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第三十一話 帳場のそば

第三十一話です。


第四章「帳場の影」が始まります。


暖簾の内側で少しずつ店の動きを覚えてきた平吉。

けれど、相模屋にはまだ近づくだけで空気が変わる場所があります。


帳場。


銭箱、筆、硯、そして帳面が置かれる場所。


今回は、平吉が帳場のそばに立ち、掛けと支払い、そして信用の線を見ていく話です。

第四章 帳場の影



帳場の近くは、店先より静かだった。


客の声も届く。

定吉の足音も聞こえる。

利助の指示も飛んでくる。


それでも、帳場のそばには別の静けさがあった。


銭箱。

硯。

筆。

帳面。


それらが置かれているだけで、空気が少し重くなる。


平吉は、帳場の脇に立っていた。


近づきすぎてはいけない。


触ってはいけない。


覗いてはいけない。


だが、見なければならない。


宗兵衛は、近頃ときどき平吉を帳場の近くに立たせるようになっていた。


銭を持たせるわけではない。


帳面を書かせるわけでもない。


ただ、立たせる。


そして、見ることを許す。


それが平吉には、何より緊張した。


店先の品なら、少しずつ覚えてきた。


針。

糸。

紐。

手ぬぐい。

油紙。

薄紙。


まだ間違える。


だが、名前も、置き場所も、少しはわかるようになってきた。


しかし帳場は違う。


そこには、品より重いものが集まっていた。


客が払った銭。


客がまだ払っていない銭。


相模屋が仕入れた品の値。


月末に受け取る掛け。


まだ閉じられている帳面。


開けば、客の顔色が変わる帳面。


平吉は思っていた。


帳面は、書かれている時だけ怖いのではない。


閉じて置かれている時から、すでに怖い。



その日、昼前に仕立て屋の女将が来た。


以前、掛けで手ぬぐいと糸を買った女将だった。


襟元は今日もきちんとしている。


ただ、手には品を持っていない。


買いに来たのではない。


払うために来たのだと、平吉はすぐに思った。


女将は店先で軽く頭を下げた。


「宗兵衛さん、先日の分を」


その一言で、店の空気が少し変わった。


利助は出していた品を横へ寄せた。


定吉は走る足を止めた。


宗兵衛は帳場で筆を置いた。


そして、帳面を開いた。


ただ、それだけだった。


なのに、店先が静かになった。


平吉は息を呑んだ。


帳面は、開くだけで人を黙らせる。


女将は、懐から銭を出した。


包みをほどく音がする。


宗兵衛は帳面の一行を指で追った。


「手ぬぐい二。糸一。糸は中へ取り替え」


女将は頷いた。


「ええ」


宗兵衛は、銭の額を告げた。


女将は、それを盆に置いた。


宗兵衛が数える。


利助も、横で見る。


平吉はさらに後ろで見る。


数え終えると、宗兵衛は言った。


「たしかに」


その一言で、女将の肩が少し下りた。


女将は軽く笑った。


「これで気が済みました」


「ありがとうございます」


宗兵衛は静かに頭を下げた。


平吉は、そのやり取りを見ていた。


品を買う時とは違う。


銭を払う時、客の顔は少し硬い。


相模屋も、少し硬い。


帳面に置いたものを、現実の銭で消す。


いや、消すのではない。


済ませる。


そんな感じがした。


女将が帰ると、宗兵衛は帳面に印をつけた。


筆の音がした。


さらり。


平吉は、その音を聞いた。


前に掛けを書いた時の音とは違う。


あの時は、品と銭の間に日を置く音だった。


今の音は、その橋を渡り終えた音だった。



女将が出ていった後、宗兵衛は帳面を閉じなかった。


平吉を見た。


「今、何を見た」


平吉は背筋を伸ばした。


「掛けを、済ませるところです」


「それだけか」


平吉は考えた。


銭を払った。


宗兵衛が数えた。


帳面に印をつけた。


それだけなら、誰でも見える。


宗兵衛が聞いているのは、それだけではない。


「女将さんは、少し固い顔をしていました」


宗兵衛は黙っている。


平吉は続けた。


「銭を出して、たしかにと言われたら、少し顔がゆるみました」


「なぜだ」


「掛けが、残っている間は……まだ店との間に何かがあるからです」


言いながら、平吉は自分でもその言葉を探っていた。


「払って、帳面に印がつくと、それが済むからだと思います」


宗兵衛は少しだけ頷いた。


「掛けは、品を渡した時には終わらん」


「はい」


「銭が戻り、帳面に済みがつくまで続く」


「はい」


「客も、それを背負っている」


平吉は、女将の出ていった道を見た。


掛けは、店だけが客を信じるものだと思っていた。


だが、客の方も背負っている。


払うまで、相模屋との間に線が残る。


その線を忘れず、銭を持って来る。


それもまた、信用なのだ。



その日の午後、今度は大工の男が来た。


