婚約破棄の晩餐で、悪役令嬢は焼いた肉を操る
肉が立ち上がった。
香草をまぶして焼かれた仔牛肉だった。
厚く切られ、白い皿の中央に鎮座していたそれが、左右に添えられていた二本のフォークへ器用に身を預け、ぬるりと起き上がったのである。
仔牛肉の表面から、じゅわりと肉汁が垂れた。
赤いフランボワーズソースと混ざり、皿の上へ不穏な筋を描く。
「セレネ・オルテンシア!」
王太子アルフォンスが高らかに叫んだ。
「お前との婚約を破棄する!」
仔牛肉は、二本のフォークを曲げた。
どう見ても、跪いていた。
「今さら謝っても遅い!」
アルフォンスが仔牛肉を指差す。
公爵令嬢セレネは、自分の皿と婚約者を交互に見た。
「殿下」
「何だ!」
「謝っているのは、わたくしではなくお肉ですわ」
晩餐会場が静まり返った。
王太子の生誕を祝うため、王族、重臣、諸侯、神殿関係者が集められた大広間である。
その全員が、白い皿の上で跪く仔牛肉を見つめていた。
仔牛肉もまた、切り口を王太子へ向けていた。
焼かれた肉に顔などない。
それなのに、どこか恭しく頭を垂れているように見える。
「まあ」
アルフォンスの隣に立っていた聖女リリアが、震える声を漏らした。
「なんて恐ろしい……」
仔牛肉が、ぴくりと動いた。
フォークの一本を持ち上げる。
細い銀の先端が、真っ直ぐリリアへ向いた。
「ひっ」
「どうやら、お肉には聞こえているようですわ」
セレネが言うと、仔牛肉はフォークを下ろした。
代わりに、赤いソースを引きずりながら皿の上を半周する。
そしてセレネの方へ向き直り、再び深々と礼をした。
ぱち、ぱち、と小さな拍手が起こった。
発したのは、酔っていた辺境伯だった。
「見事な余興ですな!」
辺境伯の妻が慌てて夫の手を押さえる。
だが、遅かった。
つられたように、別の場所からも拍手が上がる。
仔牛肉は拍手に応えるように、その場で一回転した。
フランボワーズソースが円を描いて飛び散った。
「余興ではない!」
アルフォンスが叫ぶ。
拍手が止まった。
王太子は顔を赤くし、会場の隅へ目を向ける。
「おい。どうなっている」
そこには、一人の宮廷魔術師が立っていた。
青い長衣をまとい、杖を抱え、顔を蒼白にしている。
「殿下、それが……」
「それが、何だ」
「術式の対象が……少々、ずれてしまったようで」
「ずれた?」
「はい」
魔術師は仔牛肉を見た。
「公爵令嬢ではなく、主菜へ」
国王がゆっくりと顔を上げた。
「公爵令嬢を対象とした術式だと?」
魔術師の膝が震え始める。
「ち、違うのです、陛下。これは、その」
「余興だ!」
アルフォンスが割り込んだ。
「私が用意した余興だ。婚約破棄の場を、より華やかにするためのな!」
「殿下」
セレネは穏やかに呼びかけた。
「婚約破棄を華やかにするために、わたくしへ魔術をお使いになるご予定だったのですか?」
「それは言葉の綾だ」
「術式の対象は、わたくしだったのでしょう?」
「黙れ!」
アルフォンスが怒鳴った瞬間。
仔牛肉が跳んだ。
皿から飛び出し、二本のフォークで卓上を走る。
銀の食器を蹴散らし、パン籠を飛び越え、王太子の前へ到達した。
そこで一度、礼儀正しく頭を下げる。
そして。
ぺちん。
仔牛肉がアルフォンスの頬を叩いた。
「なっ……」
肉の表面についていたフランボワーズソースが、王太子の頬へ赤く残った。
誰も笑わなかった。
国王の御前である。
王太子の顔に、焼いた肉が平手打ちを食らわせたのである。
笑っていいはずがない。
「ふっ」
誰かが噴き出した。
「誰だ!」
アルフォンスが振り返る。
その隙に、仔牛肉はもう一度彼の頬を叩いた。
ぺちん。
今度は反対側だった。
会場の各所で肩が震え始める。
「止めろ!」
アルフォンスは仔牛肉を捕まえようとした。
仔牛肉は身を翻し、王太子の手を逃れる。
テーブルの上を滑り、銀の皿を踏み台にし、華麗に宙を舞った。
どさり。
着地した先は、セレネの皿だった。
