第四話 兄の背中
第四話です。
今回は、平吉の兄・太助の話です。
江戸を見たい平吉と、田を背負う太助。
どちらかが正しく、どちらかが間違っているわけではありません。
家を出たい者と、家に残る者。
そのすれ違いを描く回になります。
兄の太助は、まっすぐな男だった。
苗を植えれば、列は曲がらない。
鍬を振れば、深さが揃う。
畦を直せば、水はきちんと留まる。
朝は誰より早く起き、父より先に外へ出る。
夜は誰より早く眠る。
疲れたと言わない。
腹が減ったとも言わない。
平吉は、そんな兄を嫌いではなかった。
嫌いではない。
ただ、兄の隣に立つと、自分がひどく曲がった苗のように思えた。
同じ父から生まれ、同じ家で育ち、同じ田に入っているのに、太助の足はいつも土に根を張っている。
平吉の足だけが、どこか浮いている。
その日の朝も、田には冷たい水が張っていた。
平吉は苗を持ち、兄の後ろについて歩く。
太助の手元は速い。
泥に指を差し入れ、苗を置き、次へ進む。
一定の間。
一定の深さ。
一定の速さ。
平吉は真似ようとした。
だが、どうしても遅れる。
手元を見すぎると列が曲がる。
列を見すぎると苗が浅い。
父の背中を気にすると手が止まる。
そして、気がつけばまた遠くを見ていた。
村道の先。
昨日、弥七が去っていった道。
いつか江戸へ続いているかもしれない道。
「平吉」
太助の声が飛んだ。
「はい」
「曲がってる」
平吉は自分の植えた列を見た。
たしかに曲がっている。
ほんの少し。
だが、兄の列と並べると、それははっきりわかった。
「直す」
「最初からまっすぐやれ」
「すまん」
「謝るなら手を動かせ」
太助の声はきつかった。
平吉は黙って植え直した。
何度も聞いた言葉だった。
手を動かせ。
足元を見ろ。
余計なことを考えるな。
どれも正しい。
正しいから、余計に苦しかった。
平吉は、兄に言い返せない。
兄は家のために働いている。
父の代わりに田を背負おうとしている。
母が少しでも米を残せるように、妹が腹を空かせないように、黙って泥に入っている。
平吉が見ている道の先など、兄からすれば甘えにしか見えないのだろう。
昼近くになると、父は別の田の様子を見に行った。
田には兄と平吉だけが残った。
風が吹く。
水面が揺れる。
苗の影が細く震える。
太助が言った。
「昨日の銭」
平吉は手を止めた。
「え」
「魚を売った銭だ」
平吉は少し驚いた。
兄からその話を振るとは思わなかった。
「十文」
「それは聞いた」
「母ちゃんに一文、いとに一文、次の分に二文。残り六文」
太助は鼻を鳴らした。
「ずいぶん減ったな」
「うん」
「それで、商人になったつもりか」
平吉は顔を上げた。
太助は手を止めていない。
泥に苗を入れながら、前を見ている。
「なったつもりはない」
「顔はなってた」
「どんな顔だよ」
「田を見てない顔だ」
平吉は黙った。
また、それだ。
田を見ていない。
太助は続けた。
「十文だぞ」
「わかってる」
「わかってねえ。十文で家がどうにかなるか」
「ならない」
「米が買えるか」
「少しなら」
「少しだ。腹いっぱいにはならねえ」
「そんなことはわかってる」
「じゃあ、何でそんなに浮かれてる」
太助の声は、いつもより低かった。
怒りだけではない。
平吉は、少し言葉を探した。
「銭が、動いたから」
太助の手が止まった。
「何だそれ」
「俺が魚を捕って、焼いて、子どもが欲しいって言って、一文をくれた」
「それがどうした」
「田で働いても、俺の手に銭は落ちてこない」
言った瞬間、太助の顔が強張った。
平吉はまずいと思った。
だが、一度出た言葉は戻らない。
「米は家のものだ。年貢にもなる。飯にもなる。でも、俺が何をしたからいくらになったのか、よくわからない」
