第三話 一文の重み
第三話です。
今回は、平吉が初めて「自分の手で銭を得る」話です。
ただ、銭は手に入った瞬間から、自分だけのものではなくなっていきます。
小さな一文の重みを、平吉が知る回になります。
一文という銭は、小さい。
小さくて、薄くて、泥の上に落とせばすぐに見失う。
けれど、それを持っている者と持っていない者では、世界の見え方が少し違った。
平吉は、まだ一文も持っていなかった。
弥七からもらった紙片は、何度も開いて見たせいで、端が少し丸まっていた。
そこには字ではなく、歪んだ箱と、丸と、手のような線が描かれている。
誰が見ても、何を意味しているのかわからない。
だが平吉にはわかる。
箱。
銭。
手を伸ばす人。
品は、欲しがるところで値がつく。
その言葉を、平吉は何度も胸の中で繰り返していた。
田に立っている時も。
水を汲む時も。
薪を割る時も。
夜、妹のいとが寝息を立てている横でも。
品は、欲しがるところで値がつく。
では、村の中で誰が何を欲しがっているのか。
それを考えるようになってから、平吉の目に映る村は少し変わった。
前は、ただの畦道だったもの。
ただの井戸端だったもの。
ただの寺の前だったもの。
ただの子どもたちの遊び場だったもの。
それらが、何かの流れに見えた。
朝は女たちが井戸に集まる。
昼は田に出た男たちが腹を空かせる。
夕方は子どもたちが寺の裏で騒ぐ。
雨の日は皆が家にこもる。
祭りの日は、普段より少しだけ銭が動く。
銭が動く時には、人がいつもより何かを欲しがっている。
平吉はそれを知りたくなった。
だが、知ったところで、売るものがない。
家には余るほどの米などない。
母の針や糸を勝手に持ち出すわけにもいかない。
父の農具は当然売れない。
薪も炭も、家で使う分だけだ。
売るものがない。
そう思った時、平吉は弥七の箱を思い出した。
あの箱の中には、色々な品が入っていた。
だが本当に売れていたのは、品そのものだけではなかった。
飴は、甘さを売っていた。
膏薬は、痛みへの不安を売っていた。
手ぬぐいは、見栄や楽しみを売っていた。
なら、自分に売れるものは何だ。
平吉は、川を見た。
村の外れに、小さな川が流れている。
子どもの頃から、そこで小魚を捕った。
たまに沢蟹もいた。
夏には水遊びをし、冬には石を投げた。
その川は、誰のものでもないようで、誰のものでもある。
平吉は川辺にしゃがみ、水面を見つめた。
小魚がきらりと動いた。
小さい。
飯のおかずにもならないほど小さい。
だが、焼いて塩をふれば、子どもには嬉しいかもしれない。
ちょうど数日後、村の鎮守で小さな祭りがある。
祭りといっても、江戸のような大きなものではない。
村人が集まり、神前に供え物をし、子どもたちが少し浮かれるだけのものだ。
だが、祭りの日には、子どもが腹を空かせる。
大人たちは話に夢中になり、子どもたちは走り回る。
その時、小さく焼いた魚があれば。
平吉の胸が鳴った。
売れるかもしれない。
いや、売ってみたい。
⸻
「魚を売る?」
兄の太助は、明らかに馬鹿にした顔をした。
その日の夕方、平吉は川で捕った小魚を竹籠に入れて帰ってきた。
数は二十ニ匹。
どれも指ほどの大きさしかない。
それを見て、兄は眉をひそめた。
「そんな雑魚、誰が買う」
「祭りの日に、焼いて売る」
「お前が?」
「うん」
太助は笑った。
「やめとけ。恥をかくだけだ」
平吉は黙った。
兄の言うことは、間違っていないかもしれない。
魚は小さい。
塩も家のものだ。
串も作らなければならない。
火もいる。
売る場所もいる。
そもそも、買ってくれる人がいるかもわからない。
だが、やってみたかった。
「一文で二匹なら、買う子もいるかもしれない」
平吉が言うと、兄は鼻で笑った。
「一文で二匹? 誰がそんなもんに銭を出す」
