第64話 鳳城高校戦に向けて
ブロック大会での試合結果には、杏子自身、それほど執着はしていなかった。優勝できなくても、つぐみが勝ったのならそれでよかった――そう思っていたはずだった。
しかし、心の奥底では何かがずっと引っかかっている。その正体が何なのか、杏子にはまだはっきりとは分からなかった。
試合を振り返っても、ただ一つの違和感が消えない。
「いつもと同じ弓が引けなかった。」
それは、試合中にもわずかに感じていたことだった。自分では正しい姿勢を意識し、いつも通りの流れを作ろうとしていた。それなのに、無意識のうちにどこか力が入ってしまう。それが射型の微妙な乱れを生み、結果として矢が的を外れる。
(的に当たるかどうかは、ずっと気にしていないつもりだったのに。)
それは杏子の中で変わることのなかった信念だ。結果はただの結果であり、自分が考えるべきは「正しい姿勢で弓を引けたかどうか」。そう信じてきたはずだった。
だが、この試合では違った。
(つぐみが勝つかどうかに、きっと私が影響を与える――。)
試合の最中、頭の片隅でそんな考えが浮かび、慌ててかき消そうとした。仲間を応援する気持ちはいつもと変わらない。それでも、試合の大切さを感じれば感じるほど、自分の行動が誰かの未来を左右してしまうかもしれないという思いが芽生えてしまった。
その無意識の重圧が、杏子自身を知らず知らずのうちに苦しめていた。
また、それを感じさせるほどのものが、つぐみから漂い続けていた。
試合を終えた今、杏子は弓道の難しさを、今さらながら改めて実感していた。
(正しい姿勢を意識すること。それ以外のことはわたしには左右できない。だから、気にしても仕方がない)
弓道は、技術だけではなく心の状態にも大きく影響を受ける競技だ。杏子がこれまで大切にしてきた「姿勢を考えるだけ」という考え方。それは間違ってはいなかったが、心に迷いが生じれば、その信念さえも揺らぐことがあるのだと初めて気づいた。
(的中はただの結果――でも、その結果が何をもたらすのかを無意識に考えてしまう。)
矢が的に当たる。そのことで、つぐみの未来や自分の進むべき道がどう変わるのか――その思いが、杏子の無意識を圧迫し、射型の乱れとなって現れた。
自分では「気にしていないつもり」だった。それでも、心の中に生じた微かな波紋は、確実に杏子の弓に影響を与えていた。
この思いを乗り越えるのか、またはおばあちゃんからも言われたが、素直にできない場面ではできないと割り切るのか。
おばあちゃんはどちらでもいい。どちらでも大丈夫だと言われたけれど。
慌てることもない。そうもおばあちゃんは言っていた。今はただ、できることだけを考えていこう。
ブロック大会の翌日から、気を休める時間も取らず、杏子、つぐみ、瑠月、そして、予備メンバーとしての栞代は、打倒鳳城高校へと燃えていた。
杏子の夢である、団体での全国制覇。その目標に最も近づいている。
そう判断しているのは、他でもない、拓哉コーチであり、滝本先生だった。
だからこそ、全国大会前の大事な時期に、鳳城高校への練習試合を申し込んだのだった。
そのことを部員に伝えた。
「インターハイを含めてここ数年、全国大会を連覇している、あの鳳城高校に勝たなければ、全国制覇はできない」
拓哉コーチの声には力がこもっていた。
杏子も、思わず息を飲んだ。鳳城高校――そ全国の弓道部員の目標であり、憬れている実力校。特にエースの雲類鷲麗霞の名は、まさに伝説的だった。
そもそも、光田高校の快進撃は、春の鳳城高校との練習試合で、鳳城高校を追い込んだことで、自信を持てたことが大きかった。
そして、その試合での瑠月の後悔が、いまの瑠月に繋がっていた。
杏子はその瞬間、迷うことなく頷いていた。
(鳳城高校と戦う。全国優勝を目指すなら、絶海に越えなければならない相手。)
「麗姫(麗霞の呼び名)も出るのかな?」とあかねが小声で聞くと、拓哉コーチが応えた。
