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悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、ずっと聖女が王子に粉をかけていたから ──ザルク&イレーネのダンジョン攻略譚

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/04/19

 王位を退いた日、ザルク・ゼルバートはずいぶん晴れやかな顔をしていた。


 老いを受け入れた王の顔ではない。重い荷をようやく渡し終えた男の顔だった。玉座を離れ、王冠を降ろし、女王となったグレイシアへ国を託したあと、王城の空気は確かに変わった。変わったが、それを惜しむ気配はザルクにもイレーネにもなかった。


 むしろ、これでようやく身軽になれる、と二人とも思っていた節がある。


 イレーネは最後の公的な晩餐を終え、自室へ戻るなり首飾りを外した。重い宝石の連なりが卓へ置かれても、妙な余韻は残らない。鏡台の前に立つ王妃の姿は整っているのに、表情だけがどこか実に素だった。


「肩が軽いわ」


「王冠外したわけでもねえのに」


 ザルクがそう言うと、イレーネは鏡越しに夫を見る。


「アンタが横で王の顔してると、こっちまで王妃の肩になるのよ」


「何だそりゃ」


「そういうものなの」


 答えながら、イレーネはふっと笑った。


 ザルクもその笑い方を見ると、自分の肩からもいくつか重さが落ちていることを知る。


 翌朝にはもう、二人は王宮を発つ準備をしていた。


 見送りは最小限でいいとザルクが言い、イレーネも止めない。グレイシアとリオネル、それに最低限の近衛だけが立つ門前で、ザルクは最後まで深刻ぶらなかった。


「じゃあ、行ってくるわ」


「どちらへですの」


 グレイシアが問う。


 分かっていて聞いている顔だった。


「ダンジョン」


 あまりにも即答で、リオネルが横で笑いそうになる。


「父上、本当に行くんだ」


「行くに決まってんだろ。何のためにさっさと渡したと思ってんだ」


「さっさと、って」


「そうだろ?」


 ザルクは平然としている。


 イレーネも隣で当然のように頷いた。


「王宮でじっとしていろと言われる方が、罰よ」


 その言い方に、グレイシアがほんの少しだけ目を細めた。呆れ半分、理解半分の顔だ。もう止める気がないことも分かる。


「どうぞご勝手に。ですが、死なないでくださいまし」


「死なんわ」


「魔物より厄介なのが横にいるからな」


 リオネルがそう言うと、イレーネが涼しい顔で見返す。


「誰のことかしら」


「母上です」


「正解」


 その軽いやり取りのあと、二人は本当に出た。


 向かった先は、王都から二日の距離にある中規模の古層ダンジョンだった。王都近辺ではそれなりに知られた場所で、深層には古王朝由来の遺物が眠るとも、気まぐれな魔力の流れで階層構造が時折変わるとも言われていた。危険ではある。だが、無謀というほどでもない。少なくとも、ザルクとイレーネの二人にとっては。


 道中の馬車で、イレーネは地図を膝へ広げた。


「七層までは情報があるわね」


「八層から先は?」


「曖昧」


「いいじゃねえか」


 ザルクはすぐそう言う。


 未知が減るとつまらない類の男なのだ。


「アンタはそうでしょうね」


「お前もだろ」


 イレーネは否定しなかった。


 否定しないところが長い付き合いらしい。


 ダンジョンの入口は、古い砦の崩れた跡地のさらに下にあった。石段は湿っており、蔦が絡まり、開いた口のような暗がりが地下へ続いている。周囲には先行する探索者の痕跡もある。だが深くまでは入っていないらしく、奥へ向かうほど人の気配は薄れていた。


 ザルクは入口の前で、ようやく本当に楽しそうな顔になった。


「久々だな」


「ええ」


「王冠ねえの最高だわ」


「それはそう」


 イレーネもそう返したあと、腰の剣と魔導具の位置を確かめる。王宮での装いとは違い、今の彼女の衣は軽く、動きやすく、腰と腿のラインに沿うように調整されている。小柄な身体に柔らかさはある。けれど、その柔らかさの奥に戦う者の芯が隠れているのは、少し見れば分かる。


