22. 黒蜘蛛のシナリオ:第三幕
アシュレイ・オーガストは実家に戻るといつもコルティーア家に立ち寄り、学園での様子を話したり、たわいのない世間話をしていく。アンリが同じく帰省していれば、学校よりも落ち着いて話せるいい機会でもあった。
オーガスト子爵領内に本拠を構える織物商のコルティーア家は、古くから子爵家と利益を供給し合う良好な関係を築いてきた。オーガスト家の長男であるアシュレイは、幼い頃からコルティーア家に出入りしており、一人娘のアンリとは気の置けない幼馴染でもあった。
アンリは気性の激しい娘で、兄弟に混ざって武芸を身に着けようとしていた。幼少の時分は兄弟やアシュレイを追いかけまわすようなお転婆で、いつも家人にたしなめられていたが、十代になるころにはすっかり落ち着き令嬢らしくなったと思っていたのだ。それがブルクリアス学園に入学するや、また男子生徒に肩を並べようと無駄な努力を始めている。
アシュレイにとっては、アンリの負けん気の強さが心配の種だった。
庶民のお守を押し付けられたのは仕方がないとしても、そのためにアンリは自ら権力者に逆らって立場を危うくしているのだから。
その日もコルティーア邸を訪れたアシュレイは、アンリも来ていると聞いて知らず顔をほころばせていた。
だが居間に足を踏み入れて、聞こえてきたアンリと父であるコルティーア氏との会話は決して喜ばしいものではなかったのだった。
「お断りします!」
立ち尽くしたアンリが父親に向かって言い放った。
「私は学校を辞める気はありません。ましてや結婚を理由になどと――」
「お前が決めることではない」
長椅子から立ち上がったコルティーア氏はぴしゃりとはねつけた。父親の巨躯に見下ろされ、アンリは思わず口をつぐむ。
「学費を出しているのは誰だ? お前が学校に通えているのは私が許したからだろうが」
「許して……くださったではありませんか。今になって撤回するとおっしゃるのですか?」
「事情が変わったのだ。だいたい、あの学園にやればお前も少しは淑女のふるまいを身に着けるかと期待していたのに、お前がやっていることときたら正反対だそうではないか。無益な“学業”などにかまけず、娘としての本分を果たせ」
「ですが――」
アンリが拳を握りしめる。眉をひそめた表情に浮かぶのは、激情よりも苦悩だった。
多忙なコルティーア氏が娘と対面して話すのは珍しかった。アンリのふるまいをたしなめるのはいつも母親や兄弟で、学園への入学や武術を習うことを許されたのも、母親を通してのことだったのだ。
アンリにとっては父親は大きな権威だった。畏怖こそすれ、憤慨すべき対象だとは思うことができなかった。
「ですが、私は……今、学園を離れるわけにまいりません。大切な……友人が、いるのです。彼女には支えが必要で、私が――」
「友人と離れたくないなどと、甘えた物言いが通ると思うのか?」
「いえ、ただ、せめて、卒業してからでも――」
「そんなに学校に行きたければ嫁ぎ先でねだってみろ。コルティーア家が東麓と結ぶことは国の薦めなのだと言ったろう。国交が利益を生めば商工会連合の理事として認めていただけるかもしれん。お前のくだらん感傷が家の発展を妨げることなど許されるはずがない」
と、コルティーア氏が、呆然として二人の会話を聞いていたアシュレイに視線を送った。
「アシュレイ、きみも言ってやってくれ。この娘ときたらまるで聞き分けがない」
アシュレイは唇を引き結んだ。
必死に気を落ち着けると、会釈を返して声を絞り出す。
「……アンリを東麓に嫁がせると、いうことですか?」
東麓というのは、この国の東にそびえる大山の反対側に位置する国のことだ。布や宝石の意匠技術に優れた東麓製の品は高値で取引され、王納品にも用いられる。
織物商であるコルティーア家が東麓と結ぶことは、確かに大きな利益を生むことだろう。
だが、とアシュレイは再び口を結ぶ。
御父上のおっしゃる通りだ、わがままを言うな――と、頭に浮かんだ言葉をアンリに言ってのけることができなかった。
「めったにある機会ではないぞ。ラボリニーといえば東麓で最も力のある商家だ。縁談を手配してくださったローラン卿とジルエ卿には感謝せねばな」
「ジルエ卿?」
アンリが不意に声を上げる。
「国僚のジルエ卿ですか?」
「……なんだ、知っているのか?」
けげんな顔をするコルティーア氏に対し、アンリがきっと眉を吊り上げた。娘の威嚇するような形相に、コルティーア氏も面食らったように口をつぐむ。
