041 肉汁
わが病院周辺の停車場や待避線上には、至る処、野戦病院がある。そのうちの幾つかは依然として開設命令を受けず、会戦の最中であるにも拘わらず待機させられていた。遊動野戦病院の天幕は薄緑色の縁が附いた白い帆布で、掲げられた赤十字旗とともに、遠目にも野戦病院であると認識できる。
ある日、担がれてくる負傷者がなかったので、他の遊動野戦病院の天幕で手持ち無沙汰な医官を見掛けて話しかけた。
「そちらは、どうですか?」
彼は笑いながら
「僕らは担がれてきた負傷者の名前を帳簿に書いて、負傷者に票札を書いてやって、病院列車に送る。それだけじゃ。ちっとも世話を焼いてやれぬのじゃ」
と、医療者としての遣り甲斐の無さを嘆いた。
たまに切開術をすることはあるが、大半は傷を診て、繃帯を換えて、そのまま後送するだけなのだ。単に傷者が通り過ぎるばかりの通過点になっているということは、私も同意するところだ。医官よりも張り切っているのは主計官だ。各人に対して幾らの費用を掛けたかを熱心に勘定した。それが病院としての実績になるからだ。彼奴らは傷者が来るのを手を揉みながら喜んでいる。それは、どの遊動野戦病院でも同様のことだとわかった。病院に於ける業務は、斯くの如し。
わが病院は、他の師団の病院に場所を譲った。その頃、奉天付近の石小屋に開設された野戦病院の状況は、まったく異なっていた。廠舎内には水門が破れて洪水が押し寄せたかのように傷者が送られてくる。のべつ幕なしにだ。どの戸口も血に染まった繃帯を踏まねば通れない。傷者は寝台の下にも、寝台と寝台の間の隙間にも、玄関にも、出入りする戸口にも、屋外に張った天幕さえも一杯になり、ただの地面で雨に打たれながら寝かされている傷者もいた。
庖厨では、ありったけの釜という釜で肉汁が煮られた。傷者は飢えているだろうと思ってのことだったが、実際には大半の傷者が飲み水を渇望していた。むしろ塩味がついた生温い肉汁は、嘔吐を催して受け付けなかった。傷者らは一様に「水をくれ」と訴えているが、すべての釜で肉汁を煮てしまったので、煮沸水がなかった。随所で赤痢やチフスが発生しているため、生水を与えることは出来ない。
この奉天の廠舎で何をしているかと言えば、わが病院と同じく遊動野戦病院として後送業務を担当している。南方から来る列車が奉天に停車して傷者を下ろす。その傷者を廠舎に受け入れるが、また翌日には停車場まで運んでいって後送列車へ引き継ぐのだ。つまりは傷者の一時預かりでしかない。
傷者にとっては冷酷極まる扱いだが、規定に従う限り、そうせざるを得ない。上層部は、この方式が合理的であると夢想しているようだ。傷者にとっては安静と休息が最良の治療手段であるのに、不衛生な貨車に詰め込まれ、途中で下ろされて野戦病院まで馬車に揺られ、また馬車に揺られて停車場へ戻され、また貨車に詰め込まれる。彼方から此方へ、絶えず傷者は揺られているのだ。
わが病院から停車場へ送られる傷者らは異口同音に、傷の痛さより馬車や貨車で揺られることの方が甚大な苦痛であると語っていた。重傷者が停車場に着く前に馬車の上で息絶えることも珍しくなかった。戦場に遺棄された重傷者で、野犬に怯え、三日も飢渇に苦しみながら救護を待ち、ようやく収容されたという話も聞いた。そのような傷者を、わが軍は惨酷に扱っている。
これらの惨酷な規定に反抗して、廠舎の一部を重傷者専用とした野戦病院があると聞いた。其処では快復が見込める重傷者を後送列車へ引き継がず、自院内に留め置いた。その結果、24人が快復して戦線に復帰したという。腹膜炎、肋膜炎を起こした傷者が各一人ずつ居たが、これもほどなく快復したという。