 第一層は退屈なほど簡単だった。


 湿った石壁の間を走る小型の魔獣と、苔の陰から飛び出す虫型の魔物ばかりで、ザルクは欠伸でもしそうな顔をする。


「肩慣らしにしても軽いな」


「深くなるほど面倒になるわよ」


「ならさっさと降りるか」


 その言葉通り、二人は無駄に時間をかけなかった。必要なものだけ拾い、余計な部屋は飛ばし、下層への道を優先する。王だった頃のザルクは雑に見えて、動線を読む時だけは驚くほど正確だった。イレーネもまた、必要なものと不要なものを切る判断が早い。二人で潜ると、その早さが噛み合う。


 第三層で魔狼の群れが出た。


 暗がりの奥で、低い唸りがいくつも重なる。赤い目が一斉に灯り、次の瞬間、毛並みの黒い獣たちが左右から飛び出した。


 ザルクは笑った。


「ようやく来たか」


 剣を抜く動きに無駄がない。最初の一頭が喉へ食らいつこうとしたところを、踏み込みだけで半歩外し、そのまま首筋へ刃を入れる。返す動作でもう一頭を払う。


 群れを相手にする時、彼は昔から“数を怖がらない”。むしろ寄ってくるほど都合がいいとでも言いたげに、正面から押し返していく。


 だが、イレーネもまた、ザルクの背だけを守る女ではない。


 彼女は一歩も下がらず、横へ流れるように位置をずらした。指先で短い術式を切り、床へ薄く魔法陣を走らせる。飛び出した三頭がそこへ乗った瞬間、足元から蒼白い火が立ち上がった。


 獣が悲鳴を上げる。


「残せ!」


 ザルクが言う。


 だがイレーネはさらりと返した。


「遅いのよ」


 火が散り、三頭はそこで崩れた。残った群れが怯んだところへザルクが突っ込み、あっという間に片をつける。


 最後の一頭が倒れたあと、ザルクは肩を回した。


「お前もう少し待てよ」


「待ったわよ。二拍は」


「二拍で何が変わる」


「私の気が済む」


 その言い方に、ザルクは結局笑った。


 こういうところは、昔から変わらない。


 第五層では雰囲気が変わった。


 石壁が滑らかな加工に変わり、ところどころに古い彫刻が残る。魔獣よりも、仕掛けと遺物の階層だ。崩れた石棺、欠けた像、読めない古文字。王でなくなった二人には、そういうものを前にする好奇心も残っている。


「古王朝の墓所ね」


 イレーネが壁をなぞる。


 ザルクは床に転がる壺の欠片を蹴飛ばしながら、石棺の蓋をずらした。


「……空だな」


「当たり前よ。そんな分かりやすいところに残ってたら、もう持っていかれてるわ」


 イレーネがそう言った直後、石棺の脇の崩れた石の間に何かが光った。


 彼女はしゃがみ込み、土を払う。出てきたのは、銀とも白金ともつかない古い指輪だった。石は小さいが台座の細工が緻密で、輪の内側に細かな文字が刻まれている。


「これは」


「飾りか?」


「違うわね」


 イレーネはすぐに自分の袋へ入れた。


「セルディアに持っていく」


「即決だなおい」


「使う場所が見えるもの」


 ザルクはその指輪をもう一度見たあと、肩をすくめた。そういうものはたしかに娘向きだ。自分が持つより、祈りと結界を扱うセルディアの方がずっと生かせるだろう。


 第七層では夜営を挟んだ。


 天井が高く、湿り気の薄い広間状の空間を見つけたためだ。中央に焚き火を作り、簡単な結界を張る。携行食は質素だが、二人とも文句を言う性分ではない。むしろ魔物を切ったあとの飯の方がうまいと感じる類だった。