「飴は二つで一文だった」
「飴と雑魚を一緒にするな」
「腹が減っていれば、魚の方がいいかもしれない」
兄は口を開きかけたが、やめた。
代わりに、冷たく言った。
「お前はすぐ、余計なことを考える」
余計なこと。
それは平吉がよく言われる言葉だった。
父からも、兄からも。
だが平吉には、余計なこととそうでないことの境目が、まだよくわからない。
田をまっすぐ植えることは大事だ。
それはわかる。
でも、村の子が何を欲しがるかを考えることも、平吉には大事に思えた。
母のおたねが、囲炉裏の前から声をかけた。
「魚を売るなら、塩は少しだけだよ」
平吉は驚いて母を見た。
「いいの?」
「勝手に使われるよりは、最初から言ってくれた方がいい」
「ありがとう」
「ただし、使った分は覚えておきな」
平吉は首を傾げた。
「覚える?」
「塩だってただじゃない。串にする竹も、火を起こす薪も、誰かが用意したもんだ」
母は鍋をかき混ぜながら言った。
「売るなら、取った魚だけ見てちゃだめだよ」
平吉は息を呑んだ。
弥七も同じようなことを言っていた。
品を見るな。
使う人を見ろ。
母は違う角度から言っている。
売るなら、魚だけ見るな。
塩も、竹も、火も見ろ。
「それも、値に入るの?」
平吉が聞くと、母は少し笑った。
「入れなきゃ、あとで腹が減るのはこっちだよ」
兄が横から言った。
「どうせ売れねえ」
母は兄を見た。
「太助」
「本当のことだ」
「本当でも、今言わなくていいこともある」
太助は黙った。
平吉は竹籠の魚を見た。
小さい魚たちが、まだ少し動いている。
売れるかどうかはわからない。
だが、売る前から笑われると、胸が少し痛かった。
それでも、やめる気にはならなかった。
⸻
祭りの日は、よく晴れた。
鎮守の周りには、村人がいつもより少し多く集まっていた。
大人たちは社の前で手を合わせ、顔見知り同士で話をする。
子どもたちはその周りを走り回る。
特別な屋台が出るわけではない。
江戸の祭りのように、派手な山車があるわけでもない。
それでも、村の子どもたちはいつもより浮かれていた。
平吉は、前の日に作っておいた細い竹串に魚を刺し、家の裏で小さく火を起こす。
母が塩を少し分けてくれた。
「かけすぎるんじゃないよ」
「うん」
「焦がしてもだめだよ」
「うん」
「あと、焼き立ては熱いから、子どもに渡す時は気をつけな」
「わかってる」
「わかってる顔じゃないね」
母はそう言って、少しだけ笑った。
平吉は魚を焼いた。
最初の一本は焦がした。
火が強すぎた。
ニ本目は生焼けだった。
火から遠すぎた。
三本目から、少しずつ加減がわかってきた。
魚の皮がぱちぱちと鳴り、塩と煙の匂いが立つ。
平吉の腹が鳴った。
食べたい。
だが、これは売るものだ。
弥七ならどうするだろう。
まず自分で味を見ろと言うだろうか。
それとも、一匹でも減らすなと言うだろうか。
平吉は迷った末、焦げた一本を食べた。
苦かった。
でも、魚の味はした。
「これは売れない」
そう呟き、焦げた分は自分で食べた。
売れるものと、売れないものがある。
平吉はそれを初めて知った。
⸻
昼前、平吉は焼いた小魚を持って鎮守の端に立った。
竹の皮を敷き、その上に串を並べる。
全部で二十本。
一文で二本。
そう考えていたが、並べてみると不安になった。
一文で二本は高いかもしれない。
いや、安いかもしれない。
そもそも、一文を持っている子どもがどれだけいるのか。
平吉は立ったまま、しばらく何も言えなかった。
声が出ない。
行商人の弥七は、よく通る声で言っていた。
針、糸、櫛、手ぬぐい、膏薬。
あんなふうに声を出せば、人は集まるのだろうか。
平吉は口を開いた。
「さ……」
声が喉で詰まった。
子どもたちが走っていく。
誰も見ない。
平吉は焦った。
このままでは、ただ焼いた魚を持って立っているだけだ。