仔牛肉はフォークを胸の前へ揃え、優雅に一礼する。
拍手が起きた。
今度は誰も止められなかった。
「なぜ、そいつはセレネに従っている!」
アルフォンスが魔術師へ詰め寄る。
「術式が、公爵令嬢の魔力に反応するよう組まれておりますので」
「対象は肉だろう!」
「対象はお肉ですが、操り手はオルテンシア公爵令嬢のままです」
セレネは自分の右手を見た。
試しに人差し指を持ち上げてみる。
仔牛肉が片方のフォークを上げた。
中指も上げる。
もう一本のフォークも上がった。
二本の指をくるりと回す。
仔牛肉が前方宙返りを決めた。
会場が沸いた。
「まあ」
セレネは感心した。
「わたくし、お肉を操れるようですわ」
「喜ぶところではない!」
アルフォンスが叫ぶ。
「では、どうするところなのでしょう」
「今すぐ止めろ!」
「解除方法を存じません」
「魔術師!」
「下手に触れますと、術式が周囲へ広がる恐れが」
魔術師が答えた直後。
アルフォンスは彼の杖を奪い取った。
「こうすればよいのだろう!」
「お待ちください、殿下!」
王太子は杖を仔牛肉へ向け、意味も分からぬまま魔力を流した。
青白い光が弾ける。
大広間の天井に張られていた無数の魔法糸が、一斉に震えた。
次の瞬間。
卓上のローストチキンが羽ばたいた。
両翼を大きく広げ、皿から飛び立つ。
もっとも、すでに頭も羽根もなかったため、その姿はかなり異様だった。
ソーセージが列を作った。
一本、二本、三本。
銀の皿から滑り落ち、兵士のように整列する。
丸パンが跳ねる。
茹でた人参がフォークを拾い、剣士のように構えた。
スープの中から豆が次々と飛び出し、卓上を転がっていく。
「広がったではないか!」
国王の怒声が響いた。
「ですから、お待ちくださいと!」
魔術師が半泣きで答える。
料理たちは、何かを待つように静止した。
会場中の視線がセレネへ集まる。
セレネは小さく指を振った。
ローストチキンが舞った。
ソーセージ隊が行進を始める。
丸パンは列を飛び越え、人参剣士と一騎打ちを始めた。
仔牛肉はフランボワーズソースを外套のように引きながら、卓上の中央へ進み出る。
そして王太子へ向け、フォークを一本突き出した。
「なぜ私ばかり狙う!」
「お肉にも思うところがあるのでしょう」
「焼かれた肉に思いなどあるものか!」
仔牛肉が走り出した。
アルフォンスも逃げた。
王太子が大広間の卓を回り、その後ろを仔牛肉が追う。
追いつくたびに、仔牛肉は必ず一度立ち止まり、丁寧に頭を下げた。
それから頬を叩く。
ぺちん。
「礼をする必要があるのか!」
再び追いつき、礼をする。
ぺちん。
「そこだけ礼儀正しいのは何なのだ!」
四度目の平手打ちで、会場から大きな拍手が起きた。
アルフォンスは涙目になりながら、国王へ訴える。
「父上! 止めさせてください!」
「その前に説明せよ」
国王の声は低かった。
「なぜセレネ嬢を操る術式が用意されていた」
「だから、余興です!」
「どのような余興だ」
「それは……」
国王が魔術師を見る。
「申せ」
魔術師は王太子と国王を見比べた。
そして、すべてを諦めたように肩を落とした。
「殿下より、公爵令嬢を操り人形にせよと命じられました」
ざわめきが広がる。
「具体的には」
「婚約破棄を告げられた直後、王太子殿下の前へ跪かせるようにと」
仔牛肉が静かに跪いた。
魔術師の説明を再現しているらしい。
「それから?」
「泣いて、婚約破棄を撤回してほしいと縋らせるように」
仔牛肉がフォークを組み、アルフォンスを見上げた。
どこからともなく、すすり泣くような音が聞こえる。
よく見ると、ソースの滴が肉の切り口を流れていた。
「芸が細かいですわね」
セレネが感心する。
「感心している場合か!」
アルフォンスが怒鳴った。
「なぜ、そのようなことを?」
国王は王太子へ尋ねた。
「セレネが平然と婚約破棄を受け入れれば、私が捨てられたように見えるではありませんか!」
「自分から破棄するのだろう」
