悪役令嬢になったのは、ずっと聖女が王子に粉をかけていたから ──ザルク&イレーネのダンジョン攻略譚
王位を退いた日、ザルク・ゼルバートはずいぶん晴れやかな顔をしていた。
老いを受け入れた王の顔ではない。重い荷をようやく渡し終えた男の顔だった。玉座を離れ、王冠を降ろし、女王となったグレイシアへ国を託したあと、王城の空気は確かに変わった。変わったが、それを惜しむ気配はザルクにもイレーネにもなかった。
むしろ、これでようやく身軽になれる、と二人とも思っていた節がある。
イレーネは最後の公的な晩餐を終え、自室へ戻るなり首飾りを外した。重い宝石の連なりが卓へ置かれても、妙な余韻は残らない。鏡台の前に立つ王妃の姿は整っているのに、表情だけがどこか実に素だった。
「肩が軽いわ」
「王冠外したわけでもねえのに」
ザルクがそう言うと、イレーネは鏡越しに夫を見る。
「アンタが横で王の顔してると、こっちまで王妃の肩になるのよ」
「何だそりゃ」
「そういうものなの」
答えながら、イレーネはふっと笑った。
ザルクもその笑い方を見ると、自分の肩からもいくつか重さが落ちていることを知る。
翌朝にはもう、二人は王宮を発つ準備をしていた。
見送りは最小限でいいとザルクが言い、イレーネも止めない。グレイシアとリオネル、それに最低限の近衛だけが立つ門前で、ザルクは最後まで深刻ぶらなかった。
「じゃあ、行ってくるわ」
「どちらへですの」
グレイシアが問う。
分かっていて聞いている顔だった。
「ダンジョン」
あまりにも即答で、リオネルが横で笑いそうになる。
「父上、本当に行くんだ」
「行くに決まってんだろ。何のためにさっさと渡したと思ってんだ」
「さっさと、って」
「そうだろ?」
ザルクは平然としている。
イレーネも隣で当然のように頷いた。
「王宮でじっとしていろと言われる方が、罰よ」
その言い方に、グレイシアがほんの少しだけ目を細めた。呆れ半分、理解半分の顔だ。もう止める気がないことも分かる。
「どうぞご勝手に。ですが、死なないでくださいまし」
「死なんわ」
「魔物より厄介なのが横にいるからな」
リオネルがそう言うと、イレーネが涼しい顔で見返す。
「誰のことかしら」
「母上です」
「正解」
その軽いやり取りのあと、二人は本当に出た。
向かった先は、王都から二日の距離にある中規模の古層ダンジョンだった。王都近辺ではそれなりに知られた場所で、深層には古王朝由来の遺物が眠るとも、気まぐれな魔力の流れで階層構造が時折変わるとも言われていた。危険ではある。だが、無謀というほどでもない。少なくとも、ザルクとイレーネの二人にとっては。
道中の馬車で、イレーネは地図を膝へ広げた。
「七層までは情報があるわね」
「八層から先は?」
「曖昧」
「いいじゃねえか」
ザルクはすぐそう言う。
未知が減るとつまらない類の男なのだ。
「アンタはそうでしょうね」
「お前もだろ」
イレーネは否定しなかった。
否定しないところが長い付き合いらしい。
ダンジョンの入口は、古い砦の崩れた跡地のさらに下にあった。石段は湿っており、蔦が絡まり、開いた口のような暗がりが地下へ続いている。周囲には先行する探索者の痕跡もある。だが深くまでは入っていないらしく、奥へ向かうほど人の気配は薄れていた。
ザルクは入口の前で、ようやく本当に楽しそうな顔になった。
「久々だな」
「ええ」
「王冠ねえの最高だわ」
「それはそう」
イレーネもそう返したあと、腰の剣と魔導具の位置を確かめる。王宮での装いとは違い、今の彼女の衣は軽く、動きやすく、腰と腿のラインに沿うように調整されている。小柄な身体に柔らかさはある。けれど、その柔らかさの奥に戦う者の芯が隠れているのは、少し見れば分かる。