「当たり前だ」
太助が低く言った。
「家の田だからだ」
「わかってる」
「わかってねえ」
太助は泥の中で立ち上がった。
「米は一人で作るもんじゃねえ。父ちゃんが田を見て、母ちゃんが飯を作って、俺たちが泥に入って、雨が降って、日が照って、それでようやくできる」
「うん」
「それを、お前の手に銭が落ちないからつまらねえって言うのか」
「つまらないとは言ってない」
「同じだ」
平吉は唇を噛んだ。
違う。
そう言いたかった。
だが、うまく言えなかった。
田を軽く見ているわけではない。
米を馬鹿にしているわけでもない。
兄を見下しているわけでもない。
ただ、自分には別の道があるのではないかと思ってしまう。
それをどう言えばいいのかわからなかった。
太助は平吉を見た。
「お前は、ここが嫌なのか」
その問いは、平吉の胸を突いた。
「嫌じゃない」
「じゃあ、何だ」
「……わからない」
「わからないで、江戸へ行くのか」
平吉は黙った。
太助の言葉は、いつも正面から来る。
逃げ道がない。
「江戸に行けば何かある。商人になれば何か変わる。お前はいつも、何か、何かだ」
太助は泥のついた手で、自分の胸を叩いた。
「こっちは、何かじゃねえんだよ」
平吉は兄を見た。
「田がある。父ちゃんがいる。母ちゃんがいる。いとがいる。年貢がある。借りた分がある。食わせる口がある」
太助の声が少し震えた。
「全部、ここにあるんだよ」
平吉は何も言えなかった。
兄は、自分より先に家の重さを背負っている。
平吉が道の向こうを見ている間、兄はこの家の中を見ている。
父の曲がった背中。
母の痩せた手。
妹の小さな椀。
米びつの底。
それら全部を見ている。
平吉は初めて、兄の怒りの奥にあるものを見た気がした。
太助は平吉に背を向け、また苗を植え始めた。
「お前が江戸に行ったら」
平吉は顔を上げた。
太助は背を向けたまま言った。
「この田は、俺がやる」
「兄ちゃん」
「父ちゃんが動けなくなっても、俺がやる。年貢も、借りた分も、俺が考える。母ちゃんが倒れたら、俺が医者を呼ぶ。いとの嫁入りも、俺が考える」
太助の手は止まらない。
「お前は、行けばいい」
平吉の胸が詰まった。
「本気で言ってるのか」
「止めても行く顔をしてる」
「そんなこと」
「してる」
太助は振り返らなかった。
「俺は、お前みたいに外ばかり見ない。見られない。だから、この田を見る」
平吉は、兄の背中を見た。
まっすぐだった。
泥に汚れていて、汗で濡れていて、決して大きくはない。
だが、逃げない背中だった。
父とは違う。
父の背中は曲がっている。
兄の背中は、曲がらないように耐えている。
平吉は、その背中が急に遠く見えた。
⸻
その日の午後、平吉は失敗をした。
苗を入れた籠を持って移動している時、足を滑らせた。
泥に膝を取られ、籠が傾く。
苗が水の中へ散った。
「あっ」
平吉は慌てて拾おうとした。
だが、苗は水に浮き、泥に沈み、ばらばらになった。
太助が駆け寄った。
「何やってる!」
「すまん」
「すまんじゃねえ!」
太助は怒鳴った。
父がいない田に、その声が響いた。
「これは今日植える分だぞ。遊びじゃねえんだぞ」
「わかってる」
「わかってねえ!」
太助は泥の中に膝をつき、散った苗を拾い始めた。
平吉もすぐに拾った。
水は冷たい。
泥に指を突っ込む。
根が絡んだ苗を探す。
いくつかは使える。
いくつかは傷んでいる。
細い根が切れているものもある。
太助は一本一本を見て、使えるものと使えないものを分けた。
平吉はその手元を見た。
速い。
迷いがない。
自分なら全部拾って、全部使おうとするかもしれない。
でも兄は、植えても育たない苗を見分けている。
「それは捨てろ」
