表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
30/46

第三十話 暖簾をしまう

第三十話です。


第三章「暖簾の内側」の締めとなる回です。


相模屋に置かれた平吉は、店の中で少しずつ、品、客、銭、帳面、そして自分の立ち位置を覚えてきました。


今回、平吉が触れるのは、相模屋の暖簾です。


朝に出され、夕方にしまわれる暖簾。

それはただの布ではなく、店の顔であり、外へ向けた信用でもあります。


平吉が、暖簾を通して「一日の終わらせ方」を知る話です。



夕方の相模屋は、朝とは違う顔をしていた。


朝は、店を開くための音がある。


戸を開ける音。

水を撒く音。

箒の音。

品箱を出す音。

暖簾を掛ける時の、布が揺れる音。


だが夕方は、店を閉じるための音になる。


品を箱へ戻す音。

銭を数える音。

帳面を閉じる音。

戸の溝にたまった埃を払う音。

外を行く客の足音が、少しずつ遠くなる音。


平吉は、その違いが少しだけわかるようになっていた。


相模屋に置かれてから、何日も経った。


水の撒き方は、まだ定吉の方がうまい。


品の場所も、まだ全部は覚えていない。


釣りの計算も、声に出さなければ怪しい。


字も拙い。


帳面に描く絵も、定吉に笑われる。


それでも平吉は、前より少しだけ、相模屋の一日の形が見えるようになっていた。


朝は、店の顔を作る。


昼は、客と品と銭が動く。


夕方は、その一日を片づける。


片づけるというのは、ただ箱に戻すことではない。


間違った場所へ戻せば、明日の朝が乱れる。


汚れを残せば、明日の店先がくすむ。


数え違いを残せば、帳面が濁る。


小さな乱れは、翌日の朝に顔を出す。


店の一日は、閉じ方で決まる。


平吉は、そう思うようになっていた。



その日、相模屋は朝から少し慌ただしかった。


雨が降るかもしれない空だった。


客は、天気を気にしながら来る。


油紙がよく出た。


手ぬぐいも出た。


紐も出た。


「濡らしたくない」と言う客が多い。


だが、濡らしたくないものは客によって違う。


手紙。

着物。

小さな包み。

奉公先へ持っていく品。

薬。

祝い物。


平吉は、以前のようにすぐ厚い油紙を出さなくなっていた。


「何をお包みになりますか」


「懐へ入れますか」


「急ぎでお使いですか」


聞きすぎないように。


でも、聞かなさすぎないように。


まだうまくはない。


客によっては面倒そうな顔をする。


その時は利助がすっと前に出る。


平吉は下がる。


下がることも、少し覚えた。


全部自分でやろうとすると、店の流れを止める。


わからない時は止まる。


だが、止まり続けない。


聞く。


譲る。


見る。


それを繰り返す。


定吉は横で、平吉の動きを見ながら言った。


「今日は、まあまあ」


「まあまあ?」


「悪くはないってこと」


平吉は少し笑いそうになった。


「褒めてるのか」


「ちょっとだけな」


「ありがとうございます」


定吉は少し得意そうにした。


「でも、油紙の小と中、まだ迷ってた」


「迷った」


「迷うなよ」


「迷ったから聞いた」


定吉は少し黙った。


「それは、まあ、前よりまし」


平吉は、定吉がそう言ってくれるだけでも嬉しかった。


前なら、笑われるだけだった。


今は、少しだけ見てもらえている。


相模屋の中で、平吉の場所はまだ端だ。


それでも、完全な外ではなくなってきた。



昼過ぎ、雨がぱらついた。


店先に出していた品を、少し内側へ寄せる。


利助が短く指示を飛ばす。


「油紙、奥へ」


「はい」


「紐は濡らすな」


「はい」


「手ぬぐいは端から畳め」


「はい」


平吉は動いた。


木箱を少し下げる。


紙包みを内側へ寄せる。


客が濡れた草履で上がりかけた時は、定吉がすぐに布を出す。


平吉は、その布を受け取り、客の足元の水を拭く。


水は、朝撒く時は店を整えるものだった。


だが、雨で持ち込まれる水は、品を傷めるものになる。


同じ水でも、場所と時で意味が変わる。


そう思った瞬間、平吉は少し驚いた。


水まで、品と同じだ。


ある場所では役に立ち、ある場所では邪魔になる。


店の中に、同じ意味のままあるものなど、ほとんどないのかもしれない。


