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孫子を学んだ若者が、AI時代に本気で戦ってみた記録  作者: さんしんどい


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第一話 戦う前に、もう負けていた(始計篇)

2500年前の兵法書『孫子』を、AI時代の会社員が本気で実践してみる物語です。

夜、寝る前のひとときにどうぞ。

第一話 戦う前に、もう負けていた(始計篇)


挑戦、一日目。


今日もまた、気づいたら負けていた。


火曜の午後三時、週次定例。


課長の志村が、タブレットの画面をこちらに向けた。棒グラフと数字がいくつか並んでいる。


「アシスタント」――社内で使っている業務AIの、先月の処理件数だった。


「要件整理のテンプレ化と、初期ヒアリングの論点出し。これ、アシスタントがもう一通りできるようになりました」


志村は資料を見たまま言った。


「だから、大場さんにお願いしてた分、もう振らなくていいです。大場さんは新規開拓の提案資料のほうに時間を使ってください」


それだけだった。


会議室の空気は、一ミリも変わらなかった。


隣の皆川が、


「お、じゃあ大場さん、だいぶ時間浮きますね」


と笑った。


志村も、


「週八時間くらいかな」


と答えて、次の議題に進んだ。


ぼくだけが、少し遅れて会議室に残された気がした。


週八時間。


あの仕事は、たしかに面倒だった。


ヒアリング記録を読み込んで、話が抜けているところを探し、相手の課題を整理して、次に聞くべきことを並べる。


地味だし、時間もかかる。


誰かに褒められた記憶もない。


なくなって困る仕事ではない。


むしろ、なくなってくれて助かったと考えるべきなのだろう。


帰りの電車で、ぼくはそう自分に説明した。


一度。


二度。


三度。


説明というのは、一回で済むなら説明だ。


三回必要なら、たぶん言い訳と呼ぶ。


会議で見た数字が、頭から離れなかった。


ぼくが週八時間かけていた仕事を、アシスタントは十一秒で終わらせる。


十一秒。


しかも、志村によれば、


「品質も大場さんとほぼ同じ。抜け漏れはむしろ少ない」


らしい。


その一言は、言わなくてもよかったと思う。


駅の階段を上りながら、ぼくはスマホの電卓を開いた。


八時間は、二万八千八百秒。


それを十一で割る。


二千六百十八・一八。


意味のない数字が出た。


ぼくはAIの二千六百倍以上、遅いらしい。


もちろん、そんな比較に意味がないことくらい分かっている。


分かっているのに、もう一度計算した。


数字というものは怖い。


自分がどれくらい負けているかを、必要以上にはっきり教えてくれる。


家に着くと、スーツも脱がずにパソコンを開いた。


検索窓に打ち込んだ。


「AI 仕事 奪われる 対抗する方法」


Enterキーを押す直前で、手が止まった。


「対抗する方法」が、あまりにも必死だった。


そこだけ消して、


「AI 仕事 奪われる 負けない働き方」


に変えた。


意味はほとんど同じなのに、こちらのほうが少しだけ大人に見えた。


少なくとも、そのときのぼくにはそう見えた。


検索結果には、似たような言葉が並んだ。


AI時代に消える仕事。


AI時代に伸びるスキル。


AIに代替されない人材になる方法。


AI時代に必要な五つの能力。


六つの能力。


なぜか七つの能力。


読むほどに、不安が増えた。


どの記事も、


「AIを恐れる必要はありません」


と書いている。


そう書かれるたびに、恐れたほうがいいような気がした。


三ページ目まで行ったところで、妙な題名の記事が目に入った。


「現代人のための孫子・入門」


孫子。


名前くらいは知っている。


二千五百年ほど前の中国の兵法書。


たしか大学の教養科目で習った。


もっとも、あのころのぼくが熱心に研究していたのは、教授の話ではなく、出席だけで単位が取れるかどうかだった。


クリックすると、古いブログが開いた。


更新は三年前で止まっていた。


読む気はなかった。


ただ、記事の冒頭にあった一文だけが目に入った。


――兵とは、国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。


その下に、ざっくりした説明があった。


戦争は、国の生死を左右する重大事である。


だから、始める前によく考えなければならない。


ぼくはそこで、一度読むのを止めた。


そして、都合のいいところだけ理解した。


戦争。


勝ち負け。


戦略。


つまり。


――これだ。


AIに仕事を奪われるなら、戦えばいい。


ただ怖がっているから負けるのだ。


ちゃんと戦略を立てて、本気でやればいい。


孫子だってそう言っている。