「焼き魚……」
声が小さい。
誰も振り向かない。
平吉の顔が熱くなった。
兄が言った通りだ。
恥をかくだけかもしれない。
その時、いとが近くに来た。
「兄ちゃん、何してるの」
「売ってる」
「売れてる?」
平吉は黙った。
いとは魚を覗き込んだ。
「いい匂い」
「食べるか」
「銭ない」
「お前にはやる」
いとの目が輝いた。
平吉は、串を一本渡そうとした。
その瞬間、母の声が頭に浮かんだ。
塩も、竹も、火も、ただじゃない。
平吉は手を止めた。
いとは首を傾げた。
「くれないの?」
平吉は悩んだ。
妹にあげたい。
だが、売ると決めた品を、最初からただで配ったらどうなる。
それは商いなのか。
それとも、ただの兄の気まぐれなのか。
平吉は、魚を一本取り、いとに渡した。
「これは、売れないやつだ」
「なんで」
「少し焦げてる」
「焦げててもいい」
「だから、これはおまけだ」
「おまけ?」
「そう。味見役」
いとはよくわからない顔で魚を受け取り、かじった。
「あつっ」
「気をつけろって」
「あ、おいしい」
いとの声は、思ったより大きかった。
近くを走っていた子どもが足を止めた。
「何食ってんの」
「兄ちゃんの魚」
「うまいの?」
「うまい」
平吉の胸が鳴った。
子どもが一人、近づいてきた。
「いくら」
その言葉が、平吉には雷のように聞こえた。
いくら。
初めて、人が自分の品に値を聞いた。
平吉は一瞬、答えられなかった。
「一文で……」
二本、と言いかけて、目の前の子どもの顔を見た。
その子は、小さな巾着を握っている。
だが、たぶん中には多く入っていない。
一文で二本なら、買うだろうか。
一文で一本なら、逃げるだろうか。
平吉は弥七の言葉を思い出した。
人を見る。
品を見るな。
使う人を見ろ。
子どもは、魚をじっと見ている。
かなり欲しそうだ。
でも、一人で二本食べたいわけではないかもしれない。
周りの子どもも見ている。
平吉は言った。
「一文で二本。友達と分けてもいい」
子どもの顔が変わった。
「二本?」
「うん」
「じゃあ買う」
子どもは巾着から一文を出した。
平吉は、その銭を受け取った。
小さい。
軽い。
だが、手のひらに落ちた瞬間、ずしりと重かった。
これが、一文。
自分が捕った魚を焼き、塩をふり、串に刺し、並べ、値をつけ、人が欲しがり、渡されてきた銭。
平吉は、しばらくその銭を見ていた。
「魚」
子どもが言った。
「あ、ごめん」
平吉は慌てて二本渡した。
子どもは一本を友達に渡した。
二人で食べる。
「あつい」
「うまい」
その声で、また二人寄ってきた。
「俺も」
「俺も一文ある」
そこからは、早かった。
匂い。
いとの声。
最初に買った子どもの顔。
それだけで、周りの子どもたちが集まってきた。
「一文で二本?」
「うん」
「小さいな」
「小さいけど、焼き立て」
「塩ついてる?」
「ついてる」
「焦げてない?」
「焦げたのは俺が食った」
子どもが笑った。
平吉も少し笑った。
売れていく。
一本、二本。
二本ずつ。
銭が、平吉の手に落ちる。
一文。
また一文。
もう一文。
十本売れたところで、平吉は急に怖くなった。
このまま全部売れるのか。
それとも途中で誰も来なくなるのか。
そこへ、少し年上の子が来た。
「一文で三本にしろよ」
平吉は黙った。
その子は村でも少し乱暴な子だった。
力もある。
周りの子も見ている。
「小さいんだから、三本でいいだろ」
平吉の手が止まった。
三本で一文にすれば、売れるかもしれない。
だが、さっき二本で買った子たちはどう思うだろう。
最初に買った子が、こちらを見ている。
同じ品を、相手によって急に安くする。
それは、いいのか。
平吉はわからなかった。
弥七ならどうする。
母なら何と言う。
父ならどう見る。
平吉は、ゆっくり言った。
