083 予感
奉天へ戻ってみれば、列車が立ち往生していた間に様々な情報が飛び交っていた。なかでも「近日、次なる会戦が生起する」という噂が勢いよく広まっているけれども、いわゆる「神の啓示」のようなもので根拠は薄い。
そのような雑音を聞き流しながら、私は急いで病院へ戻った。申請した休暇の期限は疾っくのとうに過ぎている。病院に着いて、まず医長へ帰還を申告すると
「ドクトル、今後より一層、働いてもらうぞ」
とだけ言われ、なんら沙汰は無かった。主計官は私が病院へ帰れないかもしれぬと気を揉んでいたそうだ。
「日本軍の騎兵が、わが軍の後方まで入り込んでいるとの噂があります」
奉天よりも後方に位置する鉄嶺に重武装の馬賊が現れたそうで、
「その馬賊は、日本兵の変装かもしれません。あるいは日本軍に金で雇われた馬賊かもしれない」
などと噂になっているらしい。こう言っては身も蓋もないが、われらロシア軍は清国人の恨みを買うだけのことをさんざんして来ている。馬賊とて清国人ではあるわけで、ロシア兵が清国人の首を刎ねたり、家屋を破壊したり、あらゆる品々を略奪したり、あげくに墓を暴いたりするのを見て、われわれを憎いと思うのは当然のことだ。たとえ日本軍の示唆が無くとも、馬賊にはロシア軍を襲うだけの理由があろう。
それら馬賊とは別に、日本騎兵の一団が大胆不敵にもロシア軍の後方深くまで潜入してきたという噂もあった。兵科将校は「そのような作戦は不可能だ」と一蹴した。清国人の手引きがあるならともかく「地図もない未踏の地域に活動することなど出来ぬ」ということだった。電信によって即時に情報を伝えることが出来るのは地域を支配している側だけだ。敵地に潜入した者は電信を利用出来ぬので如何なる事態が起きようと独立行動で切り抜けねばならず、圧倒的に不利な状況となる。先日、われらがミシチェンコ騎兵団も日本軍の後方へ侵入したが、兵站基地を破壊するという目的を達しないまま帰還したのだそうだ。
次なる会戦の開始を予言する噂話のなかで、最も多く流布しているのは2月12日に両軍が衝突するというものだった。それを信じたわけでもないが、わが病院の医官も看護師も、また主計官にしても、遠からず会戦が始まると想定したうえで諸準備を重ねている。
月遅れで届いた本国の新聞には「吾人は日本人よりも多数の軍隊を有す」と、国民を欣喜雀躍せしめる論説が載っていた。その多数の軍隊すべてが極東にいるわけではない。よしんば50万の軍隊を極東へ送り得たとして、それら50万の兵を養うだけの物資を送り続けねばならぬ。たった一本の単線鉄道でだ。
新聞には載っていなかったが、帝都に於いて皇帝崇拝の観念をもっていた10万の民衆が、皇帝と民衆を和解させるという神聖な使命のもとに争議行為を起こしたという。而して、それら民衆に向けて警備部隊が発砲し、死傷者は数百人に及んだとのことだ。この痛ましい事件のことは、新来の補充将校から耳打ちされて知った。
やがて、帝都には旧来の秩序を破壊し尽くすほどの暴れ方をする得体の知れぬものが生まれ出てくるのではないか。そのような非常なる大怪物が現れるという漠然とした予感が、言葉には表しがたい不安を私のなかで育て始めた。




