事態、急変
翌朝。
「お兄ちゃん! バイトの時間だよー! 起きなきゃキスしちゃうよー!」
俺はバッと跳ね起きた。舞依が、エプロン姿でベッドの傍に立っていた。
あれから、ティアラとシュトラウス王、そして隣国のゴルドシルバ帝国の皇帝とその息子との会食に付き添い、ティアラを王宮へ送り届けてから家へ帰ったのだ。
バイト三昧の日々で体力には自信があったが、1日歩き通しというのがさすがにきつかったらしく、シャワーを浴びてすぐ眠ってしまった。
「昨日、晩ごはんも食べないで寝ちゃったでしょ。バイトで疲れてるのは分かるけど、だからこそしっかり食べないとなんだよ? 今日はマイが朝ごはん作ったから、食べて食べて!」
「ん……あぁ…………」
寝起きではっきりしない頭と、まだ全身にのしかかるように残ってる疲労から、『ありがとう』と言うべき言葉の代わりに、大きなあくびが出る。
「ありがとう……ごめんな…………」
朧気に思い出される昨夜の記憶では、俺は既に用意されていた夕飯を素通りしたのだった。
俺のために作ってくれたごはんに、全く手をつけずに眠ってしまった。反応の鈍い脳が、それだけは察知して、やっと言うべき言葉を紡いだ。
「それは、はるかちゃんに言って。昨夜、晩ごはん作ってくれたんだから」
はるか――俺がコムレイズの使命を果たすため留守にする間、舞依の面倒を見てくれることになっている。
「そうか…………あとで言っとくよ」
舞依だけでなく、俺のことまで心配してくれるのか――俺は、自分の用事もある中で晩ごはんを作るはるかを想像して、胸が痛くなった。
食卓に着くと、炊きたての白米と納豆、スクランブルエッグとハムとソーセージが盛られた皿、シーザーサラダに味噌汁、うさぎ型に切られたリンゴが並んでいた。
「これ……舞依が?」
「そっ。昨日はるかちゃんが作ってくれた晩ごはんは、お昼のお弁当にして。はるかちゃんの方が上手だし、たくさん作ってくれたから、楽しみにしてて〜」
俺は驚きのあまり、一気に頭が冴えてきた。舞依の料理が、格段にグレードアップしている。
こないだまで、ご飯の炊き方もよく分かっていなかったのに。スクランブルエッグは黒い炭の塊みたいだったのに。味噌汁は味噌と汁が分離していたのに。
俺のために――舞依の献身に、俺は目頭が熱くなるのを感じていたんだ。
「えへへ〜、すごいでしょ。頑張ったんだから! ご褒美はおはようのキスでいいよ」
ふふん、と得意げな舞依。本当にすごい。料理の上達もそうだが、何より舞依の行いが、こんなにも俺の心を動かすんだ。
俺は立ち上がって、舞依に近寄った。今までは拒絶していたが、今日ばかりは応えてあげないといけないようだ。
いや。これからは、もう少し甘えさせてもいいのかもな…………。
「ち、ちちちょっとお兄ちゃん!? まさか、ほんとにキスするつもり!? ウソだよウソ! 冗談に決まってるじゃん! だって、マイとお兄ちゃんは兄妹なんだよ!? 兄妹がキ、キキキキスしたら、その…………ダメじゃん!」
それはちょっと理不尽じゃないかな。俺は、俺がいつも言っていることをほぼそのまま言ってくる舞依に一瞥をくれて、おとなしく椅子に座った。
まあ、そもそもいつものキスねだり自体が嘘なんだよな。今朝の感動に引っ張られて、つい真に受けてしまった。
うさぎ型のリンゴと同じくらい、舞依のほっぺたも真っ赤になっていた。
朝食を摂りながら、徐々にはっきりしてきた頭で昨日のことを振り返る。
シュトラウス王にティアラを頼むと言われ、そして――ルドルフからの忠告。
フレッド隊長が、ティアラ誘拐未遂に加担した裏切り者の可能性が高い。用心しろ、と。
「――ごちそうさまでした。すっごく美味しかったよ」
「ほんと!? えへへ……お粗末様でしたっ」
俺が朝食の感想を伝えると、舞依は照れて顔を斜め下へ向けた。そのほっぺたは更に赤くなり、もはやリンゴよりはイチゴに近い。
