039 異界
われわれの未開設病院に「負傷者収容を準備せよ」との命令が届いた。直ちに三つの大天幕を張り、診察室、手術室、調剤室を設備し、藁を布団に詰める。兵卒たちはよく働いた。長き無聊に飽きて、仕事が恋しくなっていたようだ。
その翌日、車軸を流す豪雨の中を、傷者運搬隊が到着した。幌すらない無蓋の二輪馬車に乗せられた傷者は、雨に打ち叩かれて寒さに震えていた。病院附きの兵卒たちは熱心に働き、懇切に傷者を担架へ移し、天幕へ運び込んだ。
真っ赤な仮面をつけたような傷者は、榴霰弾の破裂によって負傷したらしい。まだしも顔面は軽傷の部類だが、両手は押し潰され、全身に火傷があった。ほかに腹部の負傷者が居て、深いため息を吐いていた。もう一人、若い兵卒が寝台に横たわっていて、脛に触れると子供のように泣いた。
これら傷者に付き添う下士官にも銃創が三つあった。彼は三日間も戦場で転がされたままでいたということだ。彼の聯隊は、日本軍に占拠された村落に於いて突撃を敢行したのだという。その状況を、彼は熱く物語った。
「聯隊長がね、小僧ども、日本人を追い払えと言ったんですわ」
彼の語るところによると……
その村に日本兵が居ることは判っていたが、一発も撃って来ない。将校は「並んで行け、駆け出すな」と、まるで練兵場で教練するように号令した。兵卒たちはハラハラしつつ、一歩間隔に並んで歩いた。日本兵は無言のまま待ち受けており、ほとんど銃口が触れるまでにロシア兵を引きつけておいて、一斉射撃した。四辺に埃が渦を巻き、ロシア兵はバタバタ倒れる。
「突撃にぃ、前へ!」
聯隊長の号令が飛び、ロシア兵は続々と手近の日本兵に格闘を挑んだ。その間にも互いの小銃弾は飛び交う。
「さぁ、小僧ども、いまこそ突進せよ」
と、彼は兵卒たちを励ました……という彼の武勇譚を、病院附きの兵卒たちは熱心に聞き入っていた。
薄暗い天幕では灯火が寂しく燃え、此処も彼処も溜息と呻吟で充ちていた。看護師は傷者に茶を飲ませ、医官は繃帯を解き、傷を診て、新しい繃帯に代えた。やがて繃帯布が尽きたので兵卒を薬剤官の所へ遣ったが、請求書を出さねば出せないと言われたそうだ。つぎに看護師を行かせたが、またしても手ぶらで戻ってきた。
調剤室は薬剤官が支配する異界だ。その業務に於いては、毛程の変則も許さないのだ。調剤室に居る限り、彼は誰からも命令を受けつけず、ただ規則にのみ従っている。私は、この異界に踏み込み、魔王を屈服させようと試みた。
「早く繃帯をくれ、傷者の出血が続いているんだ。請求書は後で書くから」
と、勢い込んで言ってみたが
「傷者をどうするかは医官の責任だ。請求書なしでは繃帯を出さぬのが俺の責任なんだよ」
薬剤官は一向に受け付けない。
「ならば、請求書の用紙を出せ。ここで書くよ」
というと、用紙は一枚も無いという。輜重車に積んだまま雨に濡れて、使用に耐えなくなったので廃棄したのだそうだ。
「用紙が要るなら帝都の陸軍官衙へ請求しろ。そっちの仕事だ。なんなら主計官に取り寄せさせるのでも良いが、なんであれ用紙が帝都から送られてくるまで、俺は何ひとつ請求を受け付けないからな」
結局、この難敵を屈服させるためには医長の介入が必要だった。この薬剤官は不正支出の嫌疑で検挙され、速やかに代理が任命された。おそらくは医長が自分の不正行為を薬剤官の仕業に見せかけたのだろう。しかし、私は医長に魔術の種明かしを望まなかった。業務上の支障は取り除かれた。それで良いのだ。