しばらく何も言わなかったアンリは、やがて深く息をついた。
「……分かりました。来週、学長先生にお会いして、退学の手続きをしてまいります」
アシュレイはとっさに声を上げかけ、ぐっと拳を結んでこらえた。
「その必要はない。明日、私が学園に行って話をつけてくる。これ以上お前に余計な入れ知恵をされてはかなわんからな。そのときにお前の荷物も引き取って来よう」
「いえ、荷物なら自分で――」
「お前は家にいろ。友人とやらに会ったら気が変わってまた駄々をこねるだろうが」
「挨拶もするなと――」
「必要な相手には私が挨拶してくる。いいな、お前は家から出るんじゃない。これ以上問題を起こすなよ」
呆然と立ち尽くすアンリとアシュレイを残して、コルティーア氏は居間を立ち去った。
どれくらいそうしていたのか、やがてアシュレイはフラフラと歩いて長椅子に身を沈める。
寝耳に水とはこのことだ。いったいどうしてこんなにも急に、アンリの縁談などが決まってしまったのだろう。
アシュレイになんの断りもなく。それどころかコルティーア氏は、アシュレイが賛成するはずだと思い込んでいるようだった。
「……アシュレイ」
ささやき声で呼ばれ、うなだれていたアシュレイは顔を上げる。
すぐ間近にアンリがいて、思わず身を引く。追いすがって顔を寄せてきたアンリは真剣そのもののまなざしで、「お伝えしておくことがあります」とささやいた。
***
フレデリックは他の生徒たちの目を盗み、一人で学園の中を忍び歩いていた。
休日、黒蜘蛛の君が王子を置いて一人で出かけるのは久しぶりのことだった。本来はフレデリック王子も城に戻る予定だったのだが、見張り役のルームメイトまで不在の好機を見逃す手はない。
休日の午後は多くの生徒が外出しており、常ほど人は多くない。
ひょっとしたら彼女も外出しているかもしれない。でもこんなふうに機会に恵まれた日は、望む人に出会えるものだと直感していた。
テラスと図書館をのぞいてみたが、彼女の姿はない。北棟の音楽教室にも(当然ながら?)見当たらない。
ならば寮室に行くべきかと考えていると、ふと教会の鐘の音が耳に入った。
教会――と思いやる。
この国の王は、神によって任ぜられたものとされている。この世の創造主たる神が与えた権威は絶対であり、王家の威信も揺るぎのないもの。
王太子であるフレデリックには、人々から寄せられる信頼が直にその身に感じられてきた。
いつも思うのだ。もしも自分が神に認められなければ、彼らはやはり離れていってしまうのだろうかと。
王となる人間には使者がやってきて、神からの使命を言い渡すとされている。父親や祖父に聞けば、使者との会話を他人に語ることはできないとかぶりを振られるものの、そのまなざしに大いなる確信が含まれているのは感じられた。自身が王にふさわしいという証明を、父や祖父は確かに抱いているようだった。
フレデリックは神の使者にまみえたことがなかった。
神がまだ、王として認めていない。
そんな状態で戴冠してしまうことへの不安を口にしても、父も母も優しく微笑み、心配しなくていいと言うばかりだった。使者はいずれやってくる、お前は誰もが認める王に違いないと、フレデリックを諭すのだ。
自然と足が動き、フレデリックは鐘の音に誘われるように教会へ向かっていた。
――選ばれているのは、自分ではないのかもしれない。
そんな思いがフレデリックを恐怖で苛みつづけていた。子供の頃からずっとだ。
父母に与えられた容貌ばかりは王太子にふさわしいものかもしれない。だが資質はどうだ。じっとしているのが苦手で、難しい文書を読み解いたり、堅苦しい儀礼の言葉を覚えたりも満足にできない。弟妹の方がよほど落ち着いていて、王家にふさわしい上品なふるまいを備えている。
使者が来ないのは、フレデリックが不適格であることの証ではないのか。
だが嫡子であるフレデリックは、この国ではまぎれもない王位継承者なのだ。このまま神から任命を受けなかったとしても、誰もそれを疑わず、フレデリックを王として認める。
本当は神が裏付けた正当性などないのに。そんなものは欺瞞でしかない。
フレデリックのそんな憂いは、イリアナスタ――黒蜘蛛の君との婚約という話を聞いて、別の様相をも呈していた。
すなわち、王になるべしと神が指したのはイリアナスタなのではないか、という疑い。
イリアナスタは幼いころからきわめて自律的だった。自身の役目とは何かを真剣に考え、それを果たすためにはいかなる努力も惜しまない。同年代の少女が遊んでいるときでも、彼女だけは自らを律し、修行を重ねていたことをフレデリックは知っている。