俺は空になった食器を台所で洗った。『マイがやるからいいよ』と言われたが、さすがに朝食を作ってもらった上に後片付けまでやってもらうのは気が引けたので、舞依の分もまとめて洗ってしまった。
はるかに昨夜の謝罪と、作ってくれた料理の礼をメッセージで伝え、弁当箱を包んで鞄に入れる。玄関で靴を履いていると、舞依がついてきた。
「お兄ちゃん、傘持った?」
「え? 今日降るのか?」
今朝の天気予報は、1日晴れのはずだ。俺は不意を突かれて、少し間の抜けた声で問う。
「うーん……なんか、そんな気がする」
窓から外を見ると、清々しいくらいの快晴だ。キャスターも、今日1日は洗濯日和だとか、5月の陽気が気持ちいいだの言っていたような。
ただ、雨はにおいで分かる人もいるらしいから、もしかしたら夕立ちとか急な雨の予感を覚えたりするのかもしれない。
俺は念のため、傘立てから折りたたみ傘を取り出して、はるかの弁当を傷めないように鞄の端に突っ込んだ。
「じゃあ、いってきます」
「うん。お兄ちゃん…………気をつけてね」
「ああ……」
普段と変わらないやり取り。なのに、どこか舞依の声が不安そうに聞こえた気がしたんだ。
俺はドアを開けて、ティアラが、そしてコムレイズの使命が待つ異世界へ行った。
――――――――――
ティアラの私室の隣――コムレイズの宿直室の前に、俺は立っていた。
廊下はドタドタと鎧を纏った王宮騎士隊の移動する音で埋め尽くされていて、何事か起こっていることは容易に想像できた。
そこへ、ちょうどティアラ、ルドルフ、そしてフレッド隊長の3人が通りがかるのが見え、俺は駆け寄った。
「あっ、ケイスケ様! よかった、いらっしゃったのですね!」
ティアラが俺の両手をつまみ、安堵の笑みを浮かべる。
「ケイスケ殿。本日明朝、我々は姫様を誘拐しようとした賊の正体と隠れ家を見つけました。
敵は【闘争を招くもの】と名乗る過激派組織です。おそらく姫様を拉致して、ヴァルス王国に対して何か要求するつもりだったのでしょう」
ルドルフが単刀直入に状況を説明してくれた。なるほど、今日はいきなり急展開みたいだな。
「貴様、某と共にウォーブリンガーを殲滅するぞ! ルドルフ、王宮に残り姫様をお守りしてくれ」
フレッド隊長が、俺とティアラを隔てるように立って言った。
「ケイスケ殿。これはまたとないチャンス。フレッド隊長に同行し、ウォーブリンガーと内通している裏切り者という証拠を掴んでください」
ルドルフが耳打ちしてくる。
「いや……ケイスケ様が行くなら、私も行きますわ!」
ティアラが叫んだ。一国の姫が、戦場についていくだって?
「姫様、なりませぬぞ! これは戦い。姫様が来てよいところではありませぬ!」
フレッド隊長が叫ぶ。
「私、ケイスケ様のお傍を離れませんわ!」
ティアラの声が、肩が震えていた。だけど、それはフレッド隊長に怒鳴られたからじゃない。
怖いんだ。ティアラは3人の賊――ウォーブリンガーの一味に誘拐されかけた。その時の恐怖が、まだ彼女を苦しめているんだ。
フレッド隊長は憎々しげに俺を睨みつけ、顎に手をやって考え込む。
「――仕方ない。某も王宮に残り、ここからウォーブリンガー殲滅作戦の遠隔指揮を執る」
フレッド隊長は代替案を練ると、足早に去っていった。
「姫様、お部屋へお戻りください。大丈夫です、ケイスケ殿が常にお傍についていますから」
ルドルフはドアを開けながら、ティアラに促した。ティアラは弱々しく頷き、俺に懇願するような眼差しを向けて中へ入った。
俺も、ティアラを守らなければならない。彼女の後をついていこうとすると、ルドルフが俺の二の腕を掴んだ。
「王宮にいた方が動向を探りやすいです。フレッド隊長の監視は、私が務めます。姫様の護衛は、ケイスケ殿に任せましたよ。姫様を不安にさせてはいけない」
「分かってる」
俺は短く答え、ティアラの部屋に入った。
窓から見えた異世界の曇り空に、不穏な気配を感じた。




