人化の魔法と、入学願書と、なぜか寮のルールが細かい件
一
男の名前は、ガレアスといった。
フルネームはガレアス・ドーヴェン。元は帝国の宮廷魔法師だったが、今は「色々あって」旅をしているのだと言った。「色々」の内容については教えてくれなかった。
(色々って何やねん。一番気になるとこをぼかすな)
桐子は最初、この人間のことをそこまで信用していなかった。
当然だ。傷を癒されたとはいえ、相手は人間だ。ドラゴンを捕まえて売り払おうとする人間がいることは、この三ヶ月でなんとなく学んでいた。
(観察しよ。行動パターンと目的を見極めてから判断する。それが研究者ってもんや)
しかしガレアスは、一週間、何も要求しなかった。
ただ傷の薬を替え、焚き火のそばで本を読んでいた。桐子が威嚇しても、静かに避けるだけだった。桐子が眠れずにいると、小声で何かの話をしてくれた。この世界の地理の話、歴史の話、珍しい生き物の話——言葉が通じないはずなのに、なぜか話しかけてくるのをやめなかった。
(……なんで話しかけてくるんやろ。返事もできへんのに。でも、嫌ではない。なんでやろ)
そして何より、ガレアスは桐子が食事をしないことを不思議がらなかった。当然のように、ただ傍にいた。
(この人、ドラゴンのことをちゃんと知ってる。精霊力でエネルギーを補うって話も、さらっと言ってたし)
八日目の夜、桐子はとうとう根負けした。
傷はほぼ癒えていた。飛ぶことはまだできないが、立って歩けるくらいには回復していた。逃げようと思えばいつでも逃げられた。
なのに、逃げなかった。
「——お前は」
声が出た。人間の言葉が。自分でも驚いた。
(え、喋れるやん。なんで今まで気づかんかったん私)
ガレアスが本から目を上げた。
「なぜ、逃げろと言わない」
桐子の問いに、男はしばらく黙っていた。それから静かに言った。
「お前が逃げたいなら、とっくに逃げているだろう」
(……正論や。反論できへん)
「それに」と続けた。
「ここ数日、お前が私の荷物の中の本を盗み読みしていたのは知っている」
完全に、見られていた。
(あ、バレてた。いや盗み読みって言葉は心外やな。勉強してただけで……いや盗み読みか。すみません)
「生態学の論文みたいな読み方をするドラゴンは、初めて見た」4
(そらそうやろ。そういうドラゴンはおらんわ普通)
桐子は、鱗の下で——おそらく——盛大に赤面した。
二
そこから、二人の奇妙な共同生活が始まった。
ガレアスはこの世界のことを、驚くほど丁寧に教えてくれた。
この世界の名前はエルダリア。大陸のほぼ中央にグレンバ帝国が存在し、その周囲を複数の公国と自治領が取り囲んでいる。魔法は一般市民にも普及しているが、使える者と使えない者がいて、才能のある者は帝国の魔法学校で体系的に学ぶのが慣わしだ。
そしてこの世界には、精霊力と呼ばれるエネルギーが満ちている。
「大地から、水から、風から、あらゆるものに宿っている」とガレアスは言った。
「生き物はそれを呼吸のように微量ずつ取り込んで生きている。魔法師はその取り込み量を意図的に増やし、制御して術として使う」
「ドラゴンは?」と桐子は聞いた。
「ドラゴンは人間とは根本的に仕組みが違う。人間が精霊力を少量だけ取り込んで補助的に使うのに対して、ドラゴンは大量の精霊力を直接エネルギーに変換して生きている。だから食事が不要だ」
(やっぱりそうか! 三ヶ月の謎がここで全部繋がった!)