 ザルクは肉の乾物を噛みながら、ようやく深く息をついた。


「静かだな」


 その一言を言った直後だった。


 奥の闇が、ぬるりと動いた。長い影。地を擦る腹。鈍い鱗。焚き火の明かりが揺れた瞬間、それが巨大な蛇型の魔物だと分かる。


 イレーネが即座に立ち上がる。


「だからフラグを立てるなって昔から言ってるでしょう」


「立ててねえよ!」


 叫びながらザルクは剣を掴む。


 大蛇が口を開け、熱を含んだ息を吐いた。人を丸ごと呑めそうな顎だ。だがザルクは怯まない。突進してくる頭を真正面から受けるのではなく、わずかに横へ流して首の付け根へ斬り込む。


 鱗は硬い。浅い。


 だが、その一瞬でイレーネが側面へ回り込み、短い詠唱とともに雷を走らせた。


 大蛇の身体がびくりと硬直する。


「今!」


「見りゃ分かる!」


 ザルクが叫び返し、そのまま首を叩き落とす。切断面から黒い液が散り、焚き火の火がぶわりと揺れた。


 沈黙が戻る。


 ザルクが肩で息をしながら振り返る。


「静かじゃねえじゃねえか」


「アンタが言ったからでしょ」


 イレーネは呆れたように答えた。


 だが口元は笑っている。こういうやり取りを、二人ともどこかで楽しんでいる。


 第九層は地熱の強い階層だった。


 岩の裂け目から湯気が立ち、地面のあちこちがほんのり温かい。さらに奥へ進むと、小さな湯溜まりのような場所がいくつもあった。温泉と言い切るには野趣が強いが、身体を休めるには十分だ。


 ザルクは一目見て笑った。


「当たりだな」


「そうね」


 イレーネも珍しく即答した。


 その時点で、今日の攻略は一度終わったも同然だった。


 二人は荷を下ろし、剣を手の届くところへ置いたまま、湯気の立つ岩場に身を預けた。地熱が肌に染みる。湿った髪が首筋へ張りつき、戦闘で固まっていた筋肉がゆっくりほどけていく。


 ザルクは目を閉じて、ひとつ長く息を吐く。


「やっぱこういうのも必要だわ」


「珍しく賢いことを言う」


「珍しくは余計だろ」


「事実よ」


 イレーネの肩が軽く触れる。


 それだけのことなのに、十代の頃の遠征を思い出す。剣を覚えたばかりで、死ぬほど生意気だった男と、魔法ばかり器用な女が、似たような岩場で似たように休んでいたことを。


 ザルクは横目で妻を見る。


「老けねえな」


「アンタもね」


「褒めてる?」


「事実を言ってるだけ」


 その返しに、思わず笑う。


 昔から、機嫌がいい時ほどこんな言い方をする女だった。


 第十一層では、巨大な石人形に行く手を塞がれた。


 王宮の柱ほどもある腕が振り下ろされ、床が割れる。ザルクは正面からそれを受ける気で踏み込んだが、イレーネが横からきっぱり言った。


「頭使いなさい」


「うるせえな」


「関節」


 短い一語で十分だった。


 ザルクは舌打ちしつつ軌道を変える。石人形の膝へ斬り込み、イレーネが反対側から魔法で亀裂を広げる。巨体がぐらつき、ザルクが肩口を崩し、最後にイレーネの一撃で首が落ちた。


 崩れた石塊の中で、ザルクが肩を鳴らす。


「そういうとこ昔から可愛くねえな」


「今さら何言ってるの」


「可愛げあった方がいいだろ」


「戦ってる最中に?」


「そこじゃねえ」


「そこ以外で言いなさい」


 会話はいつもこんな調子だった。


 だが、その応酬の軽さに反して、互いの癖も間も深いところまで知り尽くしている。


 第十三層に入る頃には、ザルクもイレーネもかなり機嫌がよくなっていた。


 魔物は強くなり、通路は狭くなる。だが、その分だけ手応えもある。入口で肩慣らしだの何だのと言っていた頃とは違い、いまはきちんと身体が温まり、剣も魔法も気持ちよく動く。