だからこそ彼女に惹かれたのだ。周囲がどうであろうと確固とした信念に基づいて動き続ける彼女のことが、フレデリックには美しく尊く見えていた。
だからこそ、彼女は神が選ぶに足る人間だと、そう思えてしまうのだった。
もしもそれが事実だとしたら。
イリアナスタがフレデリックを選ぶことは、単なる道理だ。まっとうな道理。正しい道理。
彼女が王太子と結び王妃となれば、神からの任を戴く彼女が人民からも王家として認められる。
フレデリックだけでは欺瞞になる。だがイリアナスタが隣にいれば、真に正当なる神の権威が王家を支え続ける。
これこそが正しいありようなのだ。
だから周囲の人間はみな、イリアナスタとフレデリックとの婚約を望む。
当然、敬虔なイリアナスタ本人も、己が使命を果たそうとして同じことを望む。
そうしてフレデリックの存在には、なんの意味もなくなる。
うつむいて歩いていたフレデリックが知らず足を止めたのは、教会の前だった。
礼拝堂はどこにでもある。学園にも、もちろん王城にも。
フレデリックには苦手な場所だった。
「――殿下?」
呼ばれて顔を上げ、目に飛び込んできた金髪の色にフレデリックは思わず笑みをこぼす。
「シャルル! きみを探してたんだ」
前方で心配そうな顔を浮かべているシャルルのもとに、大股に歩み寄る。つい物思いにふけって何も考えずに歩いてきたのに、そこで彼女に出くわすとは、やはり縁があるのだろう。
何を話したかったんだったかと言葉を探していると、シャルルが悲しそうに目を伏せているのに気が付いた。
「シャルル、どうかした?」
「いえ……その、私……」
口ごもったシャルルは、突然深く頭を下げた。
「本当にごめんなさい。殿下の期待を裏切ってしまって……」
フレデリックは目をぱちくりさせる。彼女の言葉が舞台出演への資格を失ったことを指している、と理解すると同時に、自分が話そうと思っていた内容を思い出した。
「謝らないで、きみは少しも悪くないんだから。僕こそ、考えなしなことを言ってきみを追いつめてたよね。本当に申し訳ない」
「いえ、殿下にそのような――」
「いや、本当に。僕がちゃんと誤解を解くように動くべきだったんだ。全部アンリに任せきりになってしまって、僕、本当に不甲斐ないよね。それで、その……謝りたくて、きみを探してた。ごめんなさい」
アンリ・コルティーアがサロンを訪ねて来たおかげで、事のいきさつを知ることができていた。あれからフレデリックも、シャルルを誤解した批判を耳にするたびに是正しようと努めたのだが、周りにいる生徒たちが口を挟んでくることが多く、うまくいかなかったのだ。
それは黒蜘蛛の君が、シャルルの着た汚名を気に留めていないからだとは分かっていた。
頭を下げて見せる王子に、シャルルがいっそう困った顔をするのが分かった。フレデリックもなんだかますます申し訳なくなってしまって、つい別の話題を持ち出す。
「アンリはすごいよね。実は彼女と槍術のクラスが同じなんだ。話せる機会はあまりないんだけど、彼女、トップクラスに強いんだ!」
「そうなんですか」
親友の話に、シャルルもようやく顔をほころばせた。
「アンリには本当に、よくしてもらっています。私には過ぎたお友達です」
「そんなことない! 立派な彼女がきみのことを好いてるんだから、きみだって立派な人なんだよ」
自分の言葉を聞きながら、自然と言葉尻がすぼんでいくのが分かった。
――なんて白々しい。それがいつも真実であるはずはないと、フレデリックこそ最もよく知っているはずなのに。
うつむいて黙り込むフレデリックに、シャルルがまた心配そうに眉を八の字にする。
「殿下、先ほども浮かない顔をしていらっしゃいましたよね。何か、ご心配事がおありですか……?」
フレデリックは顔を上げ、心配ないよと言おうと開いた口はそのまま固まった。
フレデリックは虚勢を張るのが癖のようなものだった。殊に王家の権威に信頼を寄せる人々の前で、心配や不安などを見せるわけにはいかない。無能な自分は、それをさらけだすまいとする努力くらい怠ってはならないから。
だが、シャルル・クロイツのまとう不思議な雰囲気は、ある種ひどく魅惑的なものだった。
すべての力を失い虚空に投げ出されたとしても、彼女が受け止めてくれると思わせる、不思議な安心感。虚勢も肉体も地位もなく、むきだしの魂だけになった自分でも、彼女ならば肯定してくれると信じてしまう。