第一層は退屈なほど簡単だった。
湿った石壁の間を走る小型の魔獣と、苔の陰から飛び出す虫型の魔物ばかりで、ザルクは欠伸でもしそうな顔をする。
「肩慣らしにしても軽いな」
「深くなるほど面倒になるわよ」
「ならさっさと降りるか」
その言葉通り、二人は無駄に時間をかけなかった。必要なものだけ拾い、余計な部屋は飛ばし、下層への道を優先する。王だった頃のザルクは雑に見えて、動線を読む時だけは驚くほど正確だった。イレーネもまた、必要なものと不要なものを切る判断が早い。二人で潜ると、その早さが噛み合う。
第三層で魔狼の群れが出た。
暗がりの奥で、低い唸りがいくつも重なる。赤い目が一斉に灯り、次の瞬間、毛並みの黒い獣たちが左右から飛び出した。
ザルクは笑った。
「ようやく来たか」
剣を抜く動きに無駄がない。最初の一頭が喉へ食らいつこうとしたところを、踏み込みだけで半歩外し、そのまま首筋へ刃を入れる。返す動作でもう一頭を払う。
群れを相手にする時、彼は昔から“数を怖がらない”。むしろ寄ってくるほど都合がいいとでも言いたげに、正面から押し返していく。
だが、イレーネもまた、ザルクの背だけを守る女ではない。
彼女は一歩も下がらず、横へ流れるように位置をずらした。指先で短い術式を切り、床へ薄く魔法陣を走らせる。飛び出した三頭がそこへ乗った瞬間、足元から蒼白い火が立ち上がった。
獣が悲鳴を上げる。
「残せ!」
ザルクが言う。
だがイレーネはさらりと返した。
「遅いのよ」
火が散り、三頭はそこで崩れた。残った群れが怯んだところへザルクが突っ込み、あっという間に片をつける。
最後の一頭が倒れたあと、ザルクは肩を回した。
「お前もう少し待てよ」
「待ったわよ。二拍は」
「二拍で何が変わる」
「私の気が済む」
その言い方に、ザルクは結局笑った。
こういうところは、昔から変わらない。
第五層では雰囲気が変わった。
石壁が滑らかな加工に変わり、ところどころに古い彫刻が残る。魔獣よりも、仕掛けと遺物の階層だ。崩れた石棺、欠けた像、読めない古文字。王でなくなった二人には、そういうものを前にする好奇心も残っている。
「古王朝の墓所ね」
イレーネが壁をなぞる。
ザルクは床に転がる壺の欠片を蹴飛ばしながら、石棺の蓋をずらした。
「……空だな」
「当たり前よ。そんな分かりやすいところに残ってたら、もう持っていかれてるわ」
イレーネがそう言った直後、石棺の脇の崩れた石の間に何かが光った。
彼女はしゃがみ込み、土を払う。出てきたのは、銀とも白金ともつかない古い指輪だった。石は小さいが台座の細工が緻密で、輪の内側に細かな文字が刻まれている。
「これは」
「飾りか?」
「違うわね」
イレーネはすぐに自分の袋へ入れた。
「セルディアに持っていく」
「即決だなおい」
「使う場所が見えるもの」
ザルクはその指輪をもう一度見たあと、肩をすくめた。そういうものはたしかに娘向きだ。自分が持つより、祈りと結界を扱うセルディアの方がずっと生かせるだろう。
第七層では夜営を挟んだ。
天井が高く、湿り気の薄い広間状の空間を見つけたためだ。中央に焚き火を作り、簡単な結界を張る。携行食は質素だが、二人とも文句を言う性分ではない。むしろ魔物を切ったあとの飯の方がうまいと感じる類だった。
ザルクは肉の乾物を噛みながら、ようやく深く息をついた。
「静かだな」
その一言を言った直後だった。
奥の闇が、ぬるりと動いた。長い影。地を擦る腹。鈍い鱗。焚き火の明かりが揺れた瞬間、それが巨大な蛇型の魔物だと分かる。