桐子は興奮を抑えながら聞き続けた。
「つまり、ドラゴンにとっての精霊力は——人間でいう食事と呼吸を兼ねたものですか」
「そういうことになる。精霊力が豊かな環境にいれば、ドラゴンは無限に近い活動が可能だ。逆に精霊力が薄い場所では、消耗する」
(なるほど! だから飛べば飛ぶほど満たされる感覚があったんや。大気中の精霊力を翼で撹拌しながら効率よく取り込んでたんか。そして精霊力が乱れてる場所ではなんか気分が悪かった——あれは精霊力の質が悪くて取り込み効率が落ちてたってことか)
「ドラゴンが炎を吐けるのも同じ理屈だ」とガレアスは続けた。
「体内に蓄積した精霊力を変換して解放している。魔法師が術を使うのと、根本的な仕組みは同じだ」
「つまり魔法って、エネルギーの変換と制御ですよね」
ガレアスが少し驚いた顔をした。
(あ、この世界にはそういう概念の整理の仕方がないんかな。でも実質そうやん。入力と出力があって変換効率があって熱力学と同じ構造やん)
「……そういう言い方もできる、な」
「入力と出力があって、変換効率があって、ロスがある。熱力学みたいなものですか?」
「お前は本当に、どこから来たんだ」
(それは私も知りたい。というか「どこから」という問いに「異世界」って答えて通じるんかな、この世界に転生の概念があるかどうかも不明やし)
事情を説明するのは難しかった。結局、桐子は「遠いところから来た」とだけ言った。ガレアスはそれ以上聞かなかった。
その代わり、一つだけ聞いてきた。
「精霊力の乱れについて、気づいているか」
桐子は答える前に、少し考えた。
正直に言えば——薄々、感じていた。
飛んでいる時、気流とは別の何かがある。目には見えないが、感じられる。大地から空気を伝って漂ってくる精霊力の流れ。それが最近、どこかがおかしい。乱れている。濁っている。川に墨を一滴垂らしたような、不快な感覚が混じっている。
(精霊力でエネルギーを補ってると聞いて、余計に腑に落ちた。あの「気分が悪い」感覚は、取り込もうとした精霊力の質が悪かったせいやったんや。食べ物に例えるなら、腐ったものを口に入れた時みたいな反応か)
(気のせいちゃうかったんや。やっぱり何かある)
ゆっくりと、頷いた。
「ドラゴンの長たちも気づいている」とガレアスは静かに言った。
「妖精族の間でも、行方不明が増えている。精霊力を多く持つ者から、消えていっている。子どもたちが——」
そこで言葉が途切れた。
男の横顔が、一瞬だけ硬くなった。
(……子どもたち。その言い方、他人事に聞こえへん)
桐子は何も言わなかった。ただ、聞いていた。
「原因がわかっていない。それが一番まずい」
(原因不明か。確かにそれが一番怖い。原因さえわかれば対処できるけど、わからんままやと手の打ちようがない。しかも精霊力が乱れてるということは、ドラゴンにとっては食事が腐り始めてるのと同じ状況で——このまま続いたら)
桐子の中で、他人事ではないという認識が、じわりと広がり始めた。
三
問題が動いたのは、翌月のことだった。
桐子の翼が完全に回復した頃合いを見計らったように、山の向こうから二頭のドラゴンがやってきた。
一頭は赤銅色の鱗を持つ、桐子の倍はあろうかという巨躯の老竜。もう一頭は深緑色で、こちらも充分に大きかった。
(でかい。私より全然でかい。いや私も結構でかいと思ってたけど、上には上がおったんやな)
桐子はとっさに身構えたが、二頭は敵意を示さなかった。
老竜が、古い言葉で話しかけてきた。ドラゴン語だ。不思議なことに、桐子にはそれが理解できた。体が、知っていた。
(体が勝手に理解してる。面白い。言語の習得が本能レベルで組み込まれてるんかな)
「若い娘よ、お前がこの三ヶ月、この森を根城にしていた者か」
「……そうです」
「少し話がある。ガレアスよ、お前もだ」
老竜が、人間の姿のガレアスの方を向いて言った。ガレアスは驚いた様子もなく頭を下げた。顔見知りらしかった。
(知り合いやったんか。最初からそういう流れやったんかな、私をここで拾ったのも)
老竜の名はヴェルドラ。ドラゴンの長の一人で、エルダリア北部の山脈を縄張りとする、この大陸でも最古参の部類に入る存在だと後から聞いた。