「……私も、実は殿下にお会いしたかったんです」
何も言えずにいるフレデリックに、シャルルが静かに語り掛ける。
「おこがましいことは存じています。けれど、どうしても心配なんです。殿下と……黒蜘蛛の君のことが」
黒蜘蛛の君の名がシャルルの口から出てきたことに、フレデリックは心の内を悟られたよう気がした。
「黒蜘蛛の君の本心が見えないと、おっしゃっていましたよね……? ですが、殿下もまた……本心をお見せになっていないのですか? 本心を殺して、誰にも見せまいとなさっていれば、それは……とてもつらいことだと思うのです。こんなことを私が申し上げるのは、驕り以外の何でもないとは分かってるんです。ただ……」
シャルルは一歩歩み寄り、フレデリックの目をまっすぐに見つめた。
「抱いてはいけない思いなんてありません。不安も葛藤も怒りも喜びも、それを抱くのが人の性です。人が人たるゆえんです。それが許されないと禁じられているとしても、心の中は自由です。あなた自身がそれを受け入れて、それでいいのだと……抱きしめてあげてください……」
シャルルはそう言って、小さく頭を下げた。
フレデリックは以前、彼女の寮室のバルコニーで話したときのことを思い出していた。あのときも彼女は同じようなことを言っていた。だが今の言葉には、以前よりもいくぶん強い迫力が感じられた。まるでフレデリックの内心の焦燥が増しているのに、調子を合わせたかのように。
やはり彼女は不思議な存在だ。
「ありがとう」
フレデリックは微笑んだ。虚勢ではない、自然とあふれた笑みだった。
笑顔とともに、シャルルに言おうとしていたもう一つの用件を思い出す。
「――そうだ、舞踏会の知らせ、見た?」
王子につられたように笑みを浮かべたシャルルが「はい」とうなずく。
「来られるよね?」
「ええと……実は、ダンスパートナーがいなくて……」
「そんなの気にしないで! 絶対に来てね、お願いだから。実はサプライズがあるんだ」
「サプライズ?」
「ああ、言っちゃった! ごめん、聞かなかったことにして。でも舞踏会には絶対に来てね、よろしく」
フレデリックはこれ以上口を滑らせる前にと、手を振って立ち去った。
寮室に戻ると、外出していたルームメイトが戻っていることにぎくりとする。
一人で出歩いていたことをどうごまかそうかと考えていると、ベッドに座った彼がひどく落ち込んでいることに気が付いた。
「アシュレイ、どうかしたのかい?」
つい自分から声をかける。いつも貴族らしく堂々としたふるまいの彼が、今日に限って背中を丸め、頭を抱えているのだ。何かあったと思わざるを得ない。
低くうなったアシュレイが、顔を上げてフレデリックを見る。その目が真っ赤になっていることに、フレデリックはまたもや面食らった。
これはただごとでない、と思わず歩み寄り、隣に腰を下ろす。
「……知っていたのか……?」
フレデリックを見つめるアシュレイが奇妙な言葉を吐く。首を傾げるフレデリックを見て、アシュレイは悲痛な調子で深くため息をついた。
「アンリが……異国に嫁ぐことになった」
「え!?」
「来週には東麓へ発つ。学園にはもう……戻って来ない」
フレデリックは言葉を失った。そうしてアシュレイがこれほど落ち込んでいるわけを悟る。
アシュレイが幼馴染であるアンリを好いているのは、フレデリックはよく分かっていた。家族のようなものだと口では言っていたが、内心では未来の夫を自負しているのだと。
彼は今日実家に戻っていたから、そこで話を聞いたに違いない。好きな相手が突然他人との縁談を結んだとなれば、ショックを受けるのは仕方ないことだろう。
「……急な話だね。残念だよ」
背中をさすってやりながらフレデリックが言うと、アシュレイはまたため息をつく。
「アンリが何もかも悪いのだ。粋がって黒蜘蛛の君に盾突くから、こんなことに……」
「……黒蜘蛛の君?」
訊き返すと、アシュレイはどこか憐れみのこもった目でフレデリックを見返した。
そうして、縁談を持ち込んだ官僚には黒蜘蛛の息がかかっているのだと、アンリ本人から聞いたという話を低い声で語った。
「アンリを学園から追い出すためだ! あの子が結婚などに喜ぶはずがないと分かっていて……。相手方は良家だ、周囲の人間はみな喜ぶ。これが悪計だと悟りうるのはアンリと……俺だけだ……」
二人だけではない。
シャルルもだ。
フレデリックは頭を金づちで打たれたよう気がしていた。