イレーネが即座に立ち上がる。
「だからフラグを立てるなって昔から言ってるでしょう」
「立ててねえよ!」
叫びながらザルクは剣を掴む。
大蛇が口を開け、熱を含んだ息を吐いた。人を丸ごと呑めそうな顎だ。だがザルクは怯まない。突進してくる頭を真正面から受けるのではなく、わずかに横へ流して首の付け根へ斬り込む。
鱗は硬い。浅い。
だが、その一瞬でイレーネが側面へ回り込み、短い詠唱とともに雷を走らせた。
大蛇の身体がびくりと硬直する。
「今!」
「見りゃ分かる!」
ザルクが叫び返し、そのまま首を叩き落とす。切断面から黒い液が散り、焚き火の火がぶわりと揺れた。
沈黙が戻る。
ザルクが肩で息をしながら振り返る。
「静かじゃねえじゃねえか」
「アンタが言ったからでしょ」
イレーネは呆れたように答えた。
だが口元は笑っている。こういうやり取りを、二人ともどこかで楽しんでいる。
第九層は地熱の強い階層だった。
岩の裂け目から湯気が立ち、地面のあちこちがほんのり温かい。さらに奥へ進むと、小さな湯溜まりのような場所がいくつもあった。温泉と言い切るには野趣が強いが、身体を休めるには十分だ。
ザルクは一目見て笑った。
「当たりだな」
「そうね」
イレーネも珍しく即答した。
その時点で、今日の攻略は一度終わったも同然だった。
二人は荷を下ろし、剣を手の届くところへ置いたまま、湯気の立つ岩場に身を預けた。地熱が肌に染みる。湿った髪が首筋へ張りつき、戦闘で固まっていた筋肉がゆっくりほどけていく。
ザルクは目を閉じて、ひとつ長く息を吐く。
「やっぱこういうのも必要だわ」
「珍しく賢いことを言う」
「珍しくは余計だろ」
「事実よ」
イレーネの肩が軽く触れる。
それだけのことなのに、十代の頃の遠征を思い出す。剣を覚えたばかりで、死ぬほど生意気だった男と、魔法ばかり器用な女が、似たような岩場で似たように休んでいたことを。
ザルクは横目で妻を見る。
「老けねえな」
「アンタもね」
「褒めてる?」
「事実を言ってるだけ」
その返しに、思わず笑う。
昔から、機嫌がいい時ほどこんな言い方をする女だった。
第十一層では、巨大な石人形に行く手を塞がれた。
王宮の柱ほどもある腕が振り下ろされ、床が割れる。ザルクは正面からそれを受ける気で踏み込んだが、イレーネが横からきっぱり言った。
「頭使いなさい」
「うるせえな」
「関節」
短い一語で十分だった。
ザルクは舌打ちしつつ軌道を変える。石人形の膝へ斬り込み、イレーネが反対側から魔法で亀裂を広げる。巨体がぐらつき、ザルクが肩口を崩し、最後にイレーネの一撃で首が落ちた。
崩れた石塊の中で、ザルクが肩を鳴らす。
「そういうとこ昔から可愛くねえな」
「今さら何言ってるの」
「可愛げあった方がいいだろ」
「戦ってる最中に?」
「そこじゃねえ」
「そこ以外で言いなさい」
会話はいつもこんな調子だった。
だが、その応酬の軽さに反して、互いの癖も間も深いところまで知り尽くしている。
第十三層に入る頃には、ザルクもイレーネもかなり機嫌がよくなっていた。
魔物は強くなり、通路は狭くなる。だが、その分だけ手応えもある。入口で肩慣らしだの何だのと言っていた頃とは違い、いまはきちんと身体が温まり、剣も魔法も気持ちよく動く。
夜営の支度をしていた時だった。
イレーネが荷を整えながら、ふと小さく息を吐く。
「……久しぶりに、だいぶやったわね」
「おう」
ザルクは焚き火を起こしながら頷いた。
「やっぱこれだな」
「ええ」
「王宮に籠ってるより、よっぽどいい」
「同感」
会話がそこで途切れる。
