33. シャルルの目覚め
ひどく苦しかった。頭が朦朧として気を失いかけては、体内を突き刺すような熱と痛みに覚醒する。意識があっても目の前は真っ黒で、耳には金属音のような甲高い音が突き刺さっている。精神に思考する余裕などなく、自分のいる場所も時間も分からぬまま、ただ痛みの潮汐に翻弄され続けていた。
再び理性を取り戻したとき、シャルルは柔らかい場所に横たわっていた。
眠りから覚めたときのように自然と瞼が開く。見慣れない白い天井は、昼を思わせる爽やかな光で照らされている。
すぐに、自分が活きているのだと理解した。
意識を失う前のことは余すことなく覚えていた。
「――シャルル!」
遠くで名前を呼ばれたのが分かる。
顔を向けようとするが、頭がひどく重い。体を動かすためのエネルギーが空になってしまっているようで、起き上がるどころか顔の向きを変えることすら億劫だった。
「シャルル、聞こえるか?」
天井に向けたままの視界に、影が入り込んでくる。狭い洞窟の中で鳴るようにこもって聞こえる声は、その影が発しているらしい。なんだか懐かしい声。影の色もまた、懐かしい――。
気が付いたシャルルは、とっさに彼女の名前を呼び返そうとした。だが、顎や唇は動くものの、喉から音が出てこない。ぱくぱくと口を動かして絞り出そうとするが、かすれたうめき声が発せられるだけだった。
のぞきこんできた懐かしい友――アンリは深くため息をつくと、温かな笑みを浮かべてシャルルの頭をそっと撫でる。
「無理しないで。今はゆっくり休むといい」
シャルルはゆっくり瞬きをして分かったと合図すると、笑みを返した。
毒の煙を吸い込んで倒れていたシャルルはヒロとアンリに助け出され、今は街の病院に入院しているのだった。喉の腫れだけは残ったものの、体力が回復するのにそう長くはかからなかった。
事のなりゆきは、翌日病室を訪れてきたアンリが教えてくれた。
王子が遠方から持ち帰った花が、シャルルが含んだ毒の解毒作用を持つものだったという。見つけたヒロがその花から薬を作らせ、シャルルは一命を取り留めることができた。
退学したはずのアンリがどうして学園にいたのかというと、ラボリニー先生がパーティーでシャルルが歌うということをわざわざ知らせに来てくれたからだという。
アンリの嫁いだ相手というのは、学園で舞踊を教えているラボリニー先生の甥だったのだ。ドレスのデザインを趣味にしている先生は、実家に学園の元生徒が嫁いでくると聞いて喜び、ウェディングドレスをデザインしてやると言ってわざわざアンリに会いに来たそうだ。そのときにアンリは、元ルームメイトのシャルルが心配だと話をしていたらしい。
「先生が東麓の出身なのは知っていたが、まさかあの豪商の家の人だったとは、驚いたよ」
アンリは苦笑しながら語った。
「あの変な先生の家だけあって、思っていたより自由な家風でね。私がやりたいことがあるなら、諦める必要はないと言ってくれたんだ。だから向こうでまた、剣術も槍術も馬術も習ってる。家業のことも覚えないといけないから大変だけど……ありがたいことだよ」
本当に満足している様子のアンリに、シャルルは安堵するばかりだった。心配していたのはシャルルの方なのだ。自分のせいでアンリが望まぬ人生を強いられることになったのだと、罪悪感でいっぱいだったのだから。
「それにしても、シャルルが倒れているのを見つけられたのは本当に幸運だったよ。……本当に、良かった……」
そう言ってアンリは、掛け布団の上に置いたシャルルの手を握った。
アンリの手首に嵌まった腕輪には、金糸の装飾が織り込まれていた。
――と、病室がノックされる。
アンリが返事をするや否や、飛び込んで来たのはヒロ・ミーチャムとアシュレイ・オーガストだった。
ぎょっとして「アンリ!」と声を上げたアシュレイが、ベッド脇に座ったアンリの両肩をつかんで立たせると、じろじろと顔から全身を眺めまわした。