 夜営の支度をしていた時だった。


 イレーネが荷を整えながら、ふと小さく息を吐く。


「……久しぶりに、だいぶやったわね」


「おう」


 ザルクは焚き火を起こしながら頷いた。


「やっぱこれだな」


「ええ」


「王宮に籠ってるより、よっぽどいい」


「同感」


 会話がそこで途切れる。


 だが嫌な沈黙ではない。疲れた身体が、ちょうどよく心地いい。


 それでも、イレーネの目だけはまだ完全に満ちていなかった。


 ザルクはその視線に気づいて、火の向こうから眉を上げる。


「何だ」


「……そう?」


「は?」


「私はまだ暴れ足りないのだけれど」


 その言い方に、ザルクは一瞬だけ固まった。


 魔物の話ではない。それくらいは、長い付き合いで分かる。


「いや、待て」


「待たないわよ」


「お前さっきまで石人形焼いてただろ」


「だから何?」


「十分暴れたろ今日は」


「それとこれとは別」


 イレーネはそう言って立ち上がった。焚き火の赤が横顔を照らし、その目だけが妙に艶っぽく光る。戦い足りない時と、欲が残っている時の顔が、昔から少し似ている。


 ザルクは嫌な予感しかしなかった。


「……おい」


「何よ」


「その顔やめろ」


「どういう顔よ」


「襲ってくる顔だ」


「ええ、襲うわよ?」


 断言されてしまえば、もう遅い。


 その夜、ダンジョン攻略を終えてなお、ザルクはきっちり襲われた。魔物より厄介で、しかも一切容赦のない相手に。


 後に第2王女ルティアが生まれるきっかけになったのは、その夜だった。


 ルティアが生まれてしばらくのあいだ、さすがのザルクも少しは大人しくした。


 少しは、である。


 イレーネの身体が戻りきるまでは深層へ潜らず、拠点も王都寄りの安全な場所へ移した。けれど二人とも、そこで「では王宮へ戻って静かに子を育てましょう」という性分ではなかった。


 赤子は赤子で、思いのほか丈夫だった。泣く時は泣くが、揺れには強く、外気にもよく慣れた。焚き火の匂いにも、革袋の擦れる音にも、最初からあまり怯えない。イレーネが「この子、案外向いてるわね」と真顔で言い、ザルクが「誰に似たんだかな」と笑った頃には、もうだいたい先が見えていた。


 生まれてしばらくして体調が落ち着くと、イレーネは本当にルティアを背負って浅層を回り始めた。


 小柄な身体の背に布帯で赤子をしっかり固定し、その上から軽装の外套を羽織る。胸元には最低限の魔導具、腰には細剣。王妃だった頃なら誰も想像しなかったような姿だが、本人にはそれが一番自然らしかった。


 ザルクは最初、さすがに眉をひそめた。


「いや待て、それで行くのか」


「行くわよ」


「赤子だぞ」


「だから浅層だって言ってるでしょう」


「そういう問題か?」


「そういう問題よ」


 イレーネはそこで布帯の締まり具合を確かめ、背中側へ手を回して赤子の位置を整えた。ルティアはきゃらきゃらと機嫌がいい。父の心配など、まるで届いていない。


「ほら見なさい。泣いてないわ」


「泣いてないから何だ」


「嫌なら泣くもの」


「お前の基準雑だな」


「アンタにだけは言われたくないわ」


 結局、ザルクが折れた。


 浅層はたしかに浅層だった。小型の魔物と、罠もどきの仕掛けが少しある程度。ザルクが前へ立ち、イレーネが後ろから見る形なら危険は薄い。だが、それでも普通の親が赤子を背負って歩く場所ではない。


 それなのに、イレーネの足取りは驚くほど自然だった。元々戦いながら周囲をよく見る女だ。自分の足元、前方の気配、背中の重み、その全部を一度に把握して動くことに長けている。赤子がいることで慎重にはなる。だが鈍りはしない。むしろ、守るものが増えた分だけ線が澄んで見えるほどだった。