「必ず出るし、鳳城高校のレギュラーとの対戦になる。不動監督は、常に全力を尽くすからな」
鳳城高校の不動監督と旧知の中の拓哉コーチは自信満々に言った。
杏子は静かに立ち上がり、弓を手に取った。
「どんな相手でも、私たちがやることは同じだよ。正しい姿勢で弓を引くだけ。」
自分自身に言っている感もあったが、そのいつもの言葉に、全員の緊張が少しだけ和らいだ。
練習試合が決まった光田高校弓道部では、日々の練習がさらに熱を帯びていた。特に団体戦の連携に重点を置いた練習が続けられた。
拓哉コーチは、そして、
「今回の立ち順は、つぐみ、瑠月、杏子の順で行く」
と宣言した。
ブロック大会で杏子に勝ったという余裕からか、つぐみも特に思うことは無かった。
拓哉コーチは、真剣に勝つことを考えていた。そうした場合、もっともプレッシャーのかかる場面が、落ちに回ってくる。
ブロック大会では、対戦相手がつぐみということで、いろんな思いがあった杏子だが、そのことを経験したことを踏まえても、もっともプレッシャーに強い選手だと拓哉コーチは捕らえていた。
練習を終え、杏子たちは疲れた体を引きずるように道場を片付けていた。
「鳳城高校か……本当に勝てるかな。」と、栞代がぽつりと呟いた。
「勝つんだよ。」
つぐみの静かな声が響いた。栞代は驚いて顔を上げた。
「正しい姿勢で弓を引いて、それを全員で揃えれば、絶対に勝てる。相手が誰でも、それは変わらない。だよな、杏子」
練習後のまゆの練習につきあっていた杏子は、しっかりと頷いた。
その言葉に、瑠月も黙って頷いた。彼女たちは、それぞれの心に決意を新たにしながら、翌週の練習試合へ向けて自分を鍛え直そうと気を引き締めていた。
ブロック大会が終わって、鳳城高校との練習試合までの間、つぐみの父親からのお願い、ということで、つくばが杏子の家に寝泊まりすることになった。
杏子の祖父母は賑やかなのが好きなので、大歓迎であった。杏子も、ミニ合宿のようで、毎晩、つぐみと弓道について話し合い、語り合った。
お互いの持つ強みについて、お互いが認め合い、高め合おうとしていた。
そして、栞代も夕食までは毎日杏子の家で過ごしており、つぐみ、栞代、杏子の三人は、まるで姉妹のように仲良く、弓道に取り組んでいた。
「絶対に勝ちたいよね。」
つぐみがそう言いながら、杏子の部屋の布団の上でゴロンと寝転がった。
「勝つよ。」
杏子は少しだけ強い口調で返す。その目はどこか鋭く、いつもの柔らかい表情とは違っていた。
「さすが杏子、頼りになるなあ。」
栞代は笑いながら、杏子の肩をポンと叩く。
「でも、簡単にはいかない相手だよね。麗霞もいるし、的場・ナディア・ヴィクトリア・アナスタシアも噂になってる……。」
つぐみの声に少しだけ緊張が混ざる。
「だからこそ、全力で挑むんだよ。」
栞代が言ったその言葉は、静かに響いた。
夜、夕食の後には三人でリビングに集まり、試合について話し合っていた。
瑠月にLINE電話をかけて、一緒に話し合っていた。
「コーチが言ってたけど、杏子が落ち(最後)をつとめるじゃない。くやしい気持ちなんて一切なくて、コーチは本気で勝ちに行ってると思ったよ」
「なんやかんやで、一番プレッシャーに強いし、安定してるよね」
瑠月さんが応える。
杏子は少し困ったような笑顔を見せた。
「私、結果は気にしないことにしてるから。それを考えるのは、みんなに任せます」
翌朝、道場に向かう準備をしているとき、つぐみが大きく深呼吸をして言った。
「よし、今日は絶対に鳳城高校を倒す」
「その意気だ。」
栞代がつぐみに拳を突き出し、二人は軽く拳をぶつけ合った。
「つぐみは本当に気合入ってるね。わたしはわたしの弓を貫けるようにするね」
杏子の穏やかな言葉に、二人は少しだけ緊張をほぐされたような顔を見せた。
「分かってるよ。」
つぐみは笑って杏子にウィンクしてみせた。
三人の思いは一つだった――鳳城高校に勝つ。そして全国の舞台へ、光田高校の名を刻む。彼女たちの心には静かな闘志が燃え上がっていた。