平吉は、濡れた床を丁寧に拭いた。


利助が横から見て言った。


「客の足元を先に拭け。床を綺麗にするのはその後だ」


「はい」


順番。


また順番だ。


客が滑らないこと。

品が濡れないこと。

店先が汚れないこと。


全部大事だが、順番がある。


平吉は、布を絞り直した。



夕方になると、雨は上がった。


店先には、湿った匂いが残っている。


土と水と、油紙の匂い。


客足が少しずつ引いていく。


利助は帳場の横で品を確認している。


定吉は、紐の箱を戻していた。


平吉は、手ぬぐいを畳んでいた。


以前よりは速くなった。


だが、まだ利助ほど美しくはない。


端を合わせる。


軽く押さえる。


力を入れすぎない。


定吉に教わったことだ。


一枚。


二枚。


三枚。


畳んだ手ぬぐいを箱へ戻す。


「平吉」


宗兵衛の声がした。


平吉はすぐに顔を上げた。


「はい」


宗兵衛は帳場から店先を見ていた。


「今日は最後まで残れ」


平吉は少し戸惑った。


いつも最後までいる。


寝場所は相模屋の土間だからだ。


だが、宗兵衛の言い方は少し違った。


「はい」


宗兵衛は続けた。


「暖簾をしまう」


平吉は、息を止めた。


暖簾。


朝、まだ触るなと言われていたもの。


相模屋の顔。


店の名。


外から見える信用。


それを、しまう。


平吉は、思わず暖簾を見た。


夕方の風で、少しだけ揺れている。


相模屋の字が、雨の湿りでわずかに重そうに見えた。


「俺が、ですか」


言ってから、声が少し震えていることに気づいた。


宗兵衛は言った。


「利助と定吉と一緒にだ」


「はい」


「一人で触れると思うな」


「はい」


胸が熱くなる。


だが、同時に怖かった。


暖簾を触る。


汚したらどうする。

落としたらどうする。

畳み方を間違えたらどうする。


利助が横から言った。


「顔に出すな」


「はい」


「怖いのはいい。怖がって手を汚すな」


「はい」


定吉が小声で言った。


「手、洗っとけよ」


「はい」


「あと、濡れた手で触るな」


「はい」


「あと、力入れすぎるな」


「はい」


「あと、畳む時に端を踏むな」


「はい」


「あと」


利助が言った。


「定吉」


定吉は慌てて口を閉じた。


「はい」


平吉は少しだけ笑いそうになった。


怖さの中に、少しだけ温かさが混じった。



最後の客が出ていった。


宗兵衛が帳場で銭を数える。


利助が品箱を確認する。


定吉が店先の小さな紙くずを拾う。


平吉は、自分の手を見た。


朝から品を運び、床を拭き、油紙を出し、手ぬぐいを畳んだ手。


少し黒ずんでいる。


平吉は水で手を洗った。


洗った後、布でしっかり拭いた。


濡れていないか確かめる。


爪の間に汚れが残っていないか見る。


定吉が横から覗いた。


「まあ、いいんじゃない」


「ありがとうございます」


「なんで俺に礼言うんだよ」


「教えてくれたから」


定吉は少し照れたように鼻を鳴らした。


「別に」


利助が暖簾の端を持った。


「平吉。こっちだ」


「はい」


平吉は、言われた場所へ立った。


暖簾の端に触れる。


初めてだった。


思っていたより、厚い。


布の重みが手に乗る。


湿り気も少しある。


ただの布ではない。


朝から夕方まで、店先に掛かっていた布。


客を迎えた布。


雨を受けた布。


相模屋の名を外へ出していた布。


平吉は、息を浅くした。


「力を入れすぎるな」


利助が言う。


「はい」


「引っ張るな。支えろ」


「はい」


定吉が反対側を持っている。


利助が中央を外す。


三人で、ゆっくり暖簾を下ろす。


平吉の手元に、相模屋の布が降りてくる。


落としてはいけない。


床につけてはいけない。


しかし、怖がりすぎて引っ張ってもいけない。


支える。


利助の言葉を思い出す。


引っ張るな。支えろ。


暖簾が外れた。


店先が、急に裸になったように見えた。


暖簾がある時、そこは相模屋だった。


暖簾が外れると、相模屋は少し内側へ引っ込む。


平吉はその変化に驚いた。


布一枚で、店の顔が変わる。


いや、布一枚ではない。