ヴェルドラは、精霊力の乱れについて話した。
ここ半年で、精霊の流れが乱れている地点が少なくとも七か所確認されている。妖精族の行方不明は二十三件。ドラゴンの幼体も三頭が消えた。調査のために年長のドラゴン数頭が各地に散っているが、決定的な手がかりがない。
(二十三件。幼体三頭。数字で聞くと重い。これ、かなりまずい状況やな)
(それに——精霊力が乱れ続けたら、ドラゴンにとってはエネルギー源そのものが汚染されていくってことや。長期的には生存に関わる問題になる)
「問題は」と老竜は続けた。「原因が人間の社会に絡んでいる可能性が高いことだ」
「根拠は?」と桐子が聞いた。
「消えた地点の多くが、人間の都市の近くだ。しかもいずれも、魔法の研究が盛んな場所に集中している」
(相関関係はある。ただ因果関係の方向はまだ不明か。人間の社会が原因なのか、それとも同じ原因が別の形で現れてるだけなのか。でも魔法が精霊力の変換と制御やとすれば、大規模な魔法研究が精霊力の流れに影響を与える可能性は十分ある)
桐子は少し考えた。
「帝国の魔法学校とか、ですか」
「そうだ。我々ドラゴンが人間の社会に潜り込むのは難しい。だが——」
ヴェルドラの巨大な眼が、まっすぐ桐子を見た。
「お前は人間の知識を持ち、人間の言葉を話す。そして、聞けば人化の素質もあるという」
桐子はガレアスを見た。
ガレアスが、少し申し訳なさそうな顔で視線を逸らした。
(……告げ口してたんかい。一言言ってくれたらよかったのに)
「人化の魔法を習得し、帝国のハルティア魔法学校に潜入してもらいたい。情報を集めて来い。お前には、それができるはずだ」
沈黙が落ちた。
桐子は考えた。色々と考えた。リスクとか、難易度とか、自分に本当にそんな芸当ができるのかとか——
(魔法学校)
胸の中で、何かに火がついた感覚があった。
(魔法を——体系的に学べる学校)
(精霊力がエネルギーの変換系として機能してるなら、その理論体系があるはずで、それを一から学べる環境が……)
(行きたい。めちゃくちゃ行きたい)
(しかも調査で行くわけやから、精霊力の乱れの原因も調べられる。研究と任務が一致してる。これ以上ない条件やん)
桐子は生態学の研究者だった。調査して、分析して、仮説を立てて検証する。謎があれば解きたくなる。知らないことがあれば知りたくなる。それが、岸本桐子という人間の根っこにあるものだった。
「——わかりました」
桐子は言った。
「やります」
(任務のためだけやなくて、純粋に学びたい。でもそれは胸の中だけに留めておこう)
(あと精霊力の乱れは、私自身のエネルギー源の問題でもある。他人事やない)
四
問題は山積みだった。
まず、人化の魔法。
ドラゴンが一時的に人間の姿をとる魔法は存在するが、難易度が高い。長時間の維持は熟練者でも消耗する。おまけに桐子は転生してまだ数ヶ月の若いドラゴンで、魔法の「ま」の字も習っていない。
「素質はある」とガレアスは言った。「精霊力の感知能力は、年長のドラゴンにも引けを取らない。問題は制御だ」
「制御を習得するのにどれくらいかかりますか」
「通常は数年」
「……入学試験はいつですか」
「来年の春」
「八ヶ月ある」
「……お前、本気か?」
「やるって言ったんで」
(八ヶ月で数年分を習得する。効率化の余地がどこにあるか考えながら進めれば、不可能ではないはずや。理論を先に完全に理解して、実践に落とし込む順序で——)
ガレアスは額に手を当てた。しかし、教えることを断りはしなかった。
訓練は過酷だった。
精霊力を「感じる」ことはできても、「掴む」のが難しかった。体内に取り込もうとすると、砂をすくうように指の隙間から逃げていく。
(おかしい。ドラゴンは精霊力を直接エネルギーに変換して生きてるって言ってたやんか。つまり無意識には取り込めてる。それを意識的にやろうとすると途端にできへんくなる。これ、呼吸と同じ問題や。普段は無意識にできてるのに、意識した途端に逆に難しくなる)
ガレアスによれば感覚的には「川の流れに手を入れて、水を一握りだけ止める」ようなものらしいが、桐子には最初、その感覚が全くわからなかった。