だが嫌な沈黙ではない。疲れた身体が、ちょうどよく心地いい。
それでも、イレーネの目だけはまだ完全に満ちていなかった。
ザルクはその視線に気づいて、火の向こうから眉を上げる。
「何だ」
「……そう?」
「は?」
「私はまだ暴れ足りないのだけれど」
その言い方に、ザルクは一瞬だけ固まった。
魔物の話ではない。それくらいは、長い付き合いで分かる。
「いや、待て」
「待たないわよ」
「お前さっきまで石人形焼いてただろ」
「だから何?」
「十分暴れたろ今日は」
「それとこれとは別」
イレーネはそう言って立ち上がった。焚き火の赤が横顔を照らし、その目だけが妙に艶っぽく光る。戦い足りない時と、欲が残っている時の顔が、昔から少し似ている。
ザルクは嫌な予感しかしなかった。
「……おい」
「何よ」
「その顔やめろ」
「どういう顔よ」
「襲ってくる顔だ」
「ええ、襲うわよ?」
断言されてしまえば、もう遅い。
その夜、ダンジョン攻略を終えてなお、ザルクはきっちり襲われた。魔物より厄介で、しかも一切容赦のない相手に。
後に第2王女ルティアが生まれるきっかけになったのは、その夜だった。
ルティアが生まれてしばらくのあいだ、さすがのザルクも少しは大人しくした。
少しは、である。
イレーネの身体が戻りきるまでは深層へ潜らず、拠点も王都寄りの安全な場所へ移した。けれど二人とも、そこで「では王宮へ戻って静かに子を育てましょう」という性分ではなかった。
赤子は赤子で、思いのほか丈夫だった。泣く時は泣くが、揺れには強く、外気にもよく慣れた。焚き火の匂いにも、革袋の擦れる音にも、最初からあまり怯えない。イレーネが「この子、案外向いてるわね」と真顔で言い、ザルクが「誰に似たんだかな」と笑った頃には、もうだいたい先が見えていた。
生まれてしばらくして体調が落ち着くと、イレーネは本当にルティアを背負って浅層を回り始めた。
小柄な身体の背に布帯で赤子をしっかり固定し、その上から軽装の外套を羽織る。胸元には最低限の魔導具、腰には細剣。王妃だった頃なら誰も想像しなかったような姿だが、本人にはそれが一番自然らしかった。
ザルクは最初、さすがに眉をひそめた。
「いや待て、それで行くのか」
「行くわよ」
「赤子だぞ」
「だから浅層だって言ってるでしょう」
「そういう問題か?」
「そういう問題よ」
イレーネはそこで布帯の締まり具合を確かめ、背中側へ手を回して赤子の位置を整えた。ルティアはきゃらきゃらと機嫌がいい。父の心配など、まるで届いていない。
「ほら見なさい。泣いてないわ」
「泣いてないから何だ」
「嫌なら泣くもの」
「お前の基準雑だな」
「アンタにだけは言われたくないわ」
結局、ザルクが折れた。
浅層はたしかに浅層だった。小型の魔物と、罠もどきの仕掛けが少しある程度。ザルクが前へ立ち、イレーネが後ろから見る形なら危険は薄い。だが、それでも普通の親が赤子を背負って歩く場所ではない。
それなのに、イレーネの足取りは驚くほど自然だった。元々戦いながら周囲をよく見る女だ。自分の足元、前方の気配、背中の重み、その全部を一度に把握して動くことに長けている。赤子がいることで慎重にはなる。だが鈍りはしない。むしろ、守るものが増えた分だけ線が澄んで見えるほどだった。
ルティアもまた、そういう母の背でよく眠った。
浅層の湿った空気にも、石壁を伝う反響にも、金属の擦れる音にも慣れていく。ザルクが魔物を蹴散らしたあとの振動で起きることもあったが、少し揺すられればまたすぐ寝た。
ある日、浅層を一回りして地上へ戻る道すがら、ザルクが背中越しの小さな頭を見ながら言った。
