エピローグ
それはこの世のものとは思えない暗闇の続く場所。あたりを見回しても、誰にも何も見つけることはかなわない。あるものは、闇、闇、闇──。
その闇の中に、たった一本の大きな木がそびえ立つ。その木を照らす月も星も存在しないというのに、まるで木は自ら光を放つかのように、煌々と輝いている。
ふいに、一匹の白い猫がその木の根元に現れた。音もなく、そして、突然に。その白い猫もやはり、白く輝いて見えた。
ほどなく、その猫は銀色に強く閃光を出し、すっと人の姿になった。そして、木を見上げて、なにやら声をかける。
「ありがとう」
優しく微笑むその姿は、二十歳前後の女性の姿に見えた。
すると、木の枝からもう一匹の白い猫が軽やかに宙返りをし、女性の足元に着地する。
「おまえは変わったおなごだ」
白猫は、男の低い声を出した。
「あのままにしておけば、あの男は必ずまたおまえを助けに行っただろうに。力を取り上げろなどと」
「あれでいいんだ」
女性は静かに微笑んだ。
「きっと、あの子達は事故自体を起こさせないようにするんじゃないかな。そうしたら、あのこたちは生まれなくなる」
「おまえ自身が死なずにすんだ、と言っているのだ。もともと、そのために助けを求めたのではないのか?」
女性はふっと笑った。
「違うよ。あの子たちがいなかったら、姉ちゃんはあのまま事故で死んでた。だから運んだんだよ。しかも、あの時間の車にね。それにさ〜」
女性は、そこで言葉を切って、くすっと笑う。
「あんな完璧なボケと突っ込みの双子の存在が消えちゃうなんて、勿体無いじゃない〜?」
まるで冗談でも言うかのように、けらけらと笑う。でも、彼女は後悔していなかった。そればかりか、これ以外の結末は望んでいない。
これで姉は幸せになれるのだ。結婚し、双子を生み。毎日楽しそうに子供たちと夫に囲まれて微笑む。その光景をもう3年近く実際に生活を共にすることで、充分に見てきた。
それを取り上げてまで、自分が生きていても楽しくない。少なくとも、自分はそう思ったから、これでいいんだ。
くすっと女性は笑うと、猫に向き直った。
「あとどのくらい時間があるの?」
「ほとんど残っていまい」
「だよね、あの猫の体も、もうヨボヨボだもん。まだ9歳か10歳だからもう少しいけると思ったのになぁ〜」
そう言った女性の顔は、とても晴れ晴れとしていた。
「じゃあ、行くわ。あんたも、いい加減あきらめて成仏しなよね」
「…………早く行け」
「はいはい。さ〜て、ケーキ食べに行くか〜。40歳の誕生日ケーキ、覚えてるかな、あいつ。アイスとジュースも持ってこないと絶対祟ってやる」
女性は猫に背を向け、ひらひらと片手を振った。そして、再び閃光とともに白猫の姿に戻る。そして闇に消えていった。
次に白猫が現れたのは、川原の木の下だった。
「……どんだけ待たせるんだよ」
木の根元に腰を下ろした青年が、白猫に笑いかけた。白猫はよたよたとしながら青年の方へ歩み寄る。
「ほら、ケーキ。さめちゃったから、まずいとか言うなよ。それと、溶けたアイスとぬるくなったジュースもどうぞ。つまみも各種勢ぞろい。好きなものを好きなだけ食え」
青年は言うが早いか、持っていた手提げから次々と食べ物を取り出しては、白猫の前に並べていく。
白猫は彼をじっと見つめた。
どうしても伝えたいことがあった。でも、もうその力も残されていないのは良く分かっている。伝わるだろうか。
最後まで必死に助けようとしてくれたこと。
あれから、諦めきれずに何度も助けに行こうとしたこと。
全部知っている。
もう充分だから。
だから、自分を責めないでほしい。
これは、運命なのだから。
微動だにせず、自分を見つめる白猫に、青年は躊躇することなく微笑みかけた。白猫はゆっくりと青年に近寄り、足に体を擦り寄らせた。そして、その小さな口でケーキに一口かぶりつく。
「美味いだろう」
青年は満面の笑みで白猫に語りかける。
じっと白猫は青年を見上げた。
もう少し時間があれば。
白猫は思わずにいられない。
もう少しだけ、時間が残っていれば。
人の言葉が話せる力が残っていれば。
“ありがとう”と伝えられたのに────。
もう限界だった。
白猫にはそれが分かった。だから、すっと青年から目をそらし、歩き出す。その背中に青年が思いもよらぬ言葉をかけた。
「俺も、貴方にあえてよかった。楽しかったよ」
白猫は思わず振り返る。
「ありがとう」
その青年の言葉をかみ締めるように味わうと、再び背を向けた。
それは一番言いたかった言葉だった。
そして、一番聴きたかった言葉だった。
次の瞬間白猫は再び姿を消した。
白猫は数秒の後、体に冷たい雨を感じた。
自分の時代に戻っては来たものの、もう立っているのがやっとだった。
いよいよその時が来たことを感じた。
白猫は自ら、“ここ”を選んだ。しかし、その理由は自分にもよくわからない。
自分が守ったものをこの目でもう一度見たかったのかもしれない。そして、自分が手に入れられなかった“場所”への憧れだったかもしれない。
いや、単純に“帰る”場所が他に思いつかなかっただけかもしれない。
こんな雨の降る庭先で自分は何をしてるのだろうか、と何だかおかしくなる。
すると窓の向こうから聞き慣れた子供たちの声がした。
「あ、ねこ!」
「あ〜!はだしで外出たらパパがメってするよ」
「でも、あのねこ、かわいそうだよ! あ、倒れた!」
「あ〜!! 外出た〜!! パパ〜〜!! 颯がね〜!」
白猫は、薄れ行く意識の中で、小さな小さな腕に抱かれるのが分かった。その腕にすべてをゆだねると何故かほっとした。あまりに小さく頼りない腕なのに、不思議だ。
白猫はそのぬくもりを感じながら意識を手放す間際……そっと心の中で呟いた。
その瞬間、小さな男の子は猫を抱きかかえたままビクっと体を硬直させる。そして、発作的に激しく声を上げて泣き出した。
「颯!?」
彼の父親が、雨に濡れてびしょ濡れのまま白猫を抱えている我が子を見るや、血相を変えて駆け寄る。
猫はどうやらすでに事切れているようだった。その猫の表情は、まるで微笑んでいるかのように穏やかだった。
しかし、異常なまでに泣きじゃくる息子の様子に、父親は必死な様子で息子に声をかける。
「颯!? 怪我でもしたのか!?」
男の子は答えない。
何とも言えない気持ちでいっぱいだったからだ。
寂しい。
悲しい。
そして安堵と感謝と暖かな愛情。
そんな様々な感情が折り混ざった気持ちだったのだが、幼い彼には理解できるわけもなく。
ただただ、泣いた。
声が枯れるまで……。
あの時。
彼には聞こえた気がしたのだ。
腕の中で、永い永い眠りに落ちる猫の声を。
早く会いにくるんだぞ。
待ってるから──と。