第一話「祖父の目」
甲斐国、躑躅ヶ崎館。永禄十年、初夏。
産声を上げた瞬間から、俺には前世の記憶があった。
いや、正確に言えば「あった」わけではない。物心がつくより先に、頭の中には東京の雑踏や、満員電車や、深夜まで続いたクライアントとの打ち合わせの記憶が、当たり前のように存在していた。三十四歳、経営コンサルタント。過労で倒れて、そのまま目を覚まさなかったはずの俺は、気づけば戦国時代の武将の子として生まれ直していた。
しかも、ただの戦国時代ではない。
「勝頼様の若君にございます」
産着にくるまれた俺を抱き上げた侍女の言葉で、すべてを理解した。父は武田勝頼。祖父は、あの武田信玄。俺は今、戦国最強と謳われる武田家の、直系の孫として生を受けたらしかった。
前世の記憶は、皮肉なことに、この家の未来をすべて知っていた。
六年後、天正元年。信玄病没。跡を継いだ勝頼は、二年後の天正三年、長篠で鉄砲三千丁による斉射の前に大敗する。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊――信玄以来の重臣たちが、この一戦でごっそりと姿を消す。
さらに三年後、天正六年。上杉謙信死去。跡目を争う御館の乱への対応を誤り、武田は頼みの北条家との関係を決定的に損なう。
そして天正十年。織田・徳川連合軍の侵攻の前に、かつて信玄に従った家臣たちの多くが離反し、勝頼は天目山でわずかな供回りとともに自刃する。武田家は、そこで滅ぶ。
――知っている。全部、知っている。
だが知っていることと、変えられることは違う。俺はまだ乳飲み子で、言葉すら自由に操れない。しかも幸いなことに、俺が滅亡までに与えられた時間は、九年ではない。信玄はまだ健在だ。武田家の絶対的な指導者が生きているうちに、俺には十五年もの猶予がある。
窓の外、甲斐の山々を眺めながら、俺は自分に言い聞かせた。
この時間を、無駄にはしない。
その日から、俺は「異様に聡い子供」を演じ始めた。乳母に対しては人並み以上の理解力を見せつつも、決して目立ちすぎないように。周囲に「若君は少々変わっておられる」程度の印象を残す。それが、俺なりの第一歩だった。
三歳になった年の冬、初めて祖父・信玄に目通りが叶った。躑躅ヶ崎館の奥、居並ぶ重臣たちの前で、俺は緊張を押し隠しながら平伏した。
「勝頼の子か。面を上げよ」
低く、腹に響く声だった。顔を上げた俺を、信玄はしばらく無言で見つめた。歴戦の武将特有の、値踏みするような眼光。前世で経営者やオーナーと対面したときに感じたのと同種の、しかし何倍も鋭い圧力があった。
「歳の割に、目に落ち着きがあるな」
「……恐れ入りましてございます」
「世辞ではない。多くの子は、この場では震えるか、はしゃぐかのどちらかだ。お主はどちらでもない」
その言葉に、周囲の重臣たちがわずかにざわめいた。信玄が幼い孫を、これほどまっすぐ評するのは珍しいことらしい。俺は内心で警戒しながらも、ここが好機だと悟った。
「祖父上に、お尋ねしたきことがございます」
「申せ」
「この国は、山ばかりでございます。田は少なく、金山からの実りも、いずれ細ってまいりましょう。それでも武田は、これほど強く在り続けられるのは、なにゆえでございますか」
三歳の子供が発する問いとしては、明らかに不自然だっただろう。だが俺は賭けに出た。ここで信玄の関心を引けなければ、この先九年、いや十五年、俺の言葉は誰にも届かない。
信玄は目を細めた。値踏みの色が、わずかに興味の色へと変わるのを、俺は見逃さなかった。
「――面白いことを申す子だ」
そう呟くと、信玄は俺の頭に、大きく骨ばった手を乗せた。
「その問い、答えは一言では言えぬ。だが、覚えておくがよい。この国が強いのは、山ゆえに人が鍛えられ、乏しさゆえに知恵が磨かれるからだ。豊かな国は、いずれ怠ける」
その言葉に、俺は前世で読んだ経営書の一節を思い出していた。制約が創意を生む。限られた資源が、かえって組織を鍛える。戦国の覇者と、現代の経営理論が、思わぬところで重なった瞬間だった。
「――畏れながら、もう一つだけ」
「まだあるのか」
信玄の声に、呆れと興味の両方が滲んでいた。俺は覚悟を決めて続けた。
「乏しき国を、いつまでも乏しきままにしておく必要は、ないのではございませんか。山は変えられずとも、道は変えられます。金山の掘り方も、変えられます」
広間が、一瞬静まり返った。三歳の子供の言葉ではない、という空気が、はっきりと伝わってきた。だがもう遅い。俺は前を向いたまま、信玄の反応を待った。
長い沈黙のあと、信玄は低く笑った。
「面白い。実に面白い孫だ」
その日を境に、俺は「変わった若君」から、「信玄公が気にかける若君」へと、館の中での扱いを変えていった。
――これで、時間を稼げる。
夜、自室の寝床で、俺は改めて自分に言い聞かせた。信玄が生きている間に、できる限りその信頼と知識を吸収しなければならない。信玄が没するまで、あと六年。長篠まで、あと八年。武田家が滅びるまで、あと十五年。
十五年あれば、変えられる。変えてみせる。
この国を、そしてこの家を、俺は滅ぼさせはしない。
――物語は、ここから始まる。