(川の流れに手を入れて水を一握り止める……要するに流量制御か。入口を絞って出口を一点に集中させる、みたいなイメージか? でも無意識にやってることを意識的に再現するって、理屈はわかるけど体がついてこんな)
何度やっても霧散する。
何度やっても、制御できない。
「集中が足りない」
「集中してます」
「考えすぎている。頭じゃなく、体で感じろ」
「体で感じるってどういう——」
(いや、それが一番わからんくて困ってるんやけど。「体で感じろ」って言葉、科学的に説明してほしい。体のどの受容器で何をどう感知するんや)
「黙れ。もう一度」
ガレアスは教え方が厳しかった。しかし理不尽ではなかった。できたことは「できた」と言ったし、コツを掴んだ時は次の段階に進ませてくれた。
二ヶ月目の終わりに、初めて精霊力を掌に集めることができた。青白い光が、桐子の前肢——まだドラゴンの姿だったが——の先に集まって、小さく輝いた。
「……できた」
(できた! できたやん!! この感覚、普段無意識に全身で取り込んでる精霊力の流れを、一点に絞り込むイメージで——あ、レンズや。光を一点に集めるレンズと同じ原理か! ということは制御の精度を上げるには……)
「まあな」とガレアスが言った。「筋はいい。素直じゃないが」
「どっちですか」
「両方だ」
(ひどい言われ様やな。でも否定はできへん)
次の難関は、人化そのものだった。
五
人化の魔法の習得は、ガレアスの力だけでは限界があった。
ヴェルドラが連れてきた深緑色のドラゴン——名をアルジェ、年齢は二百歳ほどの「比較的若手」——が人化の指導を担当することになった。
(二百歳で若手……ドラゴンの時間軸えぐいな。人間換算で何歳くらいの感覚なんやろ)
アルジェは普段、人間の姿をとっていた。見た目は三十代前半の女性で、長い黒髪と鋭い目が印象的だ。口数は少ないが、教え方は明快だった。
「人化は変身魔法じゃない」と最初に言われた。「精霊力で体の輪郭を書き換える。紙の上に別の絵を描くんじゃなくて、紙そのものの形を変える感じ」
(なるほど。上書きじゃなくて再構成か。分子レベルで言うたら……いや待って、そこまで細かい話ちゃうか。まずはマクロな構造の把握から)
「……ということは、術が解けたら元に戻る?」
「そう。ドラゴンに戻る時は一気に戻るから、人間の社会では絶対に気を抜くな」
「感情が高ぶると解けやすいとも聞きましたが」
「そう。特に——怒りと、恐怖と」アルジェは少し間を置いた。「それから、大きな喜びも危ない」
「喜びも?」
「嬉しすぎると解ける。気をつけろ」
(……喜びで解けるんか。感情の制御も必要ってことか)
(いや待って)
(私、三度の飯より研究が好きなタイプやねんけど。謎が解けた瞬間とか、仮説が証明できた瞬間とか、めちゃくちゃテンション上がるねんけど)
(詰んでへん?)
(いや詰んでへん。制御するだけや。感情の制御も一種の訓練やと思えばいける……はず)
それは、桐子にとって最難関の制約かもしれなかった。
もう一つ、人化には別の問題もあった。
「人化している間は、精霊力の取り込み効率が落ちる」とアルジェが言った。「人間の体の構造は、ドラゴンほど精霊力を吸収するのに向いていない。人化を長く維持するほど、体内の精霊力を消耗する」
(そうか。人化そのものが精霊力を消費して、さらに人間の体では補充効率も下がる。二重の消耗や)
「つまり周囲の精霊力が薄い環境では——」
「人化の維持が困難になる」とアルジェは頷いた。「精霊力が豊かな環境ほど、人化を長く保てる」
(精霊力の乱れが進めば進むほど、潜入任務が難しくなる。タイムリミットは想定より短いかもしれへん)
訓練は続いた。冬を越した。雪が降る中でも、ガレアスは容赦しなかった。アルジェも容赦しなかった。桐子も、負けず嫌いだったので根を上げなかった。
(雪の中で精霊力制御の訓練。寒い環境だと大気中の精霊力の密度が変わるんかな。それとも気温と精霊力の感知精度に相関がある? データとして興味深い。今はそれどころちゃうけど)
春の手前、雪解けが始まった頃。
桐子は初めて、完全な人化に成功した。
気づいたら、手があった。
五本指の、人間の手が。