前に、たまに支払いが遅れると定吉が言っていた男だった。


男は、品を見に来たのではなかった。


店先に立つと、少し気まずそうに頭をかいた。


「宗兵衛さん」


宗兵衛は帳場から顔を上げた。


「はい」


「先月の分なんだが」


その言い方で、平吉にもわかった。


払うのではない。


払えない話だ。


定吉の手が止まった。


利助は、客へ出していた紐を静かに箱へ戻した。


宗兵衛は、すぐに帳面を開かなかった。


まず男を見た。


「何かありましたか」


男は、少し声を落とした。


「仕事の払いが遅れてる。全部は無理だ。半分なら今日持ってきた」


平吉は、胸の奥が少し硬くなった。


全部は払えない。


半分だけ。


これは、信用を傷つけるのか。


それとも、半分でも持ってきたことが信用なのか。


宗兵衛は、ここでようやく帳面を開いた。


ゆっくりと。


男の顔がさらに硬くなる。


帳面が開くと、人は黙る。


平吉はまたそれを感じた。


宗兵衛は帳面を確認した。


「先月分、二十四文」


「今日は十二文なら」


男は包みを出した。


十二文。


半分。


宗兵衛は、すぐには受け取らなかった。


「残りは、いつになります」


男は少し目を伏せた。


「十日後には」


「十日後」


「今度の仕事の銭が入る」


宗兵衛は、男をじっと見た。


長い沈黙だった。


平吉は、その沈黙に耐えるだけで息が詰まりそうだった。


やがて宗兵衛は言った。


「では、今日は十二文。残り十二文は十日後」


男は、ほっとしたように息を吐いた。


「すまねえ」


「約束の日に、来てください」


「来る」


宗兵衛は銭を受け取った。


数える。


帳面に印をつける。


そして、何かを書き足した。


平吉は覗かない。


だが、今の筆の音は、女将の時より重かった。


男が帰ると、定吉が小さく言った。


「また遅れた」


利助が見る。


「定吉」


「はい」


宗兵衛は帳面を閉じた。


「平吉」


「はい」


「今の客は、信用がないと思うか」


平吉は考えた。


払えなかった。


約束通りではない。


でも、半分持ってきた。


黙って逃げなかった。


遅れる理由を言った。


十日後と言った。


「ない、とは思いません」


「なぜ」


「払えないことを言いに来たからです」


宗兵衛は黙っている。


平吉は続けた。


「全部は払えなくても、半分を持ってきました。残りの日も言いました」


「では、信用があるか」


平吉は答えに詰まった。


ある。


と言い切るには、遅れている。


ない。


と言い切るには、逃げていない。


「……細くなっていると思います」


宗兵衛の目が少し動いた。


「細く」


「はい。切れてはいないけれど、太くもないです」


定吉が横で、少し感心したような顔をした。


利助も黙っている。


宗兵衛は言った。


「そうだ」


平吉は息を吐きそうになった。


宗兵衛は続けた。


「信用は、あるかないかだけではない」


「はい」


「太い信用。細い信用。強い信用。弱った信用。伸びる信用。切れかけた信用」


「はい」


「帳面には数字が残る。だが、店の者は、その線の太さを見る」


平吉は、胸の中で線を思い浮かべた。


品と銭の間に引いた、掛けの線。


女将の線は、今日きれいに渡り終えた。


大工の男の線は、まだ残っている。


それも、少し細くなって。


「ただし」


宗兵衛は言った。


「かわいそうだからといって、線を見ないふりをするな」


「はい」


「怒ればよいわけでもない。許せばよいわけでもない」


「はい」


「見て、残せ」


平吉は深く頷いた。


「はい」


帳面は、数字だけではない。


信用の線の太さを見続けるためにある。


平吉は、また一つ帳場の影を見た気がした。



夕方、平吉は利助に呼ばれた。


「今日の二人を、どう覚える」


平吉はすぐに答えられなかった。


仕立て屋の女将。

大工の男。


だが、客の名や掛けの額を自分の帳面に書いてはいけない。


相模屋の帳面に書くことと、自分の帳面に書くことは違う。


「名前は書きません」


「当然だ」


「額も書きません」


「それで」


平吉は考えた。


「掛けは、払われて終わること。払う客も背負っていること」


利助は黙っている。


「遅れる客にも、逃げる客と、言いに来る客がいること」


利助は少しだけ頷いた。


「いい」


「それから」


平吉は言葉を探した。


「信用は、あるかないかだけではなく、太いか細いかを見ること」


利助は、少しだけ口元を動かした。


「主人の言葉をそのまま持っていくな」


平吉は慌てた。


「はい」


「自分の言葉にしろ」


「はい」


利助は続けた。


「でなければ、帳面ではなく、ただの写しだ」


平吉は頭を下げた。


「はい」


写し。


それは少し痛かった。


