第二話 敵を知らずに、AIを怖がっていた
第二話 敵を知らずに、AIを怖がっていた
挑戦、三日目。
『孫子』が届いた。
思っていたより薄かった。
二千五百年分の知恵というから、もっと辞書みたいなものを想像していた。実際は、通勤カバンに入る文庫本だった。
机の上には、会社のノートパソコンも開いていた。
志村から任された、新規開拓の提案資料。来週の木曜に、一度見せることになっている。
表紙には、先方の会社名と日付を入れた。
二枚目から先は、白紙だった。
とりあえず日付を今日に直した。作業をした形跡は残った。
ぼくは文庫本を開いた。
前の持ち主は、ところどころに鉛筆で線を引いていた。
その線のいちばん濃いところで、手が止まった。
――彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。
これは知っている。
孫子を読んだことがない人でも、たぶん知っている。
「敵を知り、己を知れば、百回戦っても負けない」
ぼくはそう読んだ。
いや、正確には「百戦百勝」と読んだ。
隣のページに注があったが、読まなかった。
結論が先に手に入ると、人は注を読まない。
なるほど、と思った。
ぼくはおとといから、AIを怖がっている。
怖がっているくせに、アシスタントが何をできて、何ができないのか、ほとんど知らない。
十一秒で仕事を終わらせる、ということしか知らない。
だったら、まず徹底的に調べればいい。
敵を知れば、勝てる。
孫子もそう言っている。
いや、正確には「勝てる」とは書いていなかったが、そのときのぼくにはそう読めた。
「誰がAIと戦えと言った?」
二階堂さんの声は、まだ耳に残っていた。
戦う必要はない。理屈は分かる。
それでも、一つくらい勝てるものがないと、次の仕事を任されている理由までなくなる気がした。
勝てるものを見つけてから、あの白紙に戻ればいい。
ぼくは提案資料を閉じた。
準備から始めることにした。
*
その夜から、研究が始まった。
AIの性能比較の記事を読んだ。
プロンプトの書き方の動画を一・五倍速で見た。
社内ポータルの「アシスタント活用ガイド」を、たぶん社内で初めて最後のページまで読んだ。
ノートには、アシスタントの特徴がびっしり並んだ。
長い文章の要約が得意。
決まった形式の文書が速い。
社内の過去資料を参照できる。
ただし、資料にも入力にもない事情は、推測と確認を分ける必要がある。
ぼくは最後の一行だけ、赤で囲んだ。
そこだけ、少し弱そうに見えた。
そして週末。
ぼくは、アシスタントと自分を対決させることにした。
誰にも頼まれていない。
アシスタントのほうも、たぶん対決しているとは思っていない。
それでもルールは決めた。
同じ材料。
同じお題。
ぼくは自分で書き、アシスタントにも書かせる。
採点は、ぼく。
公平かどうかは、考えないことにした。
土曜の朝九時。六番勝負、開始。
最初は、会議録の要約。
ぼくは二十五分。アシスタントは四秒。
どちらも、会議の結論と担当者、締切は拾えていた。ぼくのものも、そのまま仕事に使える出来だった。
ただ、アシスタントのものも、そのまま仕事に使えた。
四秒で。
ぼくの要約には、会議の途中で出た冗談も一つ入っていた。それを独自性として加点するのは、さすがにやめた。
一対〇。
お詫びメールでは、ぼくは三十分かけて、謝りすぎて、もう一度謝る文面を書いた。
アシスタントのメールは、謝るべきところで一回だけ謝っていた。
二対〇。
提案書の叩き台。
これには時間をかけた。午後いっぱい使った。
材料は、過去の案件の相談記録だ。
任されている新規の資料ではない。そちらは、自分の実力が分かってから取りかかる予定である。
アシスタントは四十秒で、ぼくの午後と同じくらいの骨組みを出してきた。
見出しの順番まで、ほとんど同じだった。
ぼくが一から考えたつもりの構成は、どうやら世の中の「普通」だったらしい。
三対〇。
日曜に持ち越したアイデア出しでは、ぼくは十二個、アシスタントは五十個出した。
相手の案のうち三十個くらいは、どこかで見たことがあった。
ただ、ぼくの十二個のうち九個も、どこかで見たことがあった。
四対〇。
論点整理は、引き分けにした。
正確に言えば、アシスタントのほうが少しよかった。
だから、引き分けにした。
採点者の特権である。
最後に、顧客からの質問への回答。
「この見積もりの保守費用は、何年目から変わりますか」
過去に実際に届いたメールを、名前を伏せて使った。契約書も、同じものを材料にした。
アシスタントは即座に、契約書の条項を引いて、正確な答えを出した。
ぼくの答えは、遅かった。
しかも、聞かれたことに答える前に、一行よけいなことを書いていた。
「もしかして、来年度の予算の組み方でお困りでしょうか」
読み返して、自分でも首をかしげた。
聞かれてもいないことを聞き返している。
減点だ。
五対〇。
*
日曜の夜、スコアボードを眺めた。
五勝〇敗一分け。
もちろん、アシスタントの。
敵を知れば、百戦百勝のはずだった。
敵を知った結果、よく分かったのは、敵が強いということだけだった。
念のため、合計時間も出した。
ぼくは六つのお題に、七時間十分かけた。
アシスタントは、全部で二分足らずだった。
電卓を開きかけて、やめた。
五日前、駅の階段で同じことをした。
あのときも、数字はぼくがどれくらい負けているかを教えてくれただけで、どうすればいいかは一つも教えてくれなかった。
調べれば調べるほど、十一秒が正確になっていく。
正確になった十一秒は、前より少しだけ重かった。