ゆっくりと手のひらを開いて、閉じて、また開いた。小さかった。ドラゴンの前肢と比べたら、笑えるほど小さくて、か細くて——しかし間違いなく、これは自分の手だった。
(……手や。手がある)
(ちっちゃ)
「……成功、してる?」
「してる」とアルジェが言った。「全身、ちゃんと人間になってる」
桐子は鏡を持っていなかったので、川まで走った。水面に映った顔は——人間だった。二十代の、黒髪の、少し小柄な——。
「あれ」
(思ったより、前と変わらんな。もう少しこう……なんかあっても良かったんちゃうかな。身長とか)
(まあ転生前のイメージが強すぎて無意識に引っ張られたんやろうけど。それにしても百五十二センチのまんまか。せっかく転生したのに)
「お前が無意識に人間だった頃の姿に近いものを選んだんだろう」とアルジェが後ろから言った。「人化の外見は、多少は意図的に変えられるが、最初は本人の潜在的なイメージに引っ張られる」
「……なんか、思ってたより地味な結果ですね」
(地味って言ったら失礼か。でも百五十二センチのまんまは地味やろ。客観的に見て)
「贅沢なことを言うな。しかも維持できているのが一番大事だ」
(それはそう。人化中は精霊力の消耗が早いんやから、維持できてなかったら意味ないし。身長の話は後でガレアスに相談しよ……相談できるんかな、そんなこと)
桐子は水面を見つめながら、もう一度手を開いた。
(また、手が戻ってきた)
不思議な気持ちだった。懐かしいような、でもどこか他人事のような。自分が人間だった時の記憶は確かにあるのに、こちらの方が「本来の姿」という感覚が薄い。
(どっちが本物なんやろ。でも)
(まあ、どっちでもええか。今の私は今の私や)
六
入学試験まで、残り一ヶ月。
問題は、人化だけではなかった。
「名前が必要だ」とガレアスが言った。「入学願書に書く、人間としての名前」
「キリコじゃだめですか」
「キリコという名前はこの地域にはない。不自然だ」
「じゃあ」と桐子は少し考えた。「キリアとかは?」
「悪くない。姓は?」
「姓の文化はありましたっけ」
「帝国では貴族と、一部の学術系の家系が姓を持つ。庶民は名のみが多い」
「じゃあキリアだけで」
「出身地は?」
「……どこにしましょう」
「帝国の東端、エルダ州はどうだ。辺境だから細かく調べられにくい。魔法の素養がある家系が点在している土地で、独学で魔法を学んだ者が受験しに来ることも珍しくない」
(この設定、いつ考えたん? 用意周到すぎひん?)
「ガレアスさん、この設定をいつ考えたんですか」
「お前の訓練を始めた頃から」
(やっぱり最初から計算してたんや。この人、怖いな。いい意味で)
願書の記入は、ガレアスが手伝ってくれた。この世界の文字は、桐子には一から習う必要があった。ドラゴンの姿では本が読めても、人間の手で書くのはまた別の話だ。
「字が汚い」とガレアスに言われた。
「利き手の感覚を取り戻し中です」
「取り戻し中?」
「……なんでもないです」
(転生前も字は綺麗な方やなかったし、まあしゃあないか。論文はキーボードで書いてたし。というかキーボードのない世界で研究者やるのは純粋に不便やな)
入学試験の内容は、筆記と実技だとガレアスが教えてくれた。筆記は基礎的な魔法理論と一般教養。実技は精霊力の感知・制御の実演。
「筆記の方は大丈夫か?」
「理論は問題ないです。この世界の一般教養は……まだ不安なところがありますが」
「歴史と地理が弱いな、お前は」
「現代社会には強いんですが」
「現代社会とは」
「……なんでもないです」
(帝国の建国史とか地方の特産品とか、そういう暗記モノは後回しにしてたからな。理論の方ばっかり面白くて。研究者の悪い癖や)
(でも実技は自信ある。精霊力の感知と制御なら、ガレアスの訓練で相当鍛えられたし)
七
試験当日、桐子——もといキリア——は帝都の試験会場に立っていた。
帝都を見るのは初めてだった。上空からこっそり眺めたことはあったが、地上から見る帝都は、また全然違う。石畳の通りが碁盤目に整備されていて、魔法灯が街路を照らしている。商店が立ち並び、馬車が行き交い、様々な格好をした人々が行き交う。