宗兵衛の言葉は重い。


だから、そのまま書きたくなる。


だが、宗兵衛の言葉を写しただけでは、平吉の帳面ではない。


自分が何を間違え、何を見て、明日どう動くか。


そこへ直さなければならない。


利助は言った。


「今日のお前が直すことは何だ」


「……掛けを見る時、払ったか払わないかだけで見ないことです」


「それから」


「払えないと言いに来た客を、すぐ悪い客だと決めないことです」


「それから」


「でも、かわいそうで済ませないことです」


利助は、ようやく頷いた。


「それを書け」


「はい」



その夜、平吉は帳面を開いた。


今日は、帳場の絵を描きたかった。


だが、帳場そのものを細かく描くのは少し怖かった。


銭箱。

帳面。

筆。


相模屋の中枢だ。


描きすぎれば、また何かを持ち出すような気がした。


だから、平吉は四角を一つ描いた。


それだけ。


帳場のつもりだった。


その前に、線を二本描いた。


一本は、まっすぐ太い線。


もう一本は、細く、途中で少し途切れそうな線。


平吉は、その線を見つめた。


今日、見たもの。


払って済んだ線。

まだ残った線。


どちらにも客の名はない。


額もない。


相模屋の帳面の中身もない。


ただ、自分が見た信用の形だけがある。


その下に、平吉は書ける字を書いた。


耳。


目。


待つ。


待つ、の字は怪しい。


それでも書いた。


掛けの客が来たら、すぐに善し悪しを決めない。


まず聞く。


見る。


待つ。


定吉が横から覗いた。


「今日は何だ」


「信用の線」


「また変なこと言ってる」


「太いのと、細いの」


定吉は帳面を見た。


「これはちょっとわかる」


平吉は顔を上げた。


「わかるのか」


「太い方は、ちゃんと払う客だろ」


「うん」


定吉が眉を上げる。


平吉は言い直した。


「はい」


定吉は細い線を指した。


「こっちは、遅れる客」


「でも、切れてない」


「切れたら?」


「たぶん、もう掛けない」


定吉は少し黙った。


「利助さんっぽい」


「そうか」


「でも、主人っぽくもある」


平吉は線を見た。


宗兵衛の言葉をそのまま写さない。


利助にそう言われた。


でも、きっと完全に離れることはできない。


宗兵衛の目で見たものを、利助の言葉で直され、定吉に笑われ、自分の線にする。


今の平吉の帳面は、そうやってできている。


定吉は寝転がった。


「兄さん、字は下手だけど、線はちょっとましだな」


「褒めてるのか」


「ちょっとだけ」


「ありがとうございます」


定吉は満足そうに目を閉じた。



平吉は、帳面を閉じる前に、もう一度だけ帳場の四角を見た。


帳場のそばに立つと、店の音が違って聞こえる。


店先では、品が動く音が聞こえる。


帳場では、品が銭になり、銭が信用になり、信用が帳面に置かれる音が聞こえる。


そして、帳面が開くと、人が黙る。


それは怖い。


だが、逃げてはいけない怖さだった。


平吉は小さく唱えた。


「帳面は、開くだけで人を黙らせる」


その言葉を、書こうとはしなかった。


まだ字にできない。


それに、少し重すぎる。


だから、声に出して胸に置いた。


帳場の影。


そこに近づいたからといって、帳面を持てるわけではない。


むしろ、近づくほど、触ってはいけないものの重さがわかる。


平吉は、むしろの上で横になった。


明日も店は開く。


客は来る。


品は動く。


銭は盆に置かれる。


そして帳面は、必要な時だけ開かれる。


その時、自分は目を逸らさず、しかし覗かずにいられるだろうか。


平吉は目を閉じた。


帳場のそばには、影がある。


その影を踏まないように立つことも、相模屋の小僧になる道なのだと思った。


第三十一話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第四章「帳場の影」が始まりました。


今回、平吉は帳場のそばに立ち、掛けが支払われる場面と、支払いが遅れる場面を見ました。


掛けは、品を渡した時には終わらない。

銭が戻り、帳面に済みがつくまで続く。


そして、信用は「ある」「ない」だけではない。

太い信用、細い信用、切れかけた信用。

客が払ったか、払わないかだけではなく、遅れることを言いに来たのか、約束の日を示したのか。


平吉は、帳面に残る数字の奥にある、信用の線を見ることになります。


それでも、帳場はまだ平吉が触れてよい場所ではありません。

見ることは許されても、覗いてはいけない。

近づいても、踏み込んではいけない。


帳面は、開くだけで人を黙らせる。


平吉はまた一つ、帳場の怖さを知りました。


次回は、掛けの支払いをめぐって、平吉がさらに「信用の続け方」を学ぶ話になります。


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