020 利己
国境守備隊の中佐が、われわれの列車に便乗してきた。狭い客車のなかで将校たちが骨牌遊びに興じているのを、その傍らに立って見物していたところ、その中佐も興味深げに近寄ってきた。そこへ私の同僚である医師が
「どうでしょう、中佐殿。われわれの列車は時刻表どおりにハルピンまで行くことができるでしょうか?」
と、問いかけた。
「滅相もない」
中佐は即答した。おそらく二日や三日は遅れるだろう、ということだ。私から
「国境を越えて満州里から先は、時間どおり列車を運行しておるようですが?」
という甘い見通しを披露すると
「いま、ハルピン内外には37列車が犇めいているのですが、そのように詰まってしまったのには、さる事情がありまして……」
極東総督エヴゲーニイ・アレクセーエフの専用列車がハルピンに居座り続けていることで、鉄道の運行に支障を来しているという。
総督アレクセーエフは、ツァーリから全極東の陸海軍指揮権を委ねられているということだ。海軍出身でありながら、われら陸軍の司令官クロパトキンに対しても命令権を有しているということに呆れたが、そもそも旅順にいて提督マカロフ戦死後の空白を埋めるべき立場であったのに、旅順が孤立する危険を察して遙か北方へ向けて脱出してきたということにも開いた口が塞がらぬ思いだった。
その総督が居ることで運行に支障が出るというのは、
「列車の警笛や、鉄輪が軌条の隙間を踏む際に起こす走行音が、総督の安眠を妨害するとて、夜行列車の運行が抑止されているのですよ」
それゆえ本国へ向けて戻す列車が停留し続け、ついに37列車を数えるに至ったのだと、中佐から事情を知らされた。中佐は、紙の上に刻んだ煙草葉を載せて巻きながら
「ハルピン停車場は、まったく酷い有様です」
と、実地に見聞したことを語り始めた。ハルピンには新築の立派な駅舎があるに拘わらず、その新駅舎は総督専用として他に利用させないのだという。ゆくゆくは「極東総督、兼ねて極東陸海軍総指揮官」として司令部を設置するという名目はあるにせよ、内陸から艦隊を指揮するのは困難だし、陸軍の指揮権はクロパトキンが掌握しており、いったい何を指揮するというのか?
狭く不衛生な旧駅舎に、列車から下車した人々が詰め込まれ、兵卒たちは缶詰の鰯の如く隙間無く並べられて眠り、蚤、虱、壁蝨に悩まされ、将校は通路に、医官は桶の中で折り重なって眠り、看護師は自分の行李の上に丸くなって眠る、という状態なのだとか。蚤などの害虫は、単に不快なだけでなく、様々な病原を運んでくる。まだ清潔が保たれている新駅舎の大広間は総督の雨天運動場とされ、ただの開かずの間になっているとのことだ。
中佐は巻き終えた煙草に火を点けた。
「戦闘で死ぬなら軍人の本望ですがね……」
劣悪な環境で過ごすことで、病死してしまった兵卒たちがいる。敵ではなく、銃弾でもなく、味方による書類上の手続きによって理不尽な死が齎されているのだと、中佐は憤った。
「無益というに、斯様に無益な死はありますまいに」
そういうと、中佐は肺まで達するように深々と煙草を吸い込んで、一気に煙を吐き出した。私は医師として、そのような不衛生が軍隊に如何なる影響を及ぼすか、容易に察することができた。
そうなのだ、「新駅舎での宿営を許可する」という、ただ一片の命令が伝わりさえすれば、死なずに済んだ命が幾つもあったろう。