「変わりないようだな」
「ええ」
「待遇はどうなのだ。まさか虐待などされていまい?」
「ええ」
「理不尽な真似をされるようなことがあれば、いつでも――」
「アシュレイ、私の心配をしに来たのですか?」
呆れた目でにらまれて、アシュレイはごほんと咳ばらいをするとシャルルの方に目をやった。
シャルルのベッドの傍らには、眉を八の字にしたヒロがかがみこんでいる。
「無事でよかった……」
ヒロは深々とため息をつきながら、風船がしぼむように体を縮こまらせてうなだれた。
シャルルがヒロの肩をぽんぽんと叩いてかすれた声で礼を言うと、ヒロは顔を上げて小さく首を振る。
「しゃべらないで。完治が遅くなる」
相変わらずの情緒のない物言いに、シャルルはありがたいと思いながらもつい苦笑を漏らした。
「――それで、シャルル」
不意にアンリが真剣な声色を出した。ベッド脇の椅子に再び腰かけると、シャルルの顔をまっすぐに見つめてくる。
その眼差しが意味するところは、シャルルもすぐに察していた。
黒蜘蛛の君のことだ。
シャルルが倒れた日から、黒蜘蛛の君は行方をくらましていた。ヴィドワ家も彼女の所在は知らなかった。イリアナスタが行っていたことはすべて彼女の独断であり、知りもしないし関わりもないと主張していた。
彼女がシャルルを服毒させた罪を自供するような言葉を口走っていたことを、例のパーティー会場にいた多くの者が聞いていた。皆、黒蜘蛛の君がシャルルの才気と王子からの寵愛に嫉妬し、殺害を企てたのだと信じていた。
王子が持っていた花が解毒作用を持つことは事実だった。それでシャルルが助かればいずれ罪は明るみに出ると観念し、糾弾される前に逃げたのだとされている。
そのうえ黒蜘蛛の君の寮室には、毒を含ませた形跡のあるオルゴールが残されていた。逃げることが罪を認めるに等しいと分かっていて、あえて処分もしなかったのだろう。
アンリの隣に立ったヒロはきつく眉根を寄せ、いかにも不愉快な顔をして手指を弄んでいる。彼がこうまで人に対する敵意を表している様子は、シャルルには初めて見るものだった。
「彼女の自室にあったオルゴールに毒が入ってたことが、決定的な悪事の証拠になるわけじゃない。だからシャルル、きみの証言がとても重要な意味を持つんだ。彼女が直接手を下したのはきみが初めてなんじゃないかと思ってる。塔の上で何があったのかを話してほしい。黒蜘蛛本人に会ったのか? どうやって毒を吸わされたのか?」
ヒロは徐々に声を荒げていき、ふと我に返ったように唇をつぐんだ。
「ごめん、声は出さなくていいよ。ただ、一つだけ答えてほしい――きみに毒を吸わせたのは、黒蜘蛛の君なんだろう?」
ヒロ、アンリ、アシュレイが、シャルルをじっと見つめる。
頷くことを期待されているのは分かっていた。そして質問に正直に答えるとすれば、頷くべきなのだろう。
塔で起きたことを知っているのは、シャルルと黒蜘蛛の君の二人だけ。他の者は推測する以外に真実を知るすべはない。
黒蜘蛛の君はすべてを明らかにして行かなかった。それはつまり、シャルルが“真実”をいかに形作ろうとも自由だということ。
シャルルは首を動かさなかった。ただ視線を横に逸らした。
「シャルル――」
アンリがシャルルの手を握って心配そうに顔をのぞきこんできた。
「彼女は自分で認めてる。……だから、シャルルが肯定しても悪く思う必要なんてない」
アンリは、シャルルが黒蜘蛛の君を告発するつもりがないことを分かっているようだった。理解しようとしてくれる親友がいる、そのことは今のシャルルにも嬉しいことだ。
だが、シャルルは黒蜘蛛の君に気を遣っているわけではない。ただ、偽りの“真実”を証明したくないだけ。黙っていればそれがかなうというのなら、シャルルはこのまま声が出なくなってもかまわないとすら思っていた。
「いらぬ偽善だ」
低くうなるように言ったのはアシュレイだった。