「こいつ、順応早すぎねえか」
「いいことじゃない」
「そうか?」
「泣いてばかりよりずっといいわ」
「いや、そうだけどよ」
ザルクは少し考えてから、苦笑した。
「王宮育ちにはならねえな、これ」
イレーネは前を向いたまま答える。
「ならなくていいわよ」
「いいのか」
「アンタと私の子だもの。どのみち普通にはならないでしょう」
その言い方に、ザルクはとうとう笑った。
たしかにその通りだった。
そうしてルティアは、乳飲み子の頃から、母の背中で風と石と火の匂いを覚えて育った。王宮の磨かれた床より先に、浅層のざらついた岩肌を知った。王族らしい歩き方を習うより先に、揺れに合わせて身体を預ける術を覚えた。
後になって王宮の者たちが、あの第2王女はどこか王宮育ちではない、と首を傾げることになるのも、無理はなかった。
ルティアが六つになる頃には、もう「ただ連れて歩かれる子」ではなくなっていた。
もちろん深層など論外だ。回るのは浅層、その中でも危険の薄い道だけ。ザルクとイレーネの目が確実に届き、何かあれば一歩で拾える範囲。だが、その制限の中でなら、ルティアはもう自分の足で歩き、自分の手で持つ段階に入っていた。
腰には軽いナイフ。玩具ではない。けれど本格的な刃でもない。抜きやすく、重すぎず、子どもの握力でも向きを制御しやすい長さに整えたものだ。ザルクが「最初はこれでいい」と決め、イレーネが柄の巻き直しまで見た。
出立前、イレーネはしゃがみ込んでルティアの腰の鞘を指で押した。
「抜くだけ抜いて満足しない」
「うん」
「振り回さない」
「うん」
「手から離さない」
「うん」
そこでザルクが口を挟む。
「あと、怖かったら無理に出すな」
ルティアが父を見る。
「持ってるのに?」
「持ってるからって、すぐ使うのが正解じゃねえ」
「じゃあいつ使うの」
「近え時」
イレーネが半眼になる。
「雑」
「分かるだろ」
「アンタは全部それで済ませるわね」
だがイレーネも止めない。要は、今のルティアに必要なのは“何でもかんでも自分で切ること”ではなく、“距離と危険を体で知ること”なのだと分かっているからだ。
浅層へ入ると、湿った石の匂いがすぐに鼻へついた。ルティアはそれをもう嫌がらない。王宮の磨いた床より、こちらの方が身体に馴染んでいるところがある。
「父、今日は何が出る?」
「大体いつも通りだ」
「噛むやつ?」
「噛むやつもいる」
「溶かすやつ?」
「いる」
「刺すやつも?」
「いる」
そこでザルクが娘を見下ろす。
「よし、今日も魔物講座だ」
イレーネが横でため息をつく。
「ほんとにその名前で通すのね」
「通るだろ」
「雑に」
「雑で分かりゃ十分だ」
最初に出たのは、小型の鼠型魔物だった。影から影へ走る、速いが脆い類だ。
ザルクは足を止め、ルティアの肩へ軽く手を置く。
「見ろ。ああいう小せえの」
「うん」
「噛む」
「噛む」
「小さいからって近づくと、足首とか指とか持ってかれる」
イレーネが横から補足する。
「持っていかれるまではそうそうないけど、血は出るわ。雑菌も入る」
「母の説明の方がこわい」
「そういうものよ」
ルティアは鼠型を見たまま、自分のナイフの柄へ触れた。
ザルクがそれに気づいて言う。
「まだ抜くな」
「でも持ってる」
「今日は“抜いていい距離”を見る日だ」
ルティアは少し考えてから頷いた。
鼠型がもう一歩近づいたところで、ザルクが小石を蹴って当てる。魔物はそのまま壁際へ飛び退き、逃げた。
「今のは追わなくていい」
「なんで」
「浅いから」
「ざつ」
ザルクが眉を寄せる。
「効率だ」
「父の効率はざつ」