新規開拓の提案資料を開いた。
表紙の日付が、木曜のままだった。
対決用の提案書なら、一つできている。
志村に見せるほうは、一行も増えていなかった。
孫子は間違っているのではないか。
あるいは、二千五百年前にはアシスタントがいなかったから、計算に入っていないのではないか。
ぼくは文庫本を閉じた。
資料の日付も、もう直さなかった。
*
月曜の昼。
社食で、皆川がうどんをすすりながら言った。
「大場さん、土日、何してたんですか。顔が負けた人の顔してますよ」
「負けた」
「何に?」
「アシスタント」
皆川の箸が止まった。
ぼくは対決の話をした。六つのお題。採点表。五勝〇敗一分け。
皆川は最後まで聞いて、うどんを一本だけすすった。
「それ、何のためにやったんですか」
「孫子に、敵を知れって書いてあったから」
「へえ。孫子って、敵のことしか書いてないんですか」
「いや」
ぼくは、昨日閉じた本の一行を思い出した。
彼を知り、己を知れば。
「……己を知る、もある」
「じゃあ大場さん、土日で半分しかやってないじゃないですか」
皆川は、それだけ言って、七味を足した。
彼にとっては、うどんの話と同じくらいの重さの話だったらしい。
ぼくにとっては、そうではなかった。
*
その夜、文庫本をもう一度開いた。
あの一行には、続きがあった。
――彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし。
三通り書いてある。
彼も己も知っている者。
己だけ知っている者。
どちらも知らない者。
「彼だけを知っている者」が、どこにも書いていない。
二千五百年前の兵法家は、その場合を書き忘れたのだろうか。
それとも、書くまでもないと思ったのだろうか。
隣のページの注を、今度は読んだ。
「殆うからず」は「危うくない」。
百戦百勝、とは書いていない。
勝ち続けられるとは言っていない。
ぼくは四日間、勝ち方を調べていた。
ところが、相手には何ができるか分かったのに、自分には何ができるか分からなくなって、任された仕事まで止まっている。
少なくとも今のぼくは、かなり危うい。
では、己を知る、とはどういうことだろう。
ぼくは、転職サイトに書いた職務経歴を開いた。
顧客課題の整理。
提案資料の作成。
プロジェクトの支援。
全部、ぼくがやってきたことだ。
だが、これはぼくの「仕事」であって、ぼくの「得意」ではない。
この週末、アシスタントも、それによく似たものを出してきた。
ぼくはノートの新しいページに、「自分の得意」と書いた。
それきり、ペンが動かなかった。
アシスタントについては、三ページも書けたのに。
*
火曜日。
ぼくは、人生でたぶん一番恥ずかしい質問をすることにした。
最初は皆川にした。
「皆川さん。ぼくって、何が得意だと思う?」
「急にどうしたんですか」
「調査です」
「大場さん、たまに会議の議事録にどうでもいい冗談まで書きますよね」
「それは得意とは言わない」
「たしかに」
もう少し考えてから同意してほしかった。
次に、志村の席に行った。
課長に聞くのは、皆川に聞くより三倍くらい勇気が要った。
「志村さん、一つだけ聞いてもいいですか。ぼくの強みって、何だと思いますか」
志村は、少しだけ画面から目を上げた。
驚いた顔はしなかった。この人は、たぶん驚くのも合理的な場面でしか驚かない。
「強み、ですか」
「はい。正直に」
志村は、キーボードから手を離して、少し考えた。
「大場さんのヒアリングメモ、最後に一行、余計なことが書いてあるでしょう」
ぼくは身構えた。
「『先方、来期の人員の話になると口数が減る』とか。『担当の方、上の人の名前を三回出した』とか」
「……すみません。癖で」
「いや。あれ、けっこう使ってました」
「え?」
「上の人の名前が三回出た、って書いてあった案件。あのメモを見て、次の打ち合わせは先方の部長にも来てもらえないか、相談したんです」
覚えていた。
二回目から、出席者が一人増えた案件だ。
「あの場で、予算の上限が分かったでしょう。先にそこを聞けたから、仕様を詰め直さずに済んだ。あれは助かりました」
あの打ち合わせに部長が来たのは、ぼくの一行を読んだからだった。
「お客さんが言ってないところに、引っかかるんですよね。大場さんは」
ぼくは何も言えなかった。
週八時間の、誰にも褒められなかった仕事。
その最後の一行を、読んでいた人がいた。
「新規の提案でも、ああいう気づきは欲しいんです」
ぼくは、ようやくうなずいた。
そして、余計なことを聞いた。
「じゃあ、そういうところは、まだアシスタントには難しいですか」
「どうでしょう。聞けば、それらしいことは言いますよ。大場さんにしかできないかどうかは、分からないです」
この人は、褒めたあとに、必ず事実を一つ足す。
今回は、ぼくが催促したのだけれど。
*
席に戻って、別の案件のヒアリング記録を開いた。
発言の記録は残し、ぼくがあとから書き足した所感は外した。
それをアシスタントに渡した。
「ほかの資料は参照せず、この記録だけから、この顧客がまだ話していない懸念を挙げてください」
数秒で、五つの項目が返ってきた。
二つは、ぼくが当時のメモに書いたことと重なっていた。
一つは、ぼくが気づいていなかったことだった。
新しい仕組みを入れたあと、日々の運用を誰が担当するか、決まっていないのではないか。
残りの二つは、たぶん外れていた。
ぼくは、紙の端に「ここは勝ち」と書きかけた。
そこで止まった。
たぶん。
外れていると、何で分かる?