「二本で一文」
「けち」
「さっき買った子も、二本で一文だった」
年上の子は顔をしかめた。
「俺は三本じゃなきゃ買わねえ」
「じゃあ、買わなくていい」
言った瞬間、平吉の胸が冷えた。
怒らせたかもしれない。
その子は平吉を睨んだ。
だが、周りの子どもたちが見ている。
少しして、その子は舌打ちした。
「じゃあ二本でいい」
一文が差し出された。
平吉は受け取った。
手が少し震えていた。
魚を二本渡すと、その子は乱暴にかじった。
「まあまあだな」
そう言って去っていった。
平吉は息を吐いた。
値を守る。
それは、思ったより怖いことだった。
でも、守らなければならない時がある。
値段は、ただの数字ではない。
先に買ってくれた人への約束でもある。
平吉はそう感じた。
⸻
昼過ぎには、魚は全部売れた。
平吉の手元には、十文あった。
最初の一本は焦がした。
それは自分で食べた。
もう一本は、いとの味見になった。
残り二十匹。
二匹で一文なら、全部売れて十文。
十文。
小さな銭が十枚。
平吉はそれを何度も数えた。
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。
数えるたびに、胸が熱くなる。
これが稼ぐということか。
田で働いても、平吉の手に直接銭が落ちることはない。
米は家のものになる。
年貢になる。
飯になる。
借りたものの返しになる。
だが、この十文は違う。
自分の手から品を渡し、相手の手から銭を受け取った。
それが、こんなにも嬉しいものだとは知らなかった。
平吉は、その十文を握りしめて家へ走った。
「母ちゃん!」
家に入るなり、声が出た。
母は針仕事をしていた。
「何だい、騒がしい」
平吉は銭を差し出した。
「売れた」
母は手を止めた。
「魚がかい」
「うん。十文」
平吉は手のひらを開いた。
小さな銭が十枚。
平吉には、宝の山のように見えた。
だが母は、少し見ただけだった。
「十文で、そんな大声を出すんじゃないよ」
平吉の胸の熱が、少しだけ冷めた。
「でも、全部売れたんだ」
「売れたなら、まず一文は家に入れな」
「え」
「塩を使ったろう。薪も使った。串にした竹も、家の裏のもんだ」
平吉は手の中の十文を見た。
ついさっきまで、十文全部が自分の銭だと思っていた。
「魚は俺が捕った」
「だったら魚の分は持ってな。塩と火の分は家に戻しな」
母の声は冷たくはなかった。
だが、甘くもなかった。
「銭を取ったなら、遊びじゃないんだよ」
その言葉に、平吉は黙った。
遊びではない。
自分では、商いの真似をしたつもりだった。
けれど母には、子どもの遊びに見えていたのかもしれない。
平吉は、一文を母に渡した。
母はそれを囲炉裏の横に置いた。
「これは家の分」
手元には九文。
一枚減っただけなのに、急に軽くなった気がした。
奥から、いとが顔を出した。
「兄ちゃん、私も味見した」
平吉はぎくりとした。
「お前、聞いてたのか」
「聞いてた」
いとはにやりと笑って、手を出した。
「味見代」
「味見代って何だよ」
「私がうまいって言ったから、みんな来たんでしょ」
平吉は言い返せなかった。
たしかに、最初の子どもが来たのは、いとが「おいしい」と言ったからだった。
「一文は多いだろ」
「じゃあ半分」
「一文を半分にできるか」
「じゃあ一文」
「増えたじゃねえか」
母が針を動かしながら言った。
「やりな」
「母ちゃんまで」
「人を使ったなら、ただじゃ済まないよ」
「使ったわけじゃない」
「なら、次は一人で売るんだね」
平吉は口を閉じた。
一人で売れていただろうか。
誰も足を止めなかった。
声も出なかった。
いとが食べて「うまい」と言わなければ、最初の一文は来なかったかもしれない。
平吉は渋々、一文をいとに渡した。
いとは両手で受け取った。
「やった」
