第四話「遺言」
天正元年、四月十二日。
その日の朝、館の空気が一変したのを、俺は誰よりも早く感じ取っていた。
早馬が信濃から駆け込んできたのは、まだ薄暗いうちだった。西上作戦――織田・徳川を打ち破るべく進めていた遠征の途上、信濃駒場にて、信玄が身罷った。
前世の記憶が告げていたとおりの日付だった。分かっていたはずなのに、いざその報せが現実のものとなると、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。三歳のときに向けられた、あの値踏みするような、そして最後には面白がるような眼光を、俺はもう二度と受けることができない。
館の中は、静けさと動揺が奇妙に入り混じっていた。表向きは「信玄公、ご存命」ということになっていた。三年の間、死を秘するようにという遺言があったからだ。だが奥向きの者たちの間では、隠しようのない喪失感が、重い空気となって漂っていた。
俺は自室で、一人その報せを噛みしめていた。
――ここからが、本当の分岐点だ。
信玄が生きている間、俺にできることは限られていた。だが死してなお、信玄が遺した「遺言」の中身こそが、これから数年の武田家の行く末を決める。史実で俺が最も恐れていたのは、勝頼が正式な当主としてではなく、信勝が元服するまでの「陣代」という中途半端な立場に留め置かれることだった。
数日後、近習の一人が、俺にだけそっと耳打ちしてきた。
「若君、大殿のご遺言について、重臣方の間で、思いのほか早く話がまとまったようにございます」
「まとまった、とは」
「勝頼様を、名実ともにご当主として立てる、と。異例の速さであった、と皆が申しております」
その言葉を聞いた瞬間、俺は詰めていた息を、静かに吐き出した。
史実がそのまま繰り返されていれば、この決定にはもっと長い時間がかかり、しかも最終的には曖昧な「陣代」という形に落ち着いていたはずだ。数ヶ月前、俺が父の側近に投げかけた小さな疑問。父自身の胸の内に芽生えた「明確な継承」への意識。それらが、遺言の取りまとめという土壇場で、確かに働いたのかもしれない。
もっとも、それで全てが解決したわけではないことも、俺にはよく分かっていた。
「ただ……」
近習は言葉を濁した。
「ただ、何だ」
「重臣の中には、な、なお勝頼様を軽んじる声も、無きにしも非ずと申しますか……大殿ほどのお方の跡を継ぐには、いささか、若すぎるのではとの声も」
やはりだ。肩書きが「陣代」から「当主」に変わったところで、長年信玄に仕えてきた家臣たちの心情まで、一朝一夕には変わらない。前世で見てきた事業承継の現場でも、まさにこの壁が一番厄介だった。制度を整えることはできても、人の心までは制度では動かせない。
その夜、俺は自室の窓辺に座り、遠くの山並みを見つめていた。
信玄という巨大な柱を失った武田家は、今まさに、これから数年をどう乗り切るかの入り口に立っている。肩書きの問題は、ひとまず山を越えた。だがその先には、もっと大きな壁が待っている。天正三年、長篠。あの大敗までに、俺にできることは、まだあまりにも少ない。
翌日、俺は父・勝頼への目通りを願い出た。断片的な情報だけでは足りない。今、この家に何が起きていて、これから何が起きようとしているのか、当事者である父の口から直接聞いておく必要があった。
私室に通されると、勝頼は以前よりも一回り、疲れたように見えた。喪を秘したまま当主としての実務を担うという、二重の重圧が、その顔に色濃く表れていた。
「信次か。よく来た」
「父上……いえ、殿。お悔やみを申し上げます」
まだ表向きは死を秘している以上、迂闊な言葉は使えない。俺の言い直しに、勝頼は微かに笑った。
「よい。分かっていて構わぬ。……そなたには、隠しごとをしても仕方があるまい」
その一言に、俺は内心で緊張した。どこまで見抜かれているのか、測りかねたからだ。だが勝頼の目に、疑いの色はなかった。むしろそこにあったのは、頼りにする者を探すような、すがるような色だった。
「殿。これから、どうなさるおつもりですか」
「重臣たちをまとめ、大殿の遺志を継ぐ。それだけだ。……だが、正直に申せば、儂には、それがどれほど難しいことか、まだ分かっておらぬのかもしれぬ」
勝頼の声には、隠しきれない不安がにじんでいた。信玄という絶対的な存在の後を継ぐという重圧は、俺が前世で見てきた、偉大すぎる創業者の跡を継いだ二代目たちの姿と、あまりにも重なって見えた。
「殿。一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「申せ」
「大殿と同じやり方で、大殿を超えようとなさいませぬよう。殿には殿の戦い方がございます。急ぎ結果を求めれば、かえって足元をすくわれましょう」
勝頼は、しばらく黙って俺を見つめていた。その沈黙は、以前家臣に投げかけた疑問に対する沈黙よりも、さらに長かった。
「……六つの子に、諭される日が来るとはな」
自嘲するように呟いた勝頼だったが、その表情から、先ほどまでの張り詰めた色が、わずかに緩んでいるのが見て取れた。
私室を辞したあと、俺は廊下を歩きながら、改めて自分に言い聞かせた。
信玄公、ご安心ください。俺は静かに、そう心の中で呟いた。
この家は、まだ滅びると決まったわけではありません。
長篠まで、あと二年。
俺は拳を握りしめ、夜の甲斐の山々に、改めて誓いを立てた。