「もしもあの女をかばおうなどと思っているのなら、そんなことは許さん。――俺はフレデリック王太子殿下の代わりに、お前の話を聞きに来たのだ。殿下は……ひどく消沈されている。すべて自分のせいだ、お前に合わせる顔がないとおっしゃっていた。いったい殿下に何の非がある? まともな道理を通す気があれば、まことの悪を告発しろ。情けをかけるべき相手を誤るな」
いっそうシャルルの胸が痛む。
アシュレイの言はもっともなことだ。誰も悪くないという主張は平和なようでいて、その実、表に見えない罪悪感を掻き立てる。王子のように自己の価値が曖昧な者ほど、自らに罪を見出してしまうもの。
分かっている。王子が悪いことなど少しもありはしない。
だが――
「……彼女がまことの悪だと言えましょうか」
シャルルは聞き苦しいかすれた声を絞り出し、驚いた顔をしているアシュレイを見返した。
「嫉妬だなんて、そんな理由でなかったとしたら? 正しいと信じて、大義のために行った行為だとしたら? もしもそうなら、私にはそれを悪だと責めることは――」
「シャルル」
アンリが強く名前を呼ぶと、瞳を潤ませたシャルルを落ち着かせるように両肩をしっかりとつかんだ。
のぞきこんでくるアンリの両目にも、光が大きく揺れて見えた。
「そんなことは関係ない。あの人はシャルルを……殺そうとしたんだ。たとえ正しいと信じてやったことであろうと、許されるべきじゃ……ない……」
言葉尻をすぼめたアンリは不意にくしゃりと顔を歪め、シャルルの背中に腕を回して抱きついた。
「……シャルルが死んでいたら、なんて……考えたくもないのに……」
肩口に顔を埋めて消え入るような声を出す親友を、シャルルもそっと抱きしめた。
――それもまた、否定はできない。
シャルルにも分かっていたわけではない。黒蜘蛛の君に害意があったのかどうか。そして、自分が死ぬ運命にあったのかどうかを。
だが黒蜘蛛の君が証明しようとしていたのは確かだ。オルゴールには確かに毒が仕込まれていた。毒を吸ったシャルルは、あのまま命を落としていてもおかしくはなかった。黒蜘蛛の君には、シャルルを殺す覚悟があった。
あるいは、黒蜘蛛の君が証明しようとしたのは、シャルルが助かることだったのだろうか。
あの塔で黒蜘蛛の君は、命を懸けて善を信じる心を証明しろとシャルルに言った。その一方で彼女は、自分自身の罪を懸けてシャルルが神に与えられた庇護を証明しようとしたのかもしれない。
そのいずれもが叶ってしまった。
もう一つだけ、シャルルが手にした証がある。
黒蜘蛛の君が流した涙。
シャルルを傷つけることに、彼女は明らかに心痛めていた。彼女がそんな本心を見せたのは、シャルルが死ぬから――他の誰にも知られることはないはずだと思っていたからに違いない。
シャルルはずっと黒蜘蛛の君のことが気にかかっていた。好意的でない相手には自分からも関わるまいとするのが常だったのに、黒蜘蛛の君の存在はいつも心の隅にあり続けた。
その理由に、ようやく確信が持てたのだった。
黒蜘蛛の君は、己の心を殺して悪に殉じようとしているからだと。
あまりにも敬虔な彼女は、いくら自分自身の心が傷ついても、それが神から与えられた使命と信じて従い続けていた。本心は誰にも見せず、知られぬまま、“悪”を貫き通そうとしていた。
そうと思うほど、シャルルは己の浅はかな行動を悔やまずにはいられなかった。
自分もまた神に役目を与えられていると告げてしまったことを。苦しみを使命とされた彼女に向かって、自分は幸福と成功を使命とされているなどと、口にしてしまった。
シャルルはただ、思いを分かってあげられると伝えたかっただけ。だが彼女はどう思ったろう? シャルルが神に愛され、自分は苦しみを与えられていると感じはしなかったか?
そうして彼女が神に不信を抱いたとしたら、“悪”を正当としていたよりどころを失い、己の犯してきた罪に苛まれてしまうのではないか?