イレーネが吹きかけた。
次に出たのは、半透明の粘体だ。床をぬるりと這う。
ルティアは一歩だけ下がった。
「溶かすやつ」
「正解」
ザルクが頷く。
「こういうのは、踏むな、触るな、近すぎたら刺すな。弾ける」
「刺しちゃだめなの?」
「お前はまだだめだ」
イレーネが指を鳴らすと、粘体の一部がじゅっと焼けた。
「今は父か私が処理するのを見るだけ」
「見るだけ」
「そう」
ルティアは真面目に頷いた。
その反応を見て、ザルクが少しだけ顔を緩める。
「いい。分かってんならいい」
さらに進むと、壁の割れ目から細長い甲虫型が這い出した。脚が多く、甲殻が硬い。
ルティアがすぐに父を見る。
「これ」
「刺すやつ」
「飛ばす?」
「飛ばすのもいる」
「じゃあ怖いやつ」
「そうだな」
ザルクはそこで娘の腰のナイフを軽く叩いた。
「こういうのに、お前のナイフは使う」
「今?」
「今はまだ見る」
「見るばっかり」
「最初はそうだ」
イレーネが横から言う。
「六つでいきなり全部やらせる父親はいないわよ」
ザルクが即座に返す。
「いるかもしれん」
「アンタだけよ」
虫型が少し近づいたところで、ザルクはナイフを抜いた。長剣ではない。ルティアが持つものより少し長い程度の軽い刃だ。あえてそれを選んだのだろう。
「見ろ」
そう言って、虫型の脚の付け根を一閃で断つ。
甲殻の継ぎ目を狙えば、小さい刃でも入ることを見せたかったのだ。
「硬いのは真ん中じゃねえ。つなぎ目」
ルティアは目を丸くする。
「そこなら入るの?」
「入る」
「全部?」
「全部じゃねえ」
「ざつ」
「大体だ」
イレーネが腕を組みながら言う。
「その“大体”をあとでちゃんと絵にして覚えさせるから、今はそれでいいわ」
「助かる」
「最初からそう言いなさいよ」
少し休憩に入った時、ルティアは自分のナイフを膝の上に置いてじっと見た。陽の入らない地下では、刃は鈍く銀色に光るだけだ。
「父」
「何だ」
「これ、わたしが持ってていいの」
「いいから持たせてる」
「でもまだ使ってない」
「使わねえ日がある方がいい」
ルティアは考える。
「使えなかったら?」
「それでもいい」
ザルクの返事は珍しくあっさりしていた。
「抜いて構えて、怖くて動けなくても、それで一回は覚える。何でも最初から綺麗にやれるわけねえだろ」
その言葉に、ルティアは少しだけ肩の力を抜く。
イレーネが見て、静かに頷いた。
「今日はそれで十分よ」
休憩のあと、ようやくルティアが自分でナイフを抜く場面が来た。
相手は小型の、噛むだけの魔物だった。速くはない。ザルクが後ろに立ち、イレーネが横を塞いでいる。逃げてもいい。父母がいる。そう分かっているからこその一回だ。
「いいか」
ザルクの声が低くなる。
「近づきすぎるな」
「うん」
「足止めろ」
「うん」
「手だけ出すな。腰から」
ルティアは息を止めるようにして頷いた。
魔物がもう一歩前へ出たところで、彼女は小さな足を踏ん張る。ナイフをぎこちなく前へ出し、狙ったのは首ではなく肩口だった。
浅い。だが刃は入った。
魔物が跳ね、すぐにザルクが仕留める。
終わったあと、ルティアはしばらくその場で固まっていた。震えているわけではない。ただ、自分の手が本当に何かへ届いたことを確かめている顔だった。
「……入った」
「入ったな」
ザルクが頷く。
「ちょっとだけ」
「最初はそんなもんだ」
イレーネがしゃがみ込み、娘の手首を軽く見た。
「力みすぎ。次はもっと短く」
「こわかった」
「そうでしょうね」
「でも、入った」
「ええ」
イレーネはそこで、ほんの少しだけ笑った。
「それで十分」