ぼくのメモと違う。それだけでは、不正解にならない。
また、採点者の特権を使うところだった。
同じ案件の、その後の打ち合わせ記録を開いた。
アシスタントが挙げて、ぼくが気づかなかった運用担当者の問題は、次の会議で実際に話題になっていた。
残りの二つは、記録をたどっても、正しいかどうか分からなかった。
ぼくが当時書いた所感にも、確かめないまま残っているものがあった。
「未確認」
アシスタントの答えにも、自分のメモにも書いた。
自分のほうだけ字が小さくなったが、消しはしなかった。
よけいな一行が、仕事に役立ったことはある。
ただし、全部正しいとは限らないし、ぼくだけに書けるわけでもない。
いま分かったのは、そこまでだった。
「アシスタントより少しだけ上」とは、まだ書けない。
書きたいけれど。
今日は書かないことにした。
六番勝負で書いた、顧客への返信案も開いた。
「もしかして、来年度の予算の組み方でお困りでしょうか」
この一行は、削らなかった。
ただし、保守費用について答えている段落の、あとに移した。
質問に答える前に別の質問をされたら、ぼくだって少し困る。
そこは、相手の言っていないことを読まなくても分かった。
*
新規開拓の提案資料を開いた。
先方から来ているのは、「月末の集計に時間がかかるので、効率化したい」という短い相談メールと、簡単な会社案内だった。
ぼくはまだ、このお客さんに会っていない。
白紙の二枚目に、「集計作業の自動化」と打った。
続けて、「作業時間の削減効果」と打った。
数字を入れようとして、止まった。
今、何人が何時間かけているのか、知らない。
手作業が多いのか、途中で数字が集まらずに止まっているのかも、知らない。
「集計に時間がかかる」という一文を知っているだけだった。
赤で囲んだ、ノートの一行に目がいった。
資料にも入力にもない事情は、推測と確認を分ける必要がある。
ぼくにも、同じ注意書きが必要だったらしい。
アシスタントなら、骨組みはすぐ出すだろう。
でも、そのどこを自分が確かめられるのか分からないまま、木曜に持っていくのは嫌だった。
ぼくは、「作業時間の削減効果」を消した。
代わりに、書いた。
「今の集計で、どの作業に、どのくらい時間がかかっているのか」
少し考えて、その下にも書いた。
「集計した数字を、誰が、何のために使っているのか」
二つの質問の上に、「先に確認したいこと」と書いた。
まだ、提案にはなっていない。
けれど、先方に聞きたいことなら、二つできた。
志村へのチャットを開いた。
『提案の前に、先方に今の集計作業について伺う時間をいただけますか。確認したいことをまとめました。明日、少し相談させてください』
送信した。
添付した資料は、表紙を含めて二枚だった。
返信は、少ししてから来た。
『明日の午前、話しましょう。木曜は大場さんから説明をお願いします』
もう一度、読んだ。
聞くことを二つ書いたら、話す仕事が一つ増えた。
ぼくは資料を開き直して、「集計作業の自動化」の後ろに「案」と足した。
それから保存した。
*
その夜、挑戦記録.txtを開いた。
『三日目。AIのことを調べた。思ったより強かった。』
『八日目。自分のことを調べた。思ったより分からなかった。』
その下に、昨日のノートの見出しを写した。
『自分の得意』
少し迷って、後ろに「候補」を足した。
その下に、書いた。
『気になることを、余計な一行にする癖がある。役に立ったこともあるらしい。ただし、気になったことと、分かったことは違う。』
今のところ、候補は一つ。
二階堂さんに見せたら、「それで?」と聞かれそうだった。
その続きは、木曜までに考えないといけない。
画面の端には、まだスコアボードが開いていた。
五勝〇敗一分け。
引き分けを消そうかと思って、やめた。
あれくらいは、もう少し置いておきたかった。
挑戦、八日目。
敵については、だいぶ詳しくなった。
自分については、ようやく一行目が書けた。