その布に乗っているものが違うのだ。



暖簾を畳む時、利助が言った。


「端を合わせろ」


「はい」


「字を内側へ汚く折るな」


「はい」


「湿りを見ろ。濡れたところをそのまま重ねるな」


「はい」


平吉は、暖簾の布を見た。


端が少し湿っている。


雨に当たったのだろう。


そのまま畳めば、明日の朝に匂いが残るかもしれない。


布が傷むかもしれない。


相模屋の字がくすむかもしれない。


定吉が言った。


「ここ、少し拭く」


「はい」


平吉は乾いた布を受け取り、湿ったところを軽く押さえた。


こすらない。


押さえる。


手ぬぐいを畳む時と同じだ。


力を入れすぎると、かえって乱れる。


平吉は、そっと水気を取った。


利助が見ている。


定吉も見ている。


宗兵衛は帳場から黙って見ている。


平吉は、手元だけを見すぎないようにした。


布全体。

端。

湿り。

自分の指。


すべてを見る。


そして、定吉と呼吸を合わせて、暖簾を畳んだ。


端は少しだけずれた。


平吉が気づく前に、定吉が直した。


「ここ」


「はい」


「ずれたまましまうと、明日出す時に曲がる」


「はい」


明日に出る。


今日のしまい方が、明日の店先に出る。


まただ。


今日の終わりが、明日の始まりになる。


平吉は、それを手で感じた。


暖簾を畳み終えると、利助が受け取った。


「悪くない」


平吉は顔を上げた。


利助はすぐに続ける。


「だが、遅い」


「はい」


「次は、布の湿りを先に見ろ。畳み始めてから気づくな」


「はい」


やはり、まだ足りない。


でも、悪くないと言われた。


平吉は、それを胸の中でそっと受け取った。



宗兵衛が帳場から出てきた。


暖簾を見た。


そして、平吉を見た。


「暖簾をしまうとは、どういうことだ」


平吉はすぐには答えられなかった。


布を畳むこと。


店を閉じること。


今日の商いを終えること。


どれも違わない。


だが、宗兵衛が聞いているのは、それだけではない。


平吉は、少し考えて答えた。


「今日の店を、明日に残すことです」


宗兵衛の目が少し動いた。


平吉は続けた。


「汚れたまましまえば、明日の暖簾が汚れます。濡れたまま畳めば、明日の店先に出ます。端がずれたままなら、明日もずれます」


言いながら、自分でも思った。


暖簾だけではない。


品もそうだ。


帳面もそうだ。


自分の手もそうだ。


今日のずれは、明日に残る。


今日の汚れは、明日に出る。


だから、閉じ方が大事なのだ。


宗兵衛は言った。


「朝に暖簾を出すのは、店を開くことだ」


「はい」


「夕に暖簾をしまうのは、店を汚さず終えることだ」


「はい」


「出すより、しまう方が難しい」


平吉は、深く頷いた。


「はい」


宗兵衛は続けた。


「朝は、これからの店をよく見せようとする。誰でも背筋が伸びる」


「はい」


「夕は、疲れている。急ぎたくなる。終わった気になる」


「はい」


「その時に雑にしまえば、今日の疲れを明日に持ち込む」


平吉の耳に、利助の声が戻った。


疲れた時に崩れるところを覚えろ。


暖簾も同じだ。


疲れた夕方に、どうしまうか。


そこに、その日の店が出る。


宗兵衛は言った。


「暖簾を汚すな」


平吉は息を止めた。


帳面を、汚すな。


父の言葉と重なった。


帳面。

暖簾。


違うものなのに、同じように聞こえた。


帳面は、店の中の信用を記すもの。


暖簾は、店の外へ信用を出すもの。


どちらも汚せば、店を傷つける。


平吉は頭を下げた。


「はい」



その夜、平吉は帳面を開いた。


手が少し震えていた。


暖簾。


どう描くか。


まず、四角い布を描いた。


その上に、相模屋の字らしきものを描こうとして、止まった。


店の名を勝手に書くのはどうなのか。


相模屋の暖簾。


店の顔。


自分の帳面に、その名を真似て描いてよいのか。


平吉は考えた。


仕立て屋の女将のことを帳面に描こうとして、宗兵衛に止められた夜が浮かんだ。


書いてよいことと、書いてはいけないこと。


客の名を書かない。

店の帳面の中身を書かない。

相模屋の信用を外へ持ち出さない。


なら、暖簾もそのまま描くべきではないかもしれない。