 ルティアもまた、そういう母の背でよく眠った。


 浅層の湿った空気にも、石壁を伝う反響にも、金属の擦れる音にも慣れていく。ザルクが魔物を蹴散らしたあとの振動で起きることもあったが、少し揺すられればまたすぐ寝た。


 ある日、浅層を一回りして地上へ戻る道すがら、ザルクが背中越しの小さな頭を見ながら言った。


「こいつ、順応早すぎねえか」


「いいことじゃない」


「そうか?」


「泣いてばかりよりずっといいわ」


「いや、そうだけどよ」


 ザルクは少し考えてから、苦笑した。


「王宮育ちにはならねえな、これ」


 イレーネは前を向いたまま答える。


「ならなくていいわよ」


「いいのか」


「アンタと私の子だもの。どのみち普通にはならないでしょう」


 その言い方に、ザルクはとうとう笑った。


 たしかにその通りだった。


 そうしてルティアは、乳飲み子の頃から、母の背中で風と石と火の匂いを覚えて育った。王宮の磨かれた床より先に、浅層のざらついた岩肌を知った。王族らしい歩き方を習うより先に、揺れに合わせて身体を預ける術を覚えた。


 後になって王宮の者たちが、あの第2王女はどこか王宮育ちではない、と首を傾げることになるのも、無理はなかった。


 ルティアが六つになる頃には、もう「ただ連れて歩かれる子」ではなくなっていた。


 もちろん深層など論外だ。回るのは浅層、その中でも危険の薄い道だけ。ザルクとイレーネの目が確実に届き、何かあれば一歩で拾える範囲。だが、その制限の中でなら、ルティアはもう自分の足で歩き、自分の手で持つ段階に入っていた。


 腰には軽いナイフ。玩具ではない。けれど本格的な刃でもない。抜きやすく、重すぎず、子どもの握力でも向きを制御しやすい長さに整えたものだ。ザルクが「最初はこれでいい」と決め、イレーネが柄の巻き直しまで見た。