姿を消した黒蜘蛛の君が今何を思っているのか――絶望に打ちひしがれてはいないか――シャルルには切なく、心苦しくてならなかった。
「ありがとう」
シャルルが小さく、それでもはっきりと聞き取れる声で言うと、アンリがゆっくりと体を離した。
凛とした面差しが印象に強い親友の、珍しくくしゃくしゃに歪められた顔が愛おしい。
「ごめんなさい。それでも私は、誰の罪も認められません」
シャルルのまっすぐな言葉に、アンリが呆れたように笑った。
ヒロは面食らったように両方の眉を上げていた。先ほどまでいつになく憤りをあらわにしていたが、きょとんとした無表情になるとずいぶんと子供っぽく見える。
「……まったく、妙な娘だ」
アシュレイは大仰にため息をついて見せると、きびすを返して病室を出て行った。
***
シャルルが学園に戻る頃には、黒蜘蛛の君の罪状は社会に知れ渡っていた。
結局、シャルルの言葉は必要なかったのだ。アリヤ・マキヴェリエは自分が殺人犯に仕立てられてはたまらないと、黒蜘蛛の君が毒花を栽培していたことを知ったように語ったし、ローザ・クェンテルは黒蜘蛛の君がオルゴールを持って忍んで外出していたことを証言した。
さらに、黒蜘蛛の君自らが罪を認めて逃亡したことになっていたためか、今まで彼女を畏怖して従っていた者たちも口を開き始めた。黒蜘蛛の君に唆されて実行した些細な行為が、大きな陰謀に手を貸したことになったのではないかと怖くなったのだ。
これによって、黒蜘蛛の君は決して強大な権力者を味方につけていたわけではないということを皆が理解した。ほんの小さな力しか持たない一人一人を、自分の意思で動くように仕向けることで、黒蜘蛛の君が望む大きな波を生んでいたのだということを。
黒蜘蛛の君――イリアナスタ・ヴィドワの名は、恐るべき“悪女”として知られるようになっていた。
シャルルは学園からも警察からも、事情を説明するよう求められた。
何度尋ねられても、何も言えない、と答え続けていた。
シャルルにとっては二律背反の状況だったのだ。黒蜘蛛の君の善を信じて箱を開けたのに、今になって彼女の罪を認める口など利けるはずはない。かと言って彼女は使命に従っているなどと口にすれば、今まで彼女が人生のすべてを懸けて築いてきたものを、身勝手に破壊することになる。
だがそんなシャルルの態度は、「殺されかけたにもかかわらず下手人をかばう心の清らかさの表れ」だと誉めそやされるばかりだった。反対に、シャルルを手に掛けようとした黒蜘蛛の君の悪辣さが際立たされていく。
皮肉な話には違いなかった。
やるせのない日々の中、シャルルはフレデリック王太子と遭遇した。会いに来られたわけでも会いに行ったわけでもなく、ただ偶然出会った。
夜、夕食を終えて寮室に戻ろうとした廊下でのことだった。
向かいから歩いてくる彼の姿を見て取るなり、シャルルは第一に驚いた。しばらく校内で見かけることがなかったから、てっきりもう留学を終えてしまったのだと思い込んでいた。
王子の方は、それほど不意を突かれた様子でもなかった。シャルルと目が合うと足を止め、弱弱しい笑顔を浮かべる。
「やあ」
おかしいと思えるほどに落ち着いた声で、王子はそう挨拶をよこした。
シャルルが「ごきげんよう」と丁寧に礼を返すと、王子はおもむろに歩み寄って来て正面に立つ。
「元気そうで良かった……本当に」
シャルルは、王子になんと答えるべきか判断がつかなかった。彼は黒蜘蛛の君を慕って、見捨てられるのを怖がっていたのを知っているから。
だから何も口にはせず、ただ笑みを浮かべてもう一度頭を下げる。
「アシュレイから聞いたよ、きみが誰も悪くないって言ってたって。彼は呆れていたけど……僕はすごく、尊敬する」
王子は静かな声色で語った。
およそ覇気の感じられない様子ながら、言葉は迷いなく流れていく。
「きみはきっと、やるべきことを自分の手で拾い上げてるんだ。……僕はずっと、誰かから手渡されるものだと思ってきた。でもいつまでたっても渡してもらえなくて、それで、僕の代わりにイリアが持ってるんだろうって思ってた。イリアは確かに持ってたんだ、きみと同じように。でもそれは彼女が自分で見つけてきたもの。自分の意思で、それを守ろうと決めたんだと思う」
王子は目を伏せていた。シャルルの真正面に立ってはいるものの、目を合わせようとはしない。
「彼女は……王室に入り込もうとしたんだって、言われてるよ。権力が欲しくて、僕や両親を手懐けたんだって。……不思議だね。彼女がいる頃はみんな彼女をいい人だと思ってたのに、いなくなったらそう思えなくなったらしい」
王子の唇はゆるく弧を描いていた。微笑みが彼の癖であることをシャルルは知っていた。
「考えたんだ、彼女の――イリアの本心がどこにあったのかって。僕と婚約できないって書かれた手紙、あれ、彼女はそんなもの書いてないって言ってたし、両親も受け取ってないって言ってた。でも本当は……本当にそのつもりだったんじゃないかって思えるんだよね。こうして姿を消したのも、それが彼女の望みなんじゃないかって」