いや、正確にはそんなことは書いていなかったが、そのときのぼくにはそう読めた。


人は追い詰められると、古典まで自分の味方にする。


気づけば、古本サイトで現代語訳の『孫子』を注文していた。


到着予定は明後日。


明後日では遅い気がした。


何に遅れるのかは分からない。


ただ、今日何かしなければ、十一秒のAIとの差がさらに開いていく気がした。


そこでぼくは、転職サイトを開いた。


待てない人間が次にやることは、だいたい余計なことである。


職務経歴。


保有スキル。


希望年収。


希望勤務地。


そこまでは順調だった。


問題は最後だった。


「自己PRを記入してください」


空欄の四角が、こちらを見ていた。


ぼくは十五分考えた。


そして書いた。


「AIなんかに絶対負けません」


三秒で消した。


さすがに幼稚だった。


さらに十五分考えた。


今度はこう書いた。


「私はAIを使いこなし、誰にも代替されない人材になることを目指しています」


読み直した。


さっきよりは大人っぽい。


少なくとも「絶対負けません」よりはましだ。


だが、よく読むと、まだ誰かと喧嘩をしている文章だった。


誰にも代替されない。


誰に対して言っているんだろう。


AIだろうか。


会社だろうか。


志村だろうか。


十一秒だろうか。


考える前に、送信ボタンにカーソルを合わせた。


押せば何かが始まる。


そんな気がした。


その瞬間だった。


珍しく、もう一人の自分が顔を出した。


――これ、誰かに見せたほうがよくないか。


ぼくはスマホを取った。


電話帳を開く。


指が止まったのは、二階堂さんの名前だった。


前の案件で世話になった、別会社の先輩だ。


IT業界には長い。


ぼくが新人だったころ、


「新しい技術っていうのは、だいたい一回は世界を変えるって言われるんだよ」


と言っていた。


三回のコールで出た。


「どうした、健太くん。こんな時間に」


「あ、二階堂さん。ちょっと相談がありまして」


そこから、ほとんど一息で話した。


今日の会議。


十一秒。


検索した言葉。


孫子。


転職サイト。


自己PR。


話しているうちに、声が大きくなった。


二階堂さんはほとんど何も言わなかった。


ようやく全部話し終えると、電話の向こうが少し静かになった。


「それで、今から転職するのか」


「まだ応募ボタン押してませんけど。でも、もう押そうかなと」


「なんで?」


思っていた質問と違った。


「なんでって……」


「転職したら、AIに勝てるのか?」


「それは……」


答えられなかった。


二階堂さんが続けた。


「孫子を読んだんだろ」


「入門記事だけですけど」


「何が書いてあった?」


「兵とは国の大事なり。本気で戦えって」


「書いてない」


即答だった。


「え?」


「むしろ逆だよ」


二階堂さんの声は落ち着いていた。


「戦争は国を滅ぼすかもしれないほど重大だから、簡単に始めるな、と言っている」


「でも、よく考えて戦えってことでしょう」


「その前だ」


「その前?」


「戦う必要があるのかを考えろ、だよ」


ぼくは黙った。


二階堂さんが言った。


「健太くんは今、どうすればAIに勝てるかを考えてる」


「はい」


「誰がAIと戦えと言った?」


また答えられなかった。


「今日、会社から何て言われた?」


「僕がやっていた仕事は、もうAIに任せるって」


「違う」


「違わないですよ」


「健太くんがやっていた仕事全部をAIに任せる、と言われたのか?」


そこで、志村の言葉を思い出した。


――大場さんは新規開拓の提案資料のほうに時間を使ってください。


「……一つの作業だけです」


「そうだろ」


「でも、それって結局、僕じゃなくてもよかったってことで」


言った瞬間、自分でも驚いた。


そこだけ、今日ずっと口にしていなかった。


電話の向こうが少し静かになった。


二階堂さんは、それについて何も言わなかった。


代わりに聞いた。


「健太くん。今、一番怖いのは何だ?」


「AIに仕事を取られることです」


「本当に?」


答えようとして、やめた。


少し違う気がした。


仕事を取られること。


給料が下がること。


転職できなくなること。


どれも怖い。


でも、その奥にもう一つあった。


今日、会議室で引っかかった言葉。


実際には誰も言っていない。


それなのに、ずっと頭の中で聞こえていた言葉。


――大場さんじゃなくてもいい。


喉のあたりが、少し詰まった。


「……分かりません」


ようやくそう言った。


「じゃあ、転職はそれが分かってからでも遅くない」


「でも、何か動かないと不安なんですよ」


「動くことと、正しい方向に進むことは別だ」


痛いところを突かれた。