手元には八文。
十文あった銭が、もう八文になっていた。
平吉は胸の奥が少しざらついた。
売れたのに。
嬉しかったのに。
家に戻し、いとに渡しただけで、こんなに減る。
母は平吉の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「嫌な顔をするね」
「してない」
「してるよ」
平吉は黙った。
母は続けた。
「銭ってのは、手に入る時より、出ていく時の方がよく見えるもんだ」
その声には、疲れが混じっていた。
平吉は、母の手を見た。
針を持つ指は荒れている。
爪の間には、落ちない汚れが残っている。
母は毎日、米を減らさないように、味噌を使いすぎないように、薪を残すように、布を無駄にしないようにしている。
銭が出ていくところを、一番見ているのは母なのだ。
「全部使うんじゃないよ」
母が言った。
「なんで」
「次にまた魚を焼くなら、塩がいるだろう。火もいる。何かを始めるには、少し残しておかないと困る」
「……うん」
「それとも、一度売れて終わりでいいのかい」
平吉は首を振った。
「また、やりたい」
「なら、残しな」
平吉は八文のうち、二文を別に置いた。
「これは、次の分」
母は頷いたが、褒めはしなかった。
「そうしな」
残ったのは六文。
十文売れたのに、手元には六文しか残らなかった。
平吉はその六文を見つめた。
さっきまで、十文は全部、自分の力で得た銭に見えていた。
だが違った。
一文は家に戻った。
一文はいとの声に渡った。
二文は次の仕度に残った。
銭は、入った瞬間から分かれていく。
平吉は、初めてそれを知った。
母は商いを教えるつもりなどなかったのだろう。
ただ、家のものを勝手に使うなと言っただけだ。
だが平吉には、その言葉が妙に重かった。
銭にも、道がある。
そう思った。
「ただね、平吉」
母が針を止めずに言った。
「はい」
「十文売れたからって、商人になれると思うんじゃないよ」
平吉は言葉に詰まった。
「思ってない」
「思ってる顔だよ」
母は顔を上げなかった。
「商人ってのは、口で人をその気にさせる者だ。うまくやれば銭になる。しくじれば、人に恨まれる」
平吉は黙って聞いた。
「百姓は土に頭を下げる。商人は人に頭を下げる。どっちが楽かなんて、子どもにわかるもんか」
母の声は少しきつかった。
だが、その奥にあるものが怒りだけではないことを、平吉は感じた。
「俺は、楽がしたいわけじゃない」
「じゃあ何がしたいんだい」
平吉は答えられなかった。
江戸へ行きたい。
商いを知りたい。
銭がどう動くのか知りたい。
でも、それを母にどう言えばいいのかわからなかった。
母は小さく息を吐いた。
「まあいい。今は田を手伝いな。夢は腹をふくらませちゃくれないよ」
その言葉に、平吉は少し胸が痛んだ。
夢は腹をふくらませない。
それは、たぶん本当だった。
だが平吉は、手の中の六文を握った。
六文は腹をふくらませるほどの銭ではない。
それでも、確かに自分の手の中にあった。
夢ではなかった。
⸻
その夜、平吉は弥七にもらった紙片を広げた。
前に描いた歪んだ箱の横に、今度は魚のようなものを描いた。
魚には見えなかった。
細い草履のようにも、葉のようにも見える。
その横に丸を十個描いた。
そして、そのうち一つを家の形のそばに移した。
一つを小さな人の横に移した。
二つを、次の魚の絵の横に置いた。
残った丸は六つ。
平吉はそれを見て、ゆっくり息を吐いた。
これは字ではない。
帳面でもない。
けれど、今日の銭の動きだった。
十文入った。
一文は家へ。
一文はいとへ。
二文は次へ。
六文が残った。
平吉は、その丸を何度も見た。
銭は、入るだけではない。
分かれる。
残る。
次へ向かう。
銭にも道がある。
平吉は、そのことを初めて知った。
父が、土間の向こうで縄をなっていた。
