1・消えた恋人
決して広いとはいえないマンションの一室。
川路紅苑は警察官二人と向き合っていた。
「お名前は…川路紅苑さん」
「はい」
「…」
綺麗でもないし汚くもない普通の部屋。
警察官の一人が白い手袋をはめた手を自分の顎に当てた。
「どっかでお会いしました?」
「会ってないと思いますけど」
「ですよね。えーと、では整理すると、あなたが風呂に入っている間に現金を持ち逃げされた、と」
「はい」
「泥棒に入られたのではないんですね?」
「恋人です」
紅苑の家に恋人が来ていた。泊まると言うので先に風呂に入れて、その後に紅苑が入った。
出てきたら恋人がいない。いやな予感がした紅苑はクローゼットの中に置いていたものを探したが、なくなっていたのだ。
「おかきの入っていた銀色の大きな箱型の缶です。その中に現金を入れていました」
紅苑は警察官にそう言ってからキッチンのシンク下の扉を開け、そこから今説明した銀色の缶を出してきた。
「これと同じものです」
「なるほど。現金はいくらぐらいですか?」
「300万ぐらいです」
「300万も現金で置いていたのですか?」
こくん、と頷いた紅苑は銀色の缶を持ってべちゃり、と床に座った。
「毎月、銀行に預けないでここに貯金してたんです」
「でも、給料は銀行口座に振り込みでしょう?」
「銀行に預けていたらただの数字です。貯まったのを自分の目で確認したくて」
さほど家賃も高くないだろう。しかも男の一人暮らし。
300万貯めているようには見えないが、その分質素な暮らしをしていたのか。
警察官は紅苑の話をメモに取りながら考える。
もう一人の警察官も同じことを考えていたのか、目が合うと頷いていた。
「恋人ならお名前はわかりますよね」
「はい。大宮詠一です」
「詠一?男?あ、失礼しました」
紅苑が男だからといって恋人が女だとは限らない。今の時代では珍しいことではないのだ。
「大宮さんが持って行ったという証拠はないんですね」
「残念ながら。でも彼しか考えられません」
「ですよね。わかりました。後ほど鑑識のものがお伺いしますが大丈夫ですか?」
恋人なのだからしょっちゅうここへ来ていただろう。
指紋など採取したところでなにもならないかも
しれないが。
「私たちは大宮さんに話を聞きたいので捜索します」
「よろしくお願いします」
警察官は大した事件ではないと思っているのだろう。
30分もしないうちに引き上げて行った。
鑑識が来るまでは部屋を動かさない方がいい。
紅苑は銀色の缶をまたキッチンのシンク下へ入れてため息をついた。
誰にも見られるわけにはいかない。タクシーに乗りたかったが運転手に証言されても困る。
それぐらい大きな箱型の缶を抱えて大宮詠一は夜の道を誰の目にも止まらぬように走っていた。
自宅まであと10分ぐらい。蓋は開かないようにゴムベルトで留めてあるので詠一は思い切り走った。
二階建ての古いアパートの崩れそうな外階段を駆け上がり、詠一は自分の部屋に飛び込んだ。
「はあ、はあ、はあ…」
仰向けに倒れた詠一はここへ来て箱からやっと
手を放す。
クローゼットの扉は閉めてきたし、紅苑はまだ
気づいていないだろう。
しかし何も言わずに帰ったことには気づいているはずなのに、ポケットから取り出して見た携帯にはなんの連絡もなかった。
紅苑は不思議な男だった。不思議、というよりは一風変わっている。喜怒哀楽があまりない。いつも静かでおとなしい。
付き合ってまだ三ヶ月ほどだが詠一は紅苑の
ことをそう感じていた。
初めて紅苑のマンションに泊まった時、クローゼットに部屋着があるから何でも着ろ、と言われて開けたらこの大きな銀の缶が入っていた。
「なにこれ。お菓子?」
「俺の貯金箱」
「貯金箱?500円玉貯金でもしてんの?」
そう言いながら詠一が持ち上げるとまあまあの重さだったが中身は500円玉ではなさそうだった。
こんなところに現金を置いておくわけがない。
貯金箱、と言っているが入っているのは金以外のものだろう。
詠一は元に戻して部屋着を取った。
「月に5万ずつ貯めてるんだ」
「え?マジの貯金箱なの?」
「うん」
「銀行に入れろよ。物騒だな」
詠一がクローゼットの扉を閉めようとした時、
その箱がキラリ、と光って見てきた。
中に入っているのは何枚かわからないが万札だろう。
「通帳に記入されたただの数字なんて見てても
楽しくない」
この時も変なヤツ、と詠一は紅苑のことをそう思っていた。
まだ息が荒い。走りに走ったからか、それとも盗みをしたからなのだろうか。
とりあえず探りを入れるために詠一は紅苑にラインをしようと携帯を持ち直した。
「待てよ」
もし、この箱がなくなっていることに紅苑が気づいていたら…怒っているだろう。
俺じゃない、と言ったところで信じないだろう。
いろいろ考えて連絡をしないことにした。
どちらにしても紅苑とは終わりだ。
盗んでいない風を装って会