(賑やかやな。というか人多すぎ。これ、人間サイズになると余計きつい)
ドラゴン時代は空から見ていたので気にならなかったが、人間の目線で見る人混みは、前の世界と変わらない圧迫感があった。
(あかん。これ、合コンより密度が高い。いや比べるとこちゃうな)
(それに——帝都の精霊力、森より薄い。人化の消耗が少し早くなるかもしれん。気をつけなあかん)
と、思っていたら、後ろから声をかけられた。
「ねえ、ちょっと」
振り向くと、同い年くらいの少女が立っていた。長い金髪を一つに束ねて、少し眉を寄せてこちらを見ている。
「入学試験の会場、どっちか知ってる? 案内板が読みにくくて」
「あ——」と桐子は周囲を見渡した。「あの建物だと思います。門に魔法紋が刻んであるやつ」
「ありがとう! 受験生?」
「そうです」
「私もー。エルダ州から来たって本当? あそこ遠いのに大変だったね」
(え、なんで知ってんの。願書の情報が共有されてるんかな……怖。気をつけなあかん)
桐子は一瞬固まったが、すぐに落ち着いた。
「まあ、なんとか」
「私はルディア。グレン市の出身。よろしく!」
「キリア。よろしく」
(明るい子やな。距離感が近いタイプ。前の世界やったら少し苦手やったけど……まあ、悪意はなさそうや)
(でも嫌いではない。なんやろ、裏表がない感じがする。研究者的に言うたら「観測されたデータと実態に乖離がない個体」ってとこやな……人間に使う言葉ちゃうな、それ)
八
試験の結果は、三週間後に通知された。
合格だった。
追って送られてきた入学通知書には、合格者の成績が掲載されていた。今年度の受験者は百二十三名、合格者は三十八名。その中で桐子の成績は——実技が首席、筆記が十一番、総合で三番だった。
(三番か。首席やなかったのは地理と歴史が引っ張ったな。あそこは純粋に準備不足やった。反省)
(でも実技首席は素直に嬉しい。ガレアスの訓練の成果や。あと精霊力を直接エネルギーにしてるドラゴンが精霊力の制御をやれば、そらある程度はできるよなという話でもあるけど)
悪くない。
むしろ良すぎるかもしれないと少し心配になったが、目立ちすぎるのも困る、と思い直してそっとしておくことにした。
通知書と一緒に、寮の規則集が同封されていた。
全員入寮が義務づけられているらしい。
桐子は規則集を開いた。
読み始めて、三秒で頭が痛くなった。
寮則第一条:消灯は夜の十二鐘まで。これ以降の灯りの使用は規則違反とする。
寮則第二条:食堂の利用は朝・昼・夜の定められた時間帯のみ。時間外の厨房立ち入りは禁止。
寮則第三条:各居室の面積は一人あたり八歩四方とする。私物の持ち込みは別途申請が必要。
寮則第四条:異性の居室への立ち入りは、寮監の許可なしにはこれを禁止する。
寮則第五条:魔法の使用は訓練室および指定された屋外訓練場のみとする。居室および廊下での使用は……
全部で四十七条あった。
(四十七条……)
(ドラゴン時代の私のルールは「眠たかったら寝る、飛びたかったら飛ぶ、精霊力は大気から勝手に補充される」の三条やったのに)
(しかも食堂のルールが細かいけど、私そもそも食事いらんのやけど。どうしよ。食べへん学生って目立つんちゃうかな)
(……食べるふりの練習もしとかなあかんやつか。なんでこんな細かいところで躓くねん)
まあ、いい。
(いや多いけど。でも目的がある。知りたいことがある。魔法が、学べる)
(あと精霊力の乱れの原因を突き止めれば、自分自身のエネルギー源の問題も解決できる。完全に私利私欲と任務が一致してる。やるしかない)
桐子は規則集を閉じた。
「行くか」と、一人で呟いた。
(全部暗記しといた方がええな。抜け穴も把握しておきたい。あと食事どうするか真剣に考えよ)
窓の外、夕暮れの空に、一番星が瞬き始めていた。
どこかの方角で——おそらく帝都の方角で——ひどく微かに、精霊力の流れが乱れているのを感じた。
(……あの乱れ。まだ続いてる)
(帝都の精霊力が薄いのは、あの乱れのせいもあるんかな。だとしたら学校内はもっと顕著に感じられるかもしれへん。人化の消耗に影響が出る可能性がある。要注意や)
乱れは、確実に広がっている。
桐子は窓を閉めた。




