34. 黒蜘蛛の殉教
幼い頃、一度だけ船に乗ったことがある。大きな客船だったような気がするが、記憶にあるのは踏みしめる大地のない浮遊感が恐ろしかったという思いばかりだ。
いったい何を怯えていたのだろう、と今となっては愉快だった。
こうして海の上で船に揺られて感じるのは、不安よりも奇妙な高揚感だ。波に乗って船が動く。自分という存在も船と一緒に漂っていく。
進む先には水平線。今は空と水しか見えないけれど、しばらく行けば人の住む影が立ち上がってくると知っている。
今はまだ、何も見えない。だからこそ楽しかった。
黒蜘蛛の君は無辜の娘を殺しそこね、婚約するはずだった王太子のもとを去った。これまでの罪業は世上に露見し、悪女として認められた。
そうしてイリアナスタは、何食わぬ顔で渡航船に乗り込み西に向かっている。当然ながら、罪人として投獄されるつもりなどなかった。為すべき悪はいくらでもある。どこに行こうと、すべきことは変わらない。
朝の白い光を体に受けながら、イリアナスタは果てなく思える水平線を眺めていた。
「――わたくし、心を痛めたことがないのよ」
イリアナスタは笑みを浮かべて、背後にたたずむ同行者に言った。
「黒蜘蛛の君は人を操り、陥れ、相手が自ら苦しみを選ぶように仕向ける。自らの行為に心乱されたことなど一度もないの。だって、わたくしは正しいのだから」
シャルル・クロイツは信じまい。
イリアナスタは一人ほくそ笑んだ。
“悪”とは何か、理解しているつもりだ。それは決して絶対的な存在ではない。一つの出来事がある者には損害を生む一方、別の者には恵みになりえる。
価値を見出すのは人であって、価値そのものが実在しているわけではない。
シャルル・クロイツは特別な存在だった。なぜなら彼女は、“人は悪たりえない”という確固たる信念を抱えているから。彼女自身やその大切な人が傷つけ貶められても、彼女は決して相手を憎まない。
初めはただの直感でしかなかった。だが鐘塔で彼女自身による告白を聞き、確信へと変わった。
シャルル自身が使命を与えられているという告白だ。清廉であれという使命。成功せよという使命。善は報われることを体現せよという使命。
ゆえに彼女は黒蜘蛛の君からいかなる仕打ちを受けようと、それは使命を果たそうとする敬虔な自己犠牲だと判じるだろう。命を懸けることも厭わぬそ彼女の信念は、揺るぎのないものなのだ。
だとしたら、シャルルに示すべき悪とは何なのか。
彼女は決して黒蜘蛛の君を悪と受け取らない。彼女にとって、いかなる人間も悪たりえない。
不可能なのだろうか、と不安がよぎったのは事実だ。
何をしても無駄なのではないか。たとえ苦痛を与え死に至らしめたとて、彼女は黒蜘蛛の君を憎まない。本当は善人であるイリアナスタが悪人を演じていると信じ、憐れみを向けるに過ぎない。
そうして気づいた。
シャルルの心に埋め込むべき悪は、黒蜘蛛の君でなくともよいのだ。
毒を吸い込み倒れたシャルルに、黒蜘蛛の君は涙を見せた。苦しみに耐える敬虔な信徒の“本心”を、ほんのわずかに垣間見せた。それだけで充分だと分かっていた。
「正しさとは何か、分かるかしら?」
イリアナスタに尋ねられ、背後に立ったミレイユ・ランブルスキがおもむろに答えた。
「正しさとは相対的なものです。人には人の、私には私の正しさがある」
「その通りよ。――でも、あなたにとっての正しさは絶対的だわ。そうでしょう?」
「はい、黒蜘蛛の君」
ミレイユは従順に頭を垂れた。
「あなたです。あなたこそが正邪を決めるもの」
「そう」
イリアナスタは冷淡に言って、笑った。
学園を立ち去ろうとイリアナスタの後を、ミレイユは当然のように付いてきたのだった。拒絶しようかと考えたものの、何も言いつけはしなかった。
他人を傍に寄せ付けない必要などないのだと、イリアナスタは考えを改めていたのだ。
愛情を抱くことが必ずしも当人にとっての幸福につながるとは限らない。いわんや世に“善”を生むことなど。むしろ結果は逆なのかもしれない。ある人間の愛情は、世界を構成する秩序にとっての害悪になりうる。
ミレイユの感情は、黒蜘蛛の君を動かす信念と等しい。彼女にとっての使者は、黒蜘蛛の君その人なのだ。
――いつか裏切ってあげようかしら。
イリアナスタはそう思い、自嘲気味に笑った。
何の意味もない。裏切りもまた正しさに転化するだけなのだから。
「……それでも」
と、ミレイユが静かに言葉を継いだ。
「何が正しいかを決めているのは、私自身です。私にとって喜んで従えるものが正しさというもの。……その道を選ぶ私は、幸福であるに違いありません」
イリアナスタは首を傾け、背後を振り仰いだ。ミレイユは常と同じく淡々とした面持ちでまっすぐに立ち、イリアナスタと同じように水平線を見つめていた。
「そう……人は正しさを求めるものだわ。正しさと幸福は同じもの。何が正しいかを決めるのは、自分自身でしかない。他の何者かから与えられる正しさなど、ありはしないのよ」
だが、シャルル・クロイツにとってはそうではない。
神から使命を与えられた彼女は、人の心の外に“正しさ”の存在を見出す。知っているからこそ、そうせざるをえない。その“正しさ”を強いる使命が、人の心の内にある幸福を脅かすことがあるとも考えざるをえない。
同じように使命を与えられた黒蜘蛛の君が、その苦痛を証明して見せた。
“正しさ”を求めてもがく命を憐れみ、その苦痛を感じ取って自らが苦しまずにいられない。
憐れな娘だ。存在しない苦痛を生み出し、存在しない不幸のために涙する。人の善という清廉な信念を抱えているがゆえ、人の生きるこの世が暗黒に見えてしまう。
創造主そのものが、悪に見えてしまう。
使命など関係ない。シャルルはもとよりそんな人間だったのだ。いや、だからこそ彼女には、その信念が正しいと示すべく使命が与えられた。
黒蜘蛛の君もまた同じだ。
心は痛まない。たとえシャルルがあのまま命を落としていたとしても、変わらなかったろう。それもまた、イリアナスタが毒のオルゴールで証明した重要な事実だった。
使命で人は変わらない。ただ己の本質を裏付けられるだけ。きっと己を省みる困難に耐えられる者にのみ、使者は姿を現す。
畢竟、すべては自らの手で為したことにすぎないのだ。
「――審判の日が楽しみね」
イリアナスタは笑った。
誰が使命を果たしたか、いずれ分かるときが来る。
黒蜘蛛の君は殉教する 終