「だからこそ、泣いて縋らせる必要があるのです!」
アルフォンスは堂々と言い切った。
国王は目を閉じた。
王妃は扇で顔を隠した。
セレネは首を傾ける。
「わたくしが泣かなかった場合は?」
「だから魔術で泣かせる予定だったのだ!」
アルフォンスが答えた。
沈黙が落ちる。
仔牛肉が、静かに立ち上がった。
ぺちん。
「今のは、皆様のお気持ちを代弁したのだと思いますわ」
今度の拍手は、先ほどまでよりも大きかった。
アルフォンスの隣にいたリリアが、そっと後ずさる。
国王はそれを見逃さなかった。
「聖女リリア。そなたは知っていたのか」
「わ、私は何も」
「リリアも承知していた!」
アルフォンスが即座に答えた。
「殿下!」
「婚約破棄のあと、泣いているセレネへ手を差し伸べる役だったではないか!」
リリアの顔色が変わる。
「違います。私はただ、殿下から慈悲深く振る舞うようにと」
「具体的には?」
セレネが尋ねた。
リリアは口ごもった。
「どうか殿下をお恨みにならないで、とお声をかける予定でした」
「まあ」
「それから、殿下の愛を奪ってしまった私を責めてください、と」
「責めてほしかったのですか?」
「そうではなく、そのように申し上げれば、私は責められても相手を思いやる聖女として」
リリアは途中で口を閉じた。
遅かった。
仔牛肉がセレネを見た。
セレネは小さく首を振る。
「女性の顔を叩いてはいけませんわ」
仔牛肉は素直にフォークを下ろした。
代わりに、フランボワーズソースをまとったまま、リリアの白いドレスへ身体ごと飛び込んだ。
「きゃあああ!」
胸元に赤い肉が貼りつく。
まるで大きな勲章だった。
「お肉なりに加減したようです」
「これが加減ですか!」
「殿下よりは軽いでしょう」
アルフォンスの両頬は、すでに赤く腫れていた。
国王は深いため息をついた。
「婚約破棄について、セレネ嬢の意向を聞こう」
「喜んでお受けいたします」
セレネは即答した。
「待て!」
なぜかアルフォンスが声を上げる。
「なぜ止めるのです?」
「もう少し悩め! 十年の婚約だぞ!」
「わたくしを魔術で操り、泣いて縋らせようとなさった方との婚約を、なぜ悩む必要が?」
「体面というものがあるだろう!」
「その体面でしたら、先ほどお肉に四度ほど叩かれておりました」
「五度だ!」
酔った辺境伯が訂正した。
「数えるな!」
セレネは仔牛肉へ目を向けた。
「殿下は、これは余興だとおっしゃいましたわね」
「それは失敗を誤魔化すために――」
「では、最後まで拝見いたしましょう」
セレネが両手を持ち上げる。
料理たちが一斉に動いた。
卓上に、即席の舞台が作られる。
ソーセージ隊が並び、観客席となる。
丸パンが中央へ進み出た。
その上へ、薄く切られた白いチーズが載せられる。
「白いドレスをまとった丸パン。あれがわたくし役のようですわ」
「なぜパンなのだ」
「形が丸いからでは?」
「どういう意味だ!」
「お料理へお尋ねください」
仔牛肉が舞台へ上がる。
小さな紙製の王冠が、どこからともなく肉の上へ落ちた。
貴族の子どもが、料理へ投げたらしい。
「王太子役ですな!」
辺境伯が楽しそうに言った。
最後に、フランボワーズタルトが滑るように現れる。
赤い果実を山ほど載せた、華やかな菓子だった。
聖女リリアが顔を引き攣らせる。
「まさか、あれが」
「おそらく、あなたですわ」
料理劇が始まった。
仔牛肉が丸パンの周囲を一周する。
丸パンは嬉しそうに跳ねた。
ところが仔牛肉はパンへ背を向け、フランボワーズタルトへ歩み寄る。
タルトは派手に回転した。
赤い果実がきらきらと宙を舞う。
仔牛肉はすっかり魅了されたように、フォークを差し出した。
タルトも小さな銀匙を差し出す。
二つが触れ合った瞬間。
タルトが崩れた。
大量のフランボワーズソースが、仔牛肉へ降りかかる。
肉は頭から真っ赤になった。
「なぜ崩れるのです!」
リリアが叫ぶ。
「焼きが甘かったのでしょうか」
「私のことですか!?」
丸パンは仔牛肉と崩れたタルトを振り返らず、チーズ、野菜、人参剣士、ソーセージ隊を引き連れて別の皿へ移った。
仔牛肉は赤いソースの中で立ち尽くす。
タルトは完全に潰れていた。
やがて仔牛肉は、潰れたタルトへ小さく頭を下げた。
そして、礼儀正しく脇へ避けた。
会場に拍手が響いた。
「これは、どういう筋書きだ!」
アルフォンスが叫ぶ。
「さあ」
セレネは微笑んだ。
「お料理のお気持ちは、わたくしにも分かりませんわ」
国王が立ち上がる。
「王太子アルフォンス」
「はい、父上」
「そなたには謹慎を命ずる。加えて、セレネ嬢への精神支配魔術使用を企てた件について、正式な調査を行う」
「父上!」
「聖女リリアも神殿へ戻す。聖女の名を利用した演出については、神殿側で処分を決めてもらう」
リリアがその場へ崩れ落ちた。
白いドレスに貼りついていた仔牛肉が、彼女の膝から滑り落ちる。
仔牛肉は素早く立ち上がり、ドレスの裾へ赤いソースがつかないよう、丁寧に離れた。
「最後まで紳士ですわね」
セレネが言う。
仔牛肉は誇らしげに一礼した。
それから三か月後。
なお、術式にはなぜか鮮度を保つ保存魔術まで含まれており、仔牛肉は三か月が過ぎても焼きたての艶を失っていなかった。
王宮の大広間には、再び多くの貴族が集まっていた。
ただし今夜の目的は、王太子の生誕を祝うことではない。
諸外国からも見物客が訪れている。
舞台の中央へ、セレネが進み出た。
「皆様、本日はお越しいただき、ありがとうございます」
彼女が片手を上げる。
舞台袖から、二本のフォークで歩く仔牛肉が現れた。
真っ赤なフランボワーズソースを外套のようにまとい、頭には小さな王冠を載せている。
観客席から歓声が上がった。
失敗した魔術によって誕生した料理人形劇は、あの夜に参加していた他国の使節から大評判となった。
王宮には公演依頼が殺到し、ついには正式な演目として採用されたのである。
セレネは婚約解消後、宮廷演芸顧問という聞き慣れない役職へ就いていた。
一方、精神支配魔術の不正使用を企てたアルフォンスは、王位継承者としての資格を一時凍結されている。
今夜の彼は舞台の前に立ち、大きな看板を持っていた。
謹慎中の労役の一環である。
看板には、こう書かれている。
本日の演目。
『愚かな王子と、踊る仔牛肉』
「なぜ私が宣伝までしなければならない」
アルフォンスが呟く。
舞台上の仔牛肉が、ぴたりと動きを止めた。
ゆっくりと王太子の方を向く。
「待て」
仔牛肉は舞台から飛び降りた。
「セレネ、止めろ!」
仔牛肉は客席の間を走り抜ける。
「今日は演目だけではなかったのか!」
アルフォンスの前へ到達すると、一度立ち止まった。
そして、いつものように丁寧に礼をする。
「その礼をやめろ!」
ぺちん。
会場が沸いた。
仔牛肉は悠然と舞台へ戻り、客席へ深々と一礼する。
セレネは微笑みながら拍手した。
婚約者は失った。
けれど彼女には、思いがけず、よく焼けた相棒ができたのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
結構重たい話ばかり続いていたので、今回は息抜きに書きました。
Adoさんの『アイアイア』を聴きながら料理番組を流し見していたところ、ふと浮かんだのが、
「焼いた肉」
「マリオネット」
「フランボワーズ」
という三つのワードでした。
そこへ婚約破棄を加えてみたら、なぜか仔牛肉が立ち上がり、礼儀正しく一礼してから王太子の頬を叩くコメディになりました。
一方、同じ題材から『婚約破棄の晩餐で、悪役令嬢は赤い糸を切る』という重めのホラー寄りのお話も、並行してできつつあります。
同じ材料でも、焼き方ひとつでずいぶん違う味になるものですね。まずはこちらの軽い方からお出ししました。
婚約破棄の場面で最も紳士的だった、よく焼けた仔牛肉を少しでも気に入っていただけましたら嬉しいです。