 出立前、イレーネはしゃがみ込んでルティアの腰の鞘を指で押した。


「抜くだけ抜いて満足しない」


「うん」


「振り回さない」


「うん」


「手から離さない」


「うん」


 そこでザルクが口を挟む。


「あと、怖かったら無理に出すな」


 ルティアが父を見る。


「持ってるのに?」


「持ってるからって、すぐ使うのが正解じゃねえ」


「じゃあいつ使うの」


「近え時」


 イレーネが半眼になる。


「雑」


「分かるだろ」


「アンタは全部それで済ませるわね」


 だがイレーネも止めない。要は、今のルティアに必要なのは“何でもかんでも自分で切ること”ではなく、“距離と危険を体で知ること”なのだと分かっているからだ。


 浅層へ入ると、湿った石の匂いがすぐに鼻へついた。ルティアはそれをもう嫌がらない。王宮の磨いた床より、こちらの方が身体に馴染んでいるところがある。


「父、今日は何が出る?」


「大体いつも通りだ」


「噛むやつ?」


「噛むやつもいる」


「溶かすやつ?」


「いる」


「刺すやつも?」


「いる」


 そこでザルクが娘を見下ろす。


「よし、今日も魔物講座だ」


 イレーネが横でため息をつく。


「ほんとにその名前で通すのね」


「通るだろ」


「雑に」


「雑で分かりゃ十分だ」


 最初に出たのは、小型の鼠型魔物だった。影から影へ走る、速いが脆い類だ。


 ザルクは足を止め、ルティアの肩へ軽く手を置く。


「見ろ。ああいう小せえの」


「うん」


「噛む」


「噛む」


「小さいからって近づくと、足首とか指とか持ってかれる」


 イレーネが横から補足する。


「持っていかれるまではそうそうないけど、血は出るわ。雑菌も入る」


「母の説明の方がこわい」


「そういうものよ」


 ルティアは鼠型を見たまま、自分のナイフの柄へ触れた。


 ザルクがそれに気づいて言う。


「まだ抜くな」


「でも持ってる」


「今日は“抜いていい距離”を見る日だ」


 ルティアは少し考えてから頷いた。


 鼠型がもう一歩近づいたところで、ザルクが小石を蹴って当てる。魔物はそのまま壁際へ飛び退き、逃げた。


「今のは追わなくていい」


「なんで」


「浅いから」


「ざつ」


 ザルクが眉を寄せる。


「効率だ」


「父の効率はざつ」


 イレーネが吹きかけた。


 次に出たのは、半透明の粘体だ。床をぬるりと這う。


 ルティアは一歩だけ下がった。


「溶かすやつ」


「正解」


 ザルクが頷く。


「こういうのは、踏むな、触るな、近すぎたら刺すな。弾ける」


「刺しちゃだめなの?」


「お前はまだだめだ」


 イレーネが指を鳴らすと、粘体の一部がじゅっと焼けた。


「今は父か私が処理するのを見るだけ」


「見るだけ」


「そう」


 ルティアは真面目に頷いた。


 その反応を見て、ザルクが少しだけ顔を緩める。


「いい。分かってんならいい」


 さらに進むと、壁の割れ目から細長い甲虫型が這い出した。脚が多く、甲殻が硬い。


 ルティアがすぐに父を見る。


「これ」


「刺すやつ」


「飛ばす?」


「飛ばすのもいる」


「じゃあ怖いやつ」


「そうだな」


 ザルクはそこで娘の腰のナイフを軽く叩いた。


「こういうのに、お前のナイフは使う」


「今?」


「今はまだ見る」


「見るばっかり」


「最初はそうだ」


 イレーネが横から言う。


「六つでいきなり全部やらせる父親はいないわよ」


 ザルクが即座に返す。


「いるかもしれん」


「アンタだけよ」


 虫型が少し近づいたところで、ザルクはナイフを抜いた。長剣ではない。ルティアが持つものより少し長い程度の軽い刃だ。あえてそれを選んだのだろう。


「見ろ」


 そう言って、虫型の脚の付け根を一閃で断つ。


 甲殻の継ぎ目を狙えば、小さい刃でも入ることを見せたかったのだ。


「硬いのは真ん中じゃねえ。つなぎ目」


 ルティアは目を丸くする。


「そこなら入るの?」


「入る」


「全部?」


「全部じゃねえ」


「ざつ」


「大体だ」


 イレーネが腕を組みながら言う。


「その“大体”をあとでちゃんと絵にして覚えさせるから、今はそれでいいわ」


「助かる」


「最初からそう言いなさいよ」


 少し休憩に入った時、ルティアは自分のナイフを膝の上に置いてじっと見た。陽の入らない地下では、刃は鈍く銀色に光るだけだ。


「父」


「何だ」


「これ、わたしが持ってていいの」


「いいから持たせてる」