平吉は、相模屋の字を描かなかった。


代わりに、ただの布を描いた。


その端に、小さな水の印。


湿り。


その下に、ずれた線と、まっすぐな線。


端を合わせる。


さらに、手の印。


引っ張るな。支えろ。


最後に、夕日らしき丸を描いた。


夕方にこそ、雑になるな。


字では書ききれない。


でも、印なら残せる。


平吉は、帳面の下の方に、書ける字を書いた。


手。


水。


明日。


明日の字はまだ怪しい。


だが、どうしても書きたかった。


今日のしまい方が、明日に出る。


それを忘れたくなかった。


定吉が横から覗いた。


「暖簾か」


平吉は少し驚いた。


「わかるのか」


「まあ、今日はそれしかないだろ」


「相模屋の字は書かなかった」


定吉は少し真面目な顔をした。


「その方がいいんじゃない」


「そう思った」


「でも、暖簾には見える」


平吉は少し嬉しかった。


定吉が、ちゃんと見てくれている。


「今日は、ありがとう」


「何が」


「端、直してくれた」


定吉はそっぽを向いた。


「あれくらい、気づけよ」


「次は気づく」


「次も俺が見るけどな」


平吉は笑った。


「頼む」


「頼むじゃなくて、自分で見ろ」


「はい」


定吉は少し満足そうに横になった。



平吉は、帳面を閉じなかった。


最後に、もう一つだけ印を描いた。


帳面の四角。


その横に、暖簾の四角。


二つの四角を、一本の線で結ぶ。


帳面と暖簾。


中の信用と、外の信用。


父が言った帳面。


宗兵衛が言った暖簾。


どちらも、汚してはいけないもの。


平吉は、その線をじっと見た。


村を出た時、平吉は帳面を知らなかった。


字もろくに書けなかった。


銭の重さも、品の見方も、客の用も、掛けの怖さも、暖簾の重さも知らなかった。


今も、知っているとは言えない。


ただ、知らないことの形が少しずつ見えてきただけだ。


でも、それでいいのかもしれない。


知らないことを知らないままにしない。


見たものを曲げない。


書いてはいけないことは書かない。


一文を軽く見ない。


客の用を、自分の話で塗らない。


疲れた時に崩れるところを覚える。


そして、今日の終わりを明日に汚して渡さない。


平吉は、小さく唱えた。


「帳面を、汚すな」


それから、少し間を置いて、もう一つ唱えた。


「暖簾を、汚すな」


字にはまだできない。


だが、声に出せる。


胸に置ける。


手に覚えさせることも、少しずつできる。


平吉は帳面を閉じた。


外には、江戸の夜がある。


相模屋の戸は閉じている。


暖簾はしまわれている。


店は眠る。


だが、明日の朝になれば、また暖簾は出る。


その時、相模屋はまた相模屋として町に顔を出す。


平吉は、むしろの上で目を閉じた。


暖簾の内側に入っただけでは、相模屋の者にはなれない。


けれど、暖簾を汚さずしまう手の端に、自分も少しだけ加わった。


それが、今の平吉にとっては十分すぎるほど大きかった。


第三十話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第三章「暖簾の内側」は、今回で一区切りとなります。


相模屋に置かれた平吉は、最初、暖簾にも帳場にも触れられない小僧見習いでした。


そこから、定吉の背中を見て、品の名を覚え、客の用を考え、掛け売りを知り、書いてよいことと書いてはいけないことを学び、一文の釣りを通して正しさの置き方を知りました。


そして今回は、初めて暖簾をしまう仕事に加わります。


暖簾は、ただ店を閉じるための布ではありません。

今日の汚れを明日に持ち込まないために、きちんとしまうもの。

店の外へ向けた信用を、汚さず戻すもの。


「帳面を、汚すな」

「暖簾を、汚すな」


平吉はまだ、その言葉を十分に書くことはできません。

それでも、声に出し、胸に置き、手に覚えさせようとしています。


暖簾の内側に入っただけでは、相模屋の者にはなれない。

けれど、暖簾をしまう手の端に加わったことで、平吉はまた一歩だけ、相模屋の中へ進みました。


次章からは、相模屋での修行がさらに広がっていきます。


続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