「紙ある?」


「パソコンなら」


「じゃあ、三つ書け」


ぼくは転職サイトの横に、新しいテキストファイルを開いた。


「一つ目。お前は何を失った?」


打つ。


『何を失った?』


「二つ目。何を守りたい?」


『何を守りたい?』


「三つ目」


二階堂さんが少し間を置いた。


「誰と戦ってる?」


指が止まった。


『誰と戦ってる?』


画面の三行を見た。


「それを書けるまで、応募ボタンは押すな」


「宿題ですか」


「孫子だよ」


「こんなの書いてありました?」


「そのままは書いてない」


「じゃあ二階堂さんじゃないですか」


電話の向こうで、初めて少し笑った気配がした。


「だから、自分で本を読め」


そこで電話は切れた。


ぼくはしばらく、三つの質問を見ていた。


何を失った?


あの作業。


週八時間分の仕事。


いや、違う。


仕事は別にある。


むしろ志村は、新規開拓の資料をやれと言った。


では、何を失ったのか。


『自分の仕事だと思っていたもの』


と書いた。


何を守りたい?


給料。


評価。


将来。


書いてみたが、しっくりこなかった。


少し考えて、


『自分には価値があると思いたい』


と書いた。


ものすごく格好悪かった。


消そうとした。


やめた。


三つ目。


誰と戦ってる?


『AI』


と打った。


そこで指が止まった。


今日一日、ぼくはAIに何をされたのだろう。


十一秒で仕事をされた。


それだけだ。


AIはぼくを馬鹿にしていない。


ぼくの評価を下げてもいない。


転職しろとも言っていない。


勝負を挑んですらいない。


勝手に戦いを始めようとしていたのは、ぼくのほうだった。


『AI』


を消した。


空欄になった。


何を書けばいいか分からない。


その空欄を見ているうちに、不思議と応募ボタンを押す気がなくなった。


転職サイトを閉じた。


そして、別のファイルを作った。


ファイル名は、


「挑戦記録.txt」


にした。


一行目。


『一日目。AIに仕事を奪われた。』


書いてから、消した。


『一日目。AIに作業を一つ奪われた。』


こっちのほうが事実に近かった。


その下に、今日覚えた言葉を書いた。


『兵とは、国の大事なり。』


意味。


『大きな決断ほど、勢いで始めない。まず、本当に戦う必要があるのかを考える。』


そこで手を止めた。


本当に、そんな意味なのだろうか。


二階堂さんが勝手に言っているだけかもしれない。


そもそも二千五百年前の戦争の本が、AIだの転職だのに使えるわけがない気もする。


ぼくは新しい一行を書いた。


『二千五百年前の兵法で、AIに勝てるのか?』


少し考えた。


「AIに勝てるのか」の部分を消した。


代わりに書いた。


『二千五百年前の兵法は、AI時代にも通用するのか?』


答えは分からない。


本もまだ届いていない。


ただ、十一秒のAIに負けたその日に、二千五百年前の本を注文した男というのも、なかなか訳が分からない。


だったら、最後まで試してみてもいい気がした。


少なくとも今夜、一つだけ分かったことがある。


ぼくは今日、AIに負けたのではない。


戦う相手も決めずに、勝手に戦争を始めようとしていた。


挑戦、一日目。


勝敗は、まだついていない。

孫子ノート


■ 今回の一節(始計篇)

兵者、国之大事、死生之地、存亡之道、不可不察也。

兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。

(戦争は国家の一大事である。人の生死が決まる場であり、国が残るか滅びるかの分かれ道でもある。だから、よくよく考えなければならない。)


■ 本来の文脈

『孫子』十三篇の、いちばん最初の一文です(篇名は版によって「計篇」とも)。このあと孫子は「五事」(道・天・地・将・法)と「七計」を挙げ、戦う前に自分と相手を比べて勝算を見積もるよう説きます。兵法書の書き出しが「どう戦うか」ではなく「始める前に考えよ」になっている点に、この本の性格がよく表れています。


■ 健太の読みとの距離

健太は「大事なり」の重さに反応し、「だから本気で戦え」と受け取りました。言葉の熱に引っぱられる読み方で、誰にでも起こります。一方で、結びの「察せざるべからず(考えないわけにはいかない)」はほとんど読み飛ばしています。もっとも「重大事だから全力で臨め」と読むことも不可能ではありません。どこに重心を置くかで、同じ一文が「突撃の合図」にも「立ち止まる合図」にもなります。


■ あなたの仕事で試すなら

いま「負けられない」と感じている相手を一つ思い浮かべ、その戦いを始めたら何を失う可能性があるかを、一行だけ書き出してみてください。

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