帰り道、ルティアは少し眠そうだったが、ナイフだけは自分で持っていた。鞘へ戻しても、何度か指で柄を確かめる。
ザルクが横目で見る。
「気に入ったか」
「……うん」
「よかったな」
「でも父の方がすごい」
「そりゃそうだ」
「でも母もすごい」
「それもそう」
イレーネがため息半分で言う。
「アンタ、自分で言い切るのね」
「事実だろ」
「それはそうだけど」
ルティアはそこで、今日覚えたことを指折り数え始めた。
「噛む、とかす、刺す」
ザルクが頷く。
「そう」
「踏んでもいいやつもいる」
「いる」
「でも今日は、見る」
「見る」
「近かったら、抜く」
「そう」
「でも、怖かったら父」
「それでいい」
その返答に、ルティアは満足したように頷いた。完璧じゃなくていい。全部自分でやらなくていい。けれど、持って、見て、必要なら抜く。それが今日の講座だったのだと、六つなりにちゃんと分かっていた。
地上へ出る頃には、夕方の風が少し冷たくなっていた。
ルティアは歩きながら欠伸をして、それでもナイフの話だけは忘れない。
「父」
「何だ」
「今日のやつ、名前ないの?」
ザルクは少し考えてから答えた。
「名前はそのうちだ」
「またざつ」
「先に噛むか、溶かすか、刺すか分かる方が大事だろ」
「それはそう」
イレーネがそこでとうとう笑った。
「認めたわね」
「だって父の魔物講座、名前より先に結果だもん」
ザルクはむっとしたが、否定できない。結局それが、この親子には一番馴染む教え方だったのだろう。
後になって王宮の者たちが、あの第2王女はどこか王宮育ちではない、と首を傾げることになるのも、無理はなかった。
そうしてルティアは、王宮の磨かれた床より先に、浅層のざらついた石を知って育った。王族らしい歩き方を習う前に、足場の悪い場所で重心を取ることを覚え、礼法より先に、父からは雑な魔物講座を、母からは雑では済まない立ち回りを叩き込まれた。
だから六つになった今も、あの子は王宮育ちではない。剣の気配にも、土の匂いにも、夜営の火にも、驚くより先に馴染む。元王夫妻がルティアを連れて王宮へ顔を出すことにした時、誰もがまず最初に思うことは、きっと同じだっただろう。
――この子、まるで王宮の子ではない。
けれど、それでよかった。なにしろあの子は、王を降りてもなお前へ進み続ける二人の間で生まれ、育った娘なのだから。
そして十年後。
隠居してから十年が経った頃、ザルクとイレーネのもとへ、女王から書状が届いた。
一度、顔を出しなさい。
文面はそれだけだった。短い。だが、余計な言葉がないぶん、誰の言葉かはっきり分かる。ザルクはそれを読んで鼻を鳴らし、イレーネは横から覗き込んで、やっぱりねという顔をした。
「来たわね」
「来たな」
好きに潜って、好きに暮らして、好きに子を育てた十年だった。一度くらい戻ってこいと言われるのは、むしろ穏当な方だろう。
そうしてダンジョン帰りの元王夫妻は、久しぶりに王都方面へ向かうことになった。
ただし、いきなり王宮へ入るわけではない。まずはモルヴェン公爵領だ。
馬車に揺られながら、ルティアが窓の外を見たまま言う。
「で、どこ行くの」
「義姉さまのところよ」
イレーネがそう答えると、ルティアは振り返った。
「義姉さま」
「そう」
「前に言ってた、強い人?」
「強いわよ」
イレーネは即答した。
ザルクも向かいで腕を組んだまま頷く。
「かなりな」
ふうん、とだけ返したルティアは、少し考えてからまた窓の外へ目を戻した。
「兄さまもいる?」 「いるわ」 「子どもも?」 「いる」 「何人?」 「会ってから数えなさい」
