021 憤懣
中佐は、その目で見たことを語り終えると、
「ここからは、伝え聞いた話になりますが……」
と、断りを入れてから、話を続けた。中佐の知人で、先頃、胸甲騎兵聯隊の見習士官に取り立てられた人物が居るという。聖ゲオルギー勲章を授与されるほどの武功を挙げた男だそうだ。彼は一ヶ月余りの偵察任務を終え、原隊に戻る途中で遼陽を通った。そして主計官に「馬糧をください」と頼んだところ、書面での請求が必要だという規則を盾に撥ね付けられてしまった。彼は長期に及んだ偵察任務で立て替え払いのために私金を使い果たしており、市中で馬糧を買うことが出来ないと訴えたが、とうとう追い返されてしまったとのことだ。
主計官の本音は、1頭でも馬を減らしたいのだろう。馬は繋いでおくだけでも秣や麦などを呉れてやらねばならぬ。そのために馬糧の出納という手間が増えるわけで、馬は少ないほど仕事が楽になるわけだ。
「そのあと、一週間も経たぬうちに、遼陽を日本軍に明け渡しました」
と、中佐は話を続けた。遼陽から退却する段階に至って、その主計官は大量の秣や麦を焼いた。日本軍に馬糧を分捕らせないために必要な措置ではあったが、その作業のために前線への給養を止めてしまった。挙げ句には「馬が足りない」という理由で、退却する兵卒たちに砂糖や茶など嗜好品を詰めた箱を運ばせた。それらの兵卒たちの多くは三日も給養を受けていなかったので、みな憤怒していたということだ。
迫り来る日本兵は、退却しつつあるロシア兵に
「逃げて来い、温かい食事を与えるぞ」
と叫んで、投降を呼びかけたという。おそらく、捕虜となったロシア兵が自分たちの窮状を打ち明けていたのだろう。また、ロシア兵が襤褸服を纏っている様子から、わが軍の実情について日本軍は何事か察するところがあるだろう。その呼び掛けは効果があるらしく、武器を擲って飯盒のみを携えたロシア兵が投降する場面を見たということが、噂になっている。
クロパトキンは、清国人が騒動を起こすことを期待しているのではないか? というのが中佐の見解だ。
「この戦争に、なんらの理想もない。なぜ日本人と争わねばならぬか、将校も下士官も兵卒も、誰も知らぬのではありませんか?」
そのような状況に於いて軍人精神を説いたところで、誰が真面目に聞くものかと、中佐は力説した。
「しかし、清国の民衆が蜂起したなら、状況は一変します」
数年前の義和団事変では、民衆の蜂起に便乗して清朝政府が諸外国に宣戦布告した。その結果、ロシア軍と日本軍を含む八ヵ国連合軍が編成された。それと同様の騒動が起きれば「暴動に対処する」という大義名分が出来て、日本との停戦もあり得るし、わが軍の士気が上がり秩序を回復させることが期待できる、というのである。
われわれは、なんらの理想も無く極東の地を駆け回っている。私も含め、この大陸の東の果てに領土を拡大することを望む者は、わが軍の将兵のなかに一人もおるまい。
「戦争するにも、それなりの理屈が要るのです」
という中佐の言葉は、もっともな事に思えた。
骨牌遊びのために点された室内灯が、人々の顔を照らし出している。あたかも石像のように表情を固めた者が多いなかで、中佐は髭を逆立てて、微かに震えている。わが梯隊の輸送指揮官は、周囲を憚らぬ大声で熱弁を振るう中佐を、心配そうに見ていた。




