へ向かう列車で避退せよとのことで、いま慌ただしく作業していることだろう。
いまも様々に噂が飛び交っている。西方に向かった日本軍は、すでに奉天北方で鉄道線路を遮断しつつあるとか、ノギ軍は遠大なる迂回の末に公主嶺に達したとか、だとすれば、われわれは捕虜になるだろう。これまでの日本軍の優等生ぶりから考えて医官や看護師を殺すようには思えぬのだが、四半世紀前の内戦まで敵の首を狩り集める獰猛さを残していたということを私は記憶している。
気がかりなのは病床の重傷者だ。移転となっても棄てて行くわけには行かぬ。後送列車に引き継ごうにも、次の列車が出るかどうかも定かで無い。医長が何と言おうが、私は動かせぬほどの重傷者に付き添って一緒に捕虜となることを考えていた。しかし、それまで巨弾が私の頭上に落ちなければの話だが。