「でも」
「根が切れてる。植えても弱る」
「もったいない」
「弱った苗を植えれば、あとで余計に手がかかる」
太助は言った。
「今惜しむと、後で田が泣く」
平吉は黙って、その苗を脇へ置いた。
今惜しむと、後で田が泣く。
それは商いにも似ている気がした。
売れない魚を売らない。
焦げた魚を自分で食べる。
値を下げすぎない。
次の分を残す。
兄は商いなど知らない。
江戸も知らない。
だが、田のことは知っている。
平吉はふと思った。
兄が見ているものと、自分が見たいものは、本当に別なのだろうか。
田にも、道がある。
水の道。
苗の道。
米になるまでの道。
それを見誤れば、実りはない。
「何ぼさっとしてる」
太助の声で、平吉は我に返った。
「ごめん」
「謝る前に拾え」
「うん」
二人は黙って苗を拾い続けた。
泥で手は真っ黒になった。
爪の間に土が入り、腕も着物も汚れた。
それでも、散った苗の半分ほどは救えた。
太助は傷んだ苗を見て、ため息をついた。
「父ちゃんに怒られる」
「俺が言う」
「当たり前だ」
平吉は頷いた。
「俺のせいだから」
太助は少しだけ平吉を見た。
その顔には怒りが残っていた。
だが、少し違うものもあった。
「……そういうところだけは、逃げるなよ」
平吉は兄を見返した。
「うん」
太助はすぐに目を逸らした。
「植えるぞ。日が暮れる」
「うん」
二人はまた田に入った。
⸻
夕方、父が戻ってきた。
苗をこぼしたことを聞くと、父は平吉をじっと見た。
怒鳴らなかった。
その代わり、傷んだ苗を手に取り、根を見た。
「何本だ」
太助が答えた。
「使えないのが、これだけ」
父は頷いた。
「明日の分を少し回す」
平吉は頭を下げた。
「俺のせいです」
父は平吉を見た。
「なぜ落とした」
「足を滑らせました」
「なぜ滑った」
平吉は言葉に詰まった。
泥が深かったから。
籠が重かったから。
疲れていたから。
理由はいくつもあった。
だが、本当は。
「考え事をしていました」
父は黙った。
太助も黙っている。
「何を」
父が聞いた。
平吉は答えるか迷った。
江戸のこと。
魚を売った銭のこと。
兄の言葉のこと。
家のこと。
全部だった。
「田以外のことです」
父はしばらく平吉を見ていた。
それから言った。
「田にいる時は、田を見ろ」
「はい」
「道を見るなとは言わん」
平吉は顔を上げた。
父は傷んだ苗を水から出し、畦に置いた。
「だが、足元を見ない者は、道に出ても転ぶ」
その言葉は静かだった。
怒鳴られるより、重かった。
平吉は深く頭を下げた。
「はい」
父はそれ以上言わなかった。
太助は横で、少しだけ目を伏せていた。
⸻
夜、平吉は家の外に出た。
空には細い月が出ていた。
田は暗く、蛙の声だけが聞こえる。
平吉は納屋のそばに座り、弥七にもらった紙片を出した。
箱。
銭。
魚。
丸。
線。
そこに、今度は苗のような線を描いた。
まっすぐな線を何本も描こうとした。
だが、うまくいかない。
曲がる。
震える。
途中で太くなる。
平吉は小さく息を吐いた。
兄の苗は、なぜあんなにまっすぐなのだろう。
手が違うのか。
目が違うのか。
覚悟が違うのか。
その時、背後から声がした。
「何してる」
太助だった。
平吉は紙を隠さなかった。
「忘れないための印」
太助は近づき、紙を覗いた。
「何だこれ」
「箱と、銭と、魚と、今日の苗」
「下手だな」
「知ってる」
太助はしばらく紙を見ていた。
「字じゃねえのか」
「字は書けない」
「ふん」
太助は平吉の隣に腰を下ろした。
珍しいことだった。
兄が自分から隣に座るなど、ほとんどない。
しばらく、二人は黙って蛙の声を聞いていた。
やがて太助が言った。
「俺は、江戸へは行かねえ」
