第410話 『珈琲(コーヒー)党の矜持(きょうじ)と、リーサの微笑み』
見事に杏子の祖父の「目利き」の前に玉砕したあの日。同時刻、ソフィア宅でもまた、もうひとつの静かなる戦いが繰り広げられていた。そして、その結末もまた、杏子の祖父と全く同じだった。
ソフィアの祖父、エリックもまた、あの「芸術的詐術」をいとも簡単に見抜き、その見事な手仕事に心からの拍手を送っていたのだ。
コーヒーを注ぐその瞬間、器に液体が触れた時のあまりにも微細な音の違い。考え抜かれたギミックは完璧だった。だが、毎日、毎日、本物の陶器と珈琲豆に触れ続けてきたエリックの研ぎ澄まされた感覚を欺くことはできなかった。
「……Erik-vaari」ソフィアが少しだけ不満そうに唇を尖らせる。“Kun me kaikki nähtiin tämän eteen vaivaa, eikö olisi aikuista hienotunteisuutta mennä mukana leikissä?”(わたしたち、みんなでこんなに頑張ったんだし。ここは騙されたふりをして、“乗ってあげる”のが大人の配慮ってものでしょ?)母国語での可愛らしい抗議に、エリックは、はははと笑い、自身は流暢な日本語で、しかし杏子の祖父とそっくりな理屈でこう返した。
「分かっとるよ、ソフィア。じゃがな、杏子さんのおじいさまには、もちろん最大限の敬意を払っとる──しかしだ、世界の朝を起こすのは紅茶なぞではない。この珈琲じゃ。珈琲こそが世界で一番の飲み物なんじゃよ」相も変わらず、珈琲のこととなると絶対に一歩も譲る気のないエリックに、ソフィアはその頑固な姿に大きなため息をつくしかなかった。
そして後日。あの杏子宅での「紅茶会」に招かれた美術部の面々が、今度はエリックの家へ招かれていた。弓道部からはあかね、まゆ、紬、そしてもちろんソフィアがホスト役として同席する。
エリックの家のテーブルに並べられたのは、フィンランドが世界に誇る陶磁器メーカー、アラビア社の美しいコーヒーカップだった。シンプルでありながら洗練された北欧デザインの真髄。エリックが母国から大切に持ち込んだそのカップは、静かな気品を湛えていた。
「フィンランドではね、コーヒーは生活の一部だ。……だから良いカップでそれを飲むことは、生活の質そのものを豊かにすることと同じ意味なんだよ」とエリックは語りながら、丁寧に挽いた珈琲豆で一杯ずつハンドドリップでコーヒーを淹れていく。アラビアの真っ白な器に深い琥珀色の液体が注がれていくその瞬間、部屋中に芳醇な、そして少しフルーティーな香りが広がった。
「……もちろん。こちらの紙製のコップも本当に素晴らしい作品だ」エリックはあの「嘘の器」を手に取り静かに微笑む。「実に素晴らしい仕事だ。君たちの技術と情熱に心から敬意を表したい。……だからこそこちらも、本物のアラビアで淹れたわたしの最高の一杯を御馳走しよう」と。
そして判で押したかのように、エリックもまた「記念に、この紙製のコップを一つ譲ってもらえないだろうか」と申し出た。美術部のメンバーはもちろんそれを快諾した。
二人の祖父。この日の流れは全く同じだった。だがしかし、エリックは最後に余計な一言を付け加えたのだ。
「さて。君たちは、杏子さんのお祖父さんの淹れた紅茶も飲んだんだろう? ……彼の淹れる紅茶は確かに絶品だ。それは認める。……だがそれでも世界一はわたしの、このコーヒーだ。……そうだろう? さあ、どっちが美味しかったか正直に言ってくれ。もしわたしのコーヒーの方が美味しいと言うなら──」エリックはにやりと笑い、今まさに自分が使っているアラビアのカップを指差した。
「この貴重なアンティークカップを差し上げてもいい」
(((またいらんことを……!)))ソフィアが頭を抱えた。
“Erik-vaari! Tuo kuppi on Liisa-mummon lahja, niin vai? Aiotko ihan oikeasti antaa sen pois vain voittaaksesi Kyokon vaarin!?”(エリックおじいちゃん! そのカップ、リーサおばあさんからの大切なプレゼントでしょ!? それを差し出してまで杏子のおじいちゃんに勝ちたいの!?)
“Se on lahjontaa—ja ihan sääntöjen vastaista! Oon tosi pettynyt! Liisa-mummo, Erik-vaari on ollut tosi ilkeä!”(それってもうただの賄賂だよ! 完全に反則! もうがっかりした! ……リーサおばあさーん! エリックおじいちゃんがひどいんだよぉぉっ!)
ソフィアがそう叫び、奥のキッチンにいるリーサに言いつけようとする。
エリックは顔を真っ青にして慌ててその発言を取り消そうとしていた。そのあまりにも見事な夫婦漫才(?)。
リーサは全てをお見通しという顔でキッチンから顔を出し、戸惑っている美術部と弓道部の少女たちに向かって言った。
「いいのよ、皆さん。どうぞ正直に仰って。……紅茶の方が美味しかったって」
その一言にソフィアはけらけらと笑い、美術部も弓道部もその温かい笑いの輪に包まれた。
「はい、これお土産ね」
リーサが手作りのクッキーを差し出す。
そいえば、杏子の祖母からもお土産をもらっている。
まさか、変な展開にはならない? 美術部のメンバーに少し緊張の色が見える。
「わたしは杏子さんのおばあさまを尊敬してるの。今でもいろいろすと教わっているんですよ。ほんとに料理がお上手ですから」
そして優しい笑顔を浮かべた。。
二人の祖父はどこかいつまでも子供っぽさが抜けない。
けれど、その二人を手のひらで優しく転がしている二人の祖母の、その強さと温かは、ほんとうに良く似ている。
少女たちはそんなことを思いながら、その美味しいクッキーを受け取った。




