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節一 戦場の違和

風が鳴っていた。焦げた鉄と灰の匂いが、雫の鼻腔を鋭く刺す。夜風は冷たく、戦場跡の湿った土に触れては、また遠くへ逃げて行く。そこは、つい先ほどまで血と理のざわめきに満ちていた場所だった。蒼牙の軍旗は風に裂かれ、兵具は折れ、理弾の焼け跡が地面を網目のように走る。倒れた者の影は、生々しく焦げて残っていた。味方も敵も、区別はいつの間にか意味をなさなくなっている。残るのは、ただ壊れた生活と、消えた声だけだ。

雫はそこに立ち尽くした。片膝を土につき、冷えた手で黒曜石のペンダントを握り締める。石は血と埃で汚れていた。指先に伝わるのは、まだ熱を含んだ重みだった。

(……なぜ、こうなるの)

胸の奥で何かが軋む。理が乱れ、視界が歪む。だれでもない、しかし確かな震えが雫の内部を走った。それは、戦場に残る一連の光景と同時に、まったく別の時空の記憶を呼び起こす。


──燃え上がる家屋。

──泣き叫ぶ子ども。

──紅の紋章を掲げ、白い装束で立つ戦棋士。


度重なり現れる幻想。だが雫が目にしているのは、幻ではない。目の前の瓦礫の匂いと、肌に残る火の熱が告げるのは現実だ。では、その「記憶」は誰のものなのか。なぜ、それが自分の内側に浮かぶのか。

(玲秀の兵は民をかばう…… 蒼牙の兵は民を盾にする。どうして同じ「理」の名で、こんなにも違うの?)

理とは何か。

それは、人が持つ、国が持つ信念でもあり、戦の基盤を形づくる波動構造でもある。それを信じる者は救われ、疑う者は逸脱者と呼ばれる。だが雫の胸には、いつも違和感があった。


──自分は何のために剣を取っているのか。

──自分の刃が誰を守るのか。

──私は、何を守っているのだろう。


雫は立ち上がる。膝の泥を払い、ゆっくりと胸の前の石を見つめた。寛蓮じいさまに渡されたこの石。

「この石が、お前の歩む道を照らしてくれる。」

だが石は何も答えてくれない。雫に語りかけるのは――問いばかりだ。問いは尽きず、答えは遠い。答えを求めるように、足が北を向く。塔でも、院でもない。寛蓮の庵へ――。


山気が濃くなる。風が樹々を撫で、理子粒りしりゅう――理の漂う微細な光粒が淡く揺れた。戦場の焼けた匂いが遠のくにつれ、雫の中のざわめきが静まっていく。

――「打て」「思い出せ」。それは命令か、それとも導きか。雫には判然としなかった。

庵の戸を押すと、炉の火がちらりと顔を照らした。寛蓮はいつものように、灰色の衣の裾を膝にそっとかけ、静かに火を見つめていた。年老いたが、その眼は澄んでいて、雫の裡にある雑音を一瞥で見抜くようだった。

「……帰ったか、雫。」

声は低く、しかし温かい。雫は膝をついたまま俯き、声を震わせた。

「……じぃさま。私は、何のために戦っているのですか?」

問い、それは理でも戦でもなく、ただ一人の少女の問いかけだった。

寛蓮は黙したまま、しばし火を見つめた。薪がはぜる音が、間を繋ぐ。やがて、ゆっくりと口を開いた。

「理を学ぶほど、人は理を疑い、理を信じるほど、その理に縛られる。雫、おまえはその狭間に立っておるのだ。」

寛蓮の声には責める色はなく、語は重く、雫の胸に響く。

雫は拳を握り、唇を噛むようにして言葉を紡いだ。

「……私の中に、誰かの記憶がある気がします。 ……燃える村、玲秀の印、泣く子ども。あの子を、守りたかった……でも、その景色は私の知っている塔や村ではない。 ……あれは私であって、私ではない。」

言葉は途切れ、雫の瞳には痛みにも似た虚ろさが浮かぶ。寛蓮は目を細め、煙に濡れた手を鍋のふちに置いた。

「守りたい、とな。よい。だが、守るとは何かをよく考えよ。 時には刃を振ることが守りに見え、時には刃を収めることが守りとなる。」

「敵への手を緩めれば民が死ぬ。 だが、敵の民をただの『的』と見るならば、お前の守りは虚ろになる。」

「誰の鉾となるか?誰の盾となるか?それは、己で決めなければならぬ。」

「しかし物事をよく見定めるのだ。そうしたうえで出た答えは、お前の中の記憶に重なろうと、背くことになろうと、顧みる必要はない。」

「……それが、理の正しき在り方じゃ。」

玲秀の兵たちは確かに、民を盾にした蒼牙とは違った。彼らは民の背を守り、そのために自らの身を晒す。だが、それゆえに玲秀側は押されている。守りが厚いほど犠牲は増え、結果として民の嘆きも深まる。戦の矛盾が、雫の心の灯を揺らし、迷いを濃くしていく。

「じぃさま、もし私が強くなれば――あの光景は変わるでしょうか。私がもっと強くなれば、全ての民を守れる?」

寛蓮は深い息を吐いた。灰色の瞳の奥に、遥かな記憶の影が揺れる気がした。

「力は道具だ。なによりも大切なのは、何を守るかを見失わぬことだ。 それでもお前が強くなり民を守ろうとするなら、民はその背を預けよう。」

「だが忘れるな。強さには代償がつきまとう。血は必ず求められる。」

炎が揺れ、二人の顔を赤く照らす。雫は控えめに頷きながら、ペンダントを見つめた。石は静かに脈打ち、心臓のように微かな振動を告げる。

(……私は、誰?)

炎が高く揺れ、黒曜石が脈動する。雫の呼吸と同調するように、炉の灯がゆらめく。そして、再び幻想が浮かぶ。


――「打て」「思い出せ」。

──燃え上がる家屋。

──泣き叫ぶ子ども。

──紅の紋章を掲げ、白い装束で立つ戦棋士。


それが誰の声なのか、雫には分からない。だが一つだけ分かることがある。――自分の選択で一手を打ちたいということ。

やがて静寂が深くなる。寛蓮は立ち上がり、雫のペンダントをそっと手にとると、何やらに気づく。

「雫、この石は少しばかり欠けておったが、今はきれいになっておる。」

「はい、蒼牙戦理院の方が、欠けたままだと余計に壊れやすくなると言って、修繕してくれました。」

「そうか……しかし――」

(修繕の理波が“元の理”と噛み合っておらぬ気がする……)

寛蓮は、雫の方に顔をやり――

「帰れ、明日の朝にはまた、前へ出るのだろう。だが、いつでもここへ戻って来い。ここはお前の根だ。」

雫は胸の奥の重みを噛みしめながら、うなずく。外へ出ると、夜風は冷たく、戦場の匂いが遠のいていた。だが、内側の風は止まらない。それは、遠くで起きている別の気配とも呼応するように、低く脈動しているのだった。

歩みはやがて速度を上げる。

――理の流れは、静かに、しかし確実に、彼女を次の戦場へと導いていた。



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