シャルルはただ黙って聞いていた。
「僕を……試してたんじゃないかって思うんだ。僕が彼女に頼らず、自分で自分の役目を見つけられるか。玉座に就くのにふさわしいかどうか。だから僕を放っておいたり構ったりして、どう動くか試してたんだ。……結局、彼女がそばにいたらダメだって結論だったんだろうね。だから僕の前から消えた。今まで彼女が大切に築いてきた信頼を、わざわざ全部、壊すような真似をして――」
シャルルの反応を待たず、表情をうかがうこともなく、視線を下に向けたまま淡々と語っていた王子は、ここでようやく言葉を途切れさせた。唇を閉じ、数秒の間の後に、深く息を吐く。
「……ごめんなさい。すごく自分勝手なことを言ってるのは分かってるんだ。僕のせいで、きみを……あんな目に――」
「あなたのせいじゃありません。誰も悪くないと、そう申し上げたはずです」
声を震わせる王子に、シャルルは口を差し挟んだ。
王子が咄嗟にというように小さく顎を上げ、視線が上に揺れたかと思うとまたすぐ下に伏せられる。
「無理だよ、シャルル。そんなふうに思えない。きみが許してくれるなら、僕が自分で罰しないといけないんだ」
「それでもいいんです」
シャルルはゆっくりと言った。
「人が犯す過ちは、己を守ろうとするがゆえのもの。過ちと気づいていても止められないことがある。けれど私は、何があろうとあなたを許します。あなたのことも、イリアナスタのことも。ですから、自分自身に責められることがつらくなったら……私を頼ってください」
人は自ら役目を見出す、という王子の言葉をシャルルも信じていた。
そうしたいという希望。夢。そうせねばならぬという信念。道理。そんな気がするという予感。気づき。
毒の知識を持っていたヒロ、嫁ぎ先から帰郷したアンリ、花を摘んで帰った王子。
彼らはシャルルの命を救った。
シャルルは悟っていた。使命を果たそうとしているのはシャルルや黒蜘蛛の君だけではない。皆が同じなのだ。
誰もが自分自身の信じるよりどころを持っている。信念に従って考え、行動を決める。
それこそがつまり、神によって与えられた使命にほかならない。
使者の来訪を受けたことで、シャルルや黒蜘蛛の君はその使命を自覚している。意識しているかしていないか、それだけの違い。
己が意思で決めたように思い込まされ、その実は神の定めたシナリオにただ従っている。
思い込むのは決して悪いことではない。己の選んだ道なのだと自負することは、意志を確固とし、自尊心を高めるもの。成功しようと失敗しようと、自分で決めたことならば受け入れられる。人はそう感じるものだ。
そうであればこそ、天から与えられる“役目”など必要ない。王子もまた、それを悟っているようだ。
――しかし、だとしたら、なぜ?
シャルルは使命を受けたことが嬉しかった。それは自分の想いの正しさが裏付けられたように思えたからだ。使命など与えられなくとも、シャルルの行いは変わらなかった。
だが、黒蜘蛛の君は――?
使命を受けていなかったとしても、果たして彼女は“悪”を選んだのだろうか?
敬虔な彼女にとって、神に任ぜられた役目を果たすことは幸せなのかもしれない。だが本当にそうなら、彼女が涙を見せたはずがないのだ。
たとえ強い意志によって尊い役目を果たすために己を律していたのだとしても、内側にある心まで平気でいられようか。感情を殺す苦しみがあるからこそ、それが結晶として瞳から流れ落ちた。
神が彼女に与えた仕打ちは、苦しみに喜んで耐えよと強いること。
果たしてそれが、まことに幸福であるものか。
神が敬虔な信徒に救いを与えるものならば、なぜ彼女をこそ苦しめるのか。
彼女が悪を演じていることをシャルルだけが知っている。
彼女の心と与えられた役目は乖離している。ずれたものを強引に噛み合わせ続ければ、いずれ耐えられずに弾け飛んでしまう。
彼女のまっすぐな信念は、苦しみを伴う役目を果たし続けるだろう。
それが神から与えられたものだと言うのなら、シャルルは神を憎まずにはいられない。
手の届かぬ、声も聞き入れられぬ遥か高みにいる存在。すべてを知り、この世に生きる魂を思うままに動かしている。
人に抗うすべはない。蒙昧を強いられ、自らを操る糸を知らぬままでいるか。あるいは目を啓かされ、役目を負ってシナリオを見届けるか。行きつく先は変わらない。ただ後者は、進む先がいかなる苦難と破滅であっても、目を閉じることを許されない。
――悪が役目だなどと!
シャルルはいつしか、目に涙をいっぱいに浮かべていた。
「……許されぬ罪など存在しない。この世界で、いかなる人も悪になどなりえない。……私はそう信じています」
そうではない。知っている、のだ。悪は人にあるものではないと。
シャルルは内心の訂正を口にせず、王子に向かって優しく微笑んだ。
神を憎む絶望と罪は、シャルルだけが負えばいい。