「でもまだ使ってない」


「使わねえ日がある方がいい」


 ルティアは考える。


「使えなかったら?」


「それでもいい」


 ザルクの返事は珍しくあっさりしていた。


「抜いて構えて、怖くて動けなくても、それで一回は覚える。何でも最初から綺麗にやれるわけねえだろ」


 その言葉に、ルティアは少しだけ肩の力を抜く。


 イレーネが見て、静かに頷いた。


「今日はそれで十分よ」


 休憩のあと、ようやくルティアが自分でナイフを抜く場面が来た。


 相手は小型の、噛むだけの魔物だった。速くはない。ザルクが後ろに立ち、イレーネが横を塞いでいる。逃げてもいい。父母がいる。そう分かっているからこその一回だ。


「いいか」


 ザルクの声が低くなる。


「近づきすぎるな」


「うん」


「足止めろ」


「うん」


「手だけ出すな。腰から」


 ルティアは息を止めるようにして頷いた。


 魔物がもう一歩前へ出たところで、彼女は小さな足を踏ん張る。ナイフをぎこちなく前へ出し、狙ったのは首ではなく肩口だった。


 浅い。だが刃は入った。


 魔物が跳ね、すぐにザルクが仕留める。


 終わったあと、ルティアはしばらくその場で固まっていた。震えているわけではない。ただ、自分の手が本当に何かへ届いたことを確かめている顔だった。


「……入った」


「入ったな」


 ザルクが頷く。


「ちょっとだけ」


「最初はそんなもんだ」


 イレーネがしゃがみ込み、娘の手首を軽く見た。


「力みすぎ。次はもっと短く」


「こわかった」


「そうでしょうね」


「でも、入った」


「ええ」


 イレーネはそこで、ほんの少しだけ笑った。


「それで十分」


 帰り道、ルティアは少し眠そうだったが、ナイフだけは自分で持っていた。鞘へ戻しても、何度か指で柄を確かめる。


 ザルクが横目で見る。


「気に入ったか」


「……うん」


「よかったな」


「でも父の方がすごい」


「そりゃそうだ」


「でも母もすごい」


「それもそう」


 イレーネがため息半分で言う。


「アンタ、自分で言い切るのね」


「事実だろ」


「それはそうだけど」


 ルティアはそこで、今日覚えたことを指折り数え始めた。


「噛む、とかす、刺す」


 ザルクが頷く。


「そう」


「踏んでもいいやつもいる」


「いる」


「でも今日は、見る」


「見る」


「近かったら、抜く」


「そう」


「でも、怖かったら父」


「それでいい」


 その返答に、ルティアは満足したように頷いた。完璧じゃなくていい。全部自分でやらなくていい。けれど、持って、見て、必要なら抜く。それが今日の講座だったのだと、六つなりにちゃんと分かっていた。


 地上へ出る頃には、夕方の風が少し冷たくなっていた。


 ルティアは歩きながら欠伸をして、それでもナイフの話だけは忘れない。


「父」


「何だ」


「今日のやつ、名前ないの?」


 ザルクは少し考えてから答えた。


「名前はそのうちだ」


「またざつ」


「先に噛むか、溶かすか、刺すか分かる方が大事だろ」


「それはそう」


 イレーネがそこでとうとう笑った。


「認めたわね」


「だって父の魔物講座、名前より先に結果だもん」


 ザルクはむっとしたが、否定できない。結局それが、この親子には一番馴染む教え方だったのだろう。


 後になって王宮の者たちが、あの第2王女はどこか王宮育ちではない、と首を傾げることになるのも、無理はなかった。


 そうしてルティアは、王宮の磨かれた床より先に、浅層のざらついた石を知って育った。王族らしい歩き方を習う前に、足場の悪い場所で重心を取ることを覚え、礼法より先に、父からは雑な魔物講座を、母からは雑では済まない立ち回りを叩き込まれた。


 だから六つになった今も、あの子は王宮育ちではない。剣の気配にも、土の匂いにも、夜営の火にも、驚くより先に馴染む。元王夫妻がルティアを連れて王宮へ顔を出すことにした時、誰もがまず最初に思うことは、きっと同じだっただろう。


 ――この子、まるで王宮の子ではない。


 けれど、それでよかった。なにしろあの子は、王を降りてもなお前へ進み続ける二人の間で生まれ、育った娘なのだから。


 そして十年後。


 隠居してから十年が経った頃、ザルクとイレーネのもとへ、女王から書状が届いた。


 一度、顔を出しなさい。


 文面はそれだけだった。短い。だが、余計な言葉がないぶん、誰の言葉かはっきり分かる。ザルクはそれを読んで鼻を鳴らし、イレーネは横から覗き込んで、やっぱりねという顔をした。