なんでそこで隠すの、とルティアがむくれる。隠してないわよ。面白いからよ、と返す母に、母それたまにあるよね、と言えば、あるわね、とあっさり肯定された。
そこでザルクが口を挟む。
「お前、挨拶はちゃんとしろよ」
「するもん」
「雑なのは駄目よ」
イレーネがすぐ重ねる。
「はい」
言い直した返事だけは素直だ。だが、足の組み方も、窓の外を見る姿勢も、どう見ても王宮育ちの姫ではない。イレーネがそれを見て小さく息をつき、ザルクは知らん顔をしている。
しばらくしてから、ルティアがまた聞いた。
「義姉さまって、怖い?」
「怖くはないわ」
イレーネが答える。
「でも、甘くもない」
ルティアは少しだけ黙った。黙ってから、自分の袖を引っ張ったり、座り直したりする。気にしたのだろう。
ザルクはそれを見て笑った。
「今さら整えても遅えよ」
「父」
「何だ」
「そういうこと言うから母に怒られるんだよ」
「その通りよ」
イレーネが即座に言う。
ルティアはそこで小さく笑って、それからまた窓の外へ目を向けた。
街道は春の終わりの光を受けて明るい。風は強くなく、空は高い。遠くに見える領地の森と、その先にある館のことを思うと、少しだけ胸が落ち着かない。
「ねえ」
「なに」
「義姉さま、ほんとに強いの」
その問いには、イレーネではなくザルクが答えた。
「会えば分かる」
「雑」
「実際そうだ」
「父のそれ、だいたいそう」
「だいたいで足りる時もある」
イレーネが横から淡々と言う。
「足りない分は私が後で直すから、今はそれでいいわ」
ルティアは少し考えてから、じゃあ、会ってから決める、と頷いた。
「そうしなさい」
その返事に、イレーネはわずかに口元を緩めた。
馬車はそのまま、モルヴェン公爵領へ向かって進んでいく。十年好きに生きた元王夫妻と、その間に育った六つの第2王女を乗せて。
その館で待っている義姉が思っている以上に強く、その兄が思っているよりずっと普通の顔で立っていて、さらにその先で、自分が「いっぱい居る」と二度言うことになるのを、この時のルティアはまだ知らなかった。
本編をお読みいただいた上で、この後日談まで辿り着いてくださった方へ。 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
今回の後日談で書きたかったのは、断罪劇のあとに「誰が勝った」「誰が負けた」だけでは終わらない、それぞれの続きでした。大きな断絶のあとに、人がどこへ流れ着き、どう立つのかを書きたかったのだと思います。
その中でも、ザルクとイレーネは特に「終わったあとも終わらない人たち」でした。王を退いたからといって静かな余生へ収まる二人ではない。だからまず王宮を出てもらい、ダンジョンへ潜ってもらいました。軽口を叩きながら潜り、魔物を斬り、それでも夜にはまだ暴れ足りない。そういう熱の残り方まで含めて、この二人らしさかなと。
そしてもう一つ書きたかったのが、ルティアです。あの二人の間で生まれた以上、きっと普通の王宮育ちにはならない。だから「第2王女」という肩書きより先に、どういう環境で何を覚えて育ったのかを書きました。母の背で浅層を回り、父からは雑な魔物講座を受け、母からは実戦的な補足を入れられる。そんな育ちが、後のあの子に繋がっていくのだと思っています。
本編を読んだあとで、「この人たちはその後どうなったのだろう」と少しでも気になってくださった方にとって、この後日談が良い余韻になっていれば嬉しいです。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。