「うん」
「行きたいとも思わねえ」
「うん」
「この田をやる」
「うん」
「父ちゃんができなくなったら、俺がやる」
「うん」
「だから、お前が外を見るのが、腹立つ」
平吉は何も言わなかった。
太助は続けた。
「俺が見ないようにしてるものを、お前がずっと見てるからだ」
平吉は兄を見た。
太助は月を見ていた。
「兄ちゃんも、見たいのか」
「知らねえ」
その返事は、いつもの太助らしくなかった。
強くも、冷たくもない。
ただ、少し疲れていた。
「見たって仕方ねえ」
太助は言った。
「俺は長男だ」
その一言に、平吉は何も返せなかった。
長男。
その二文字が、太助の道を決めている。
平吉にとっての「次男坊」と同じように。
兄は家に縛られている。
平吉は家に居場所がない。
どちらが楽なのかなど、簡単には言えなかった。
太助は立ち上がった。
「平吉」
「うん」
「江戸に行くなら、半端に行くな」
平吉は息を止めた。
太助は背を向けたまま言った。
「半端に行って、半端に帰ってきたら、俺はお前を許さねえ」
「……うん」
「行くなら、何かになれ」
平吉は胸が熱くなった。
「兄ちゃん」
「勘違いするな。応援してるわけじゃねえ」
太助は振り返り、いつもの仏頂面に戻った。
「失敗して戻ってきて、田もできねえ、商人にもなれねえ、そんな奴が一番困るだけだ」
「うん」
「だから、行くなら覚えろ。見ろ。使えるもんは全部持って帰れ」
「持って帰る?」
「銭でも、やり方でも、字でも、何でもいい」
太助は少しだけ声を落とした。
「この家の役に立つものを持って帰れ」
その言葉に、平吉は拳を握った。
自分は江戸へ行きたい。
それは、自分のためだと思っていた。
でも、それだけではないのかもしれない。
この家にないものを取りに行く。
この田だけでは足りないものを、外で探す。
そう思えば、少しだけ胸を張れる気がした。
太助は家の方へ歩き出した。
「早く寝ろ。明日も田だ」
「うん」
「それと」
太助は振り返らずに言った。
「今日の苗の分、明日はお前が早く起きろ」
平吉は少し笑った。
「わかった」
兄はそのまま家に入っていった。
平吉は、月明かりの下で紙片を見た。
歪んだ箱。
丸い銭。
魚のような線。
そして、曲がった苗。
どれも下手だった。
だが、平吉には見えた。
自分の中に、少しずつ道が描かれている。
江戸へ続く道。
家へ戻る道。
銭の道。
米の道。
兄の背中が守る道。
平吉は紙を胸にしまった。
兄は応援していない。
父も応援していない。
母も応援していない。
たぶん、誰も平吉の夢を手放しでは喜んでくれない。
それでも、今日、兄は言った。
行くなら、何かになれ。
その言葉だけで十分だった。
平吉は田の方を見た。
暗い水面に、月が細く揺れている。
足元を見ない者は、道に出ても転ぶ。
父の言葉を思い出す。
平吉は小さく頷いた。
まずは田を見る。
足元を見る。
その上で、道の向こうを見る。
いつか江戸へ行くために。
いつか、兄の背中に恥じない何かになるために。
第四話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第四話では、平吉と兄・太助の関係を描きました。
太助は平吉の夢を応援しているわけではありません。
けれど、家を背負う者として、平吉が半端なまま外へ出ることを許せない兄でもあります。
「行くなら、何かになれ」
この言葉は、平吉にとって大きな重みを持つものになります。
次回は、家の苦しさがよりはっきりと見えてくる話になります。
平吉が「貧しさ」を感情ではなく、数字として見る回です。
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