今日は何も言わなかった。
だが、平吉の方を一度見た。
平吉は、紙を少しだけ父に向けた。
父はそれを見て、低く言った。
「売れたか」
「はい」
「そうか」
それだけだった。
だが、平吉には十分だった。
⸻
次の日、兄の太助は何も言わなかった。
田に出ても、魚の話はしない。
平吉も言わなかった。
だが昼頃、兄が水を飲みながらぽつりと言った。
「……全部売れたのか」
平吉は少し驚いた。
「うん」
「いくら」
「十文」
「ふん」
兄はそれ以上言わなかった。
しばらくして、また言った。
「三本にしろって言われたんだろ」
「何で知ってる」
「見てた」
平吉は兄を見た。
兄は目を逸らした。
「断ったのか」
「うん」
「何で」
「先に買った子が二本で一文だったから」
兄は黙った。
それから、小さく言った。
「そこは、悪くねえ」
平吉は耳を疑った。
兄が褒めた。
ほんの少しだが、確かに褒めた。
「ありがとう」
平吉が言うと、兄はすぐに不機嫌な顔になった。
「調子に乗るな。田は曲がってる」
「はい」
「それと」
「うん」
「今度やるなら、朝のうちにもっと捕れ。昼前に焼き始めたら遅い」
平吉は目を丸くした。
「兄ちゃん」
「何だ」
「手伝ってくれるの?」
「手伝わねえ」
即答だった。
だが、兄は続けた。
「川の上の方なら、もっと大きいのがいる」
それだけ言うと、兄は田に戻った。
平吉はその背中を見た。
兄の背中は父に似ている。
曲がってはいない。
まっすぐで、強い。
その背中が、少しだけこちらを向いた気がした。
⸻
その日の夕方、平吉は川の上流へ行った。
兄の言う通り、少し大きな魚がいた。
捕るのは難しい。
すばしこい。
だが、いる。
平吉は膝まで水に入り、石の陰を覗いた。
冷たい水が足に絡む。
小魚が光る。
平吉は思った。
次は、もっと売れるかもしれない。
ただし、もっと売るには、もっと考えなければならない。
何匹捕るか。
何文で売るか。
塩はいくら使うか。
誰に食べてもらうか。
どこに立つか。
いつ焼くか。
商いは、ただ売ることではなかった。
考えることだった。
見て、聞いて、覚えて、試すことだった。
平吉は水面を見つめた。
そこには、夕暮れの空が揺れている。
弥七の箱を見た時とは違う熱が、胸の中にあった。
一文を得る喜び。
一文を分ける悔しさ。
一文を残す大事さ。
その全部が、平吉の中で重なっていた。
平吉は、濡れた手で胸元を押さえた。
紙片は家に置いてきた。
だが、今日のことは忘れない。
いや、忘れてはいけない。
一文は、小さい。
けれど軽くない。
その一文の中には、人も、物も、時間も、約束も、次の商いも入っている。
平吉は川の流れを見ながら、小さく呟いた。
「銭にも、道がある」
誰にも聞こえない声だった。
だが、その言葉は平吉の胸に残った。
いつか帳面に字を書けるようになった時、
最初に何を書くかは、まだわからない。
けれど平吉はきっと、この日のことを書く。
十文入った日のこと。
六文しか残らなかった日のこと。
それでも、胸が震えるほど嬉しかった日のこと。
自分の手の中に、初めて商いが生まれた日のことを。
第三話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第三話では、平吉が初めて魚を売り、自分の手で銭を得ました。
けれど、売上はそのまま自分のものになるわけではなく、家に戻す分、手伝ってくれた者へ渡す分、次に残す分へと分かれていきます。
平吉はまだ商いの言葉を知りません。
けれど、この一文の重みが、のちに帳面を学ぶきっかけになっていきます。
次回は、平吉と兄・太助の関係をもう少し深く描く話になります。
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