「来たわね」


「来たな」


 好きに潜って、好きに暮らして、好きに子を育てた十年だった。一度くらい戻ってこいと言われるのは、むしろ穏当な方だろう。


 そうしてダンジョン帰りの元王夫妻は、久しぶりに王都方面へ向かうことになった。


 ただし、いきなり王宮へ入るわけではない。まずはモルヴェン公爵領だ。


 馬車に揺られながら、ルティアが窓の外を見たまま言う。


「で、どこ行くの」


「義姉さまのところよ」


 イレーネがそう答えると、ルティアは振り返った。


「義姉さま」


「そう」


「前に言ってた、強い人?」


「強いわよ」


 イレーネは即答した。


 ザルクも向かいで腕を組んだまま頷く。


「かなりな」


 ふうん、とだけ返したルティアは、少し考えてからまた窓の外へ目を戻した。


「兄さまもいる?」 「いるわ」 「子どもも?」 「いる」 「何人?」 「会ってから数えなさい」


 なんでそこで隠すの、とルティアがむくれる。隠してないわよ。面白いからよ、と返す母に、母それたまにあるよね、と言えば、あるわね、とあっさり肯定された。


 そこでザルクが口を挟む。


「お前、挨拶はちゃんとしろよ」


「するもん」


「雑なのは駄目よ」


 イレーネがすぐ重ねる。


「はい」


 言い直した返事だけは素直だ。だが、足の組み方も、窓の外を見る姿勢も、どう見ても王宮育ちの姫ではない。イレーネがそれを見て小さく息をつき、ザルクは知らん顔をしている。


 しばらくしてから、ルティアがまた聞いた。


「義姉さまって、怖い?」


「怖くはないわ」


 イレーネが答える。


「でも、甘くもない」


 ルティアは少しだけ黙った。黙ってから、自分の袖を引っ張ったり、座り直したりする。気にしたのだろう。


 ザルクはそれを見て笑った。


「今さら整えても遅えよ」


「父」


「何だ」


「そういうこと言うから母に怒られるんだよ」


「その通りよ」


 イレーネが即座に言う。


 ルティアはそこで小さく笑って、それからまた窓の外へ目を向けた。


 街道は春の終わりの光を受けて明るい。風は強くなく、空は高い。遠くに見える領地の森と、その先にある館のことを思うと、少しだけ胸が落ち着かない。


「ねえ」


「なに」


「義姉さま、ほんとに強いの」


 その問いには、イレーネではなくザルクが答えた。


「会えば分かる」


「雑」


「実際そうだ」


「父のそれ、だいたいそう」


「だいたいで足りる時もある」


 イレーネが横から淡々と言う。


「足りない分は私が後で直すから、今はそれでいいわ」


 ルティアは少し考えてから、じゃあ、会ってから決める、と頷いた。


「そうしなさい」


 その返事に、イレーネはわずかに口元を緩めた。


 馬車はそのまま、モルヴェン公爵領へ向かって進んでいく。十年好きに生きた元王夫妻と、その間に育った六つの第2王女を乗せて。


 その館で待っている義姉が思っている以上に強く、その兄が思っているよりずっと普通の顔で立っていて、さらにその先で、自分が「いっぱい居る」と二度言うことになるのを、この時のルティアはまだ知らなかった。

本編をお読みいただいた上で、この後日談まで辿り着いてくださった方へ。 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。


今回の後日談で書きたかったのは、断罪劇のあとに「誰が勝った」「誰が負けた」だけでは終わらない、それぞれの続きでした。大きな断絶のあとに、人がどこへ流れ着き、どう立つのかを書きたかったのだと思います。


その中でも、ザルクとイレーネは特に「終わったあとも終わらない人たち」でした。王を退いたからといって静かな余生へ収まる二人ではない。だからまず王宮を出てもらい、ダンジョンへ潜ってもらいました。軽口を叩きながら潜り、魔物を斬り、それでも夜にはまだ暴れ足りない。そういう熱の残り方まで含めて、この二人らしさかなと。


そしてもう一つ書きたかったのが、ルティアです。あの二人の間で生まれた以上、きっと普通の王宮育ちにはならない。だから「第2王女」という肩書きより先に、どういう環境で何を覚えて育ったのかを書きました。母の背で浅層を回り、父からは雑な魔物講座を受け、母からは実戦的な補足を入れられる。そんな育ちが、後のあの子に繋がっていくのだと思っています。


本編を読んだあとで、「この人たちはその後どうなったのだろう」と少しでも気になってくださった方にとって、この後日談が良い余韻になっていれば嬉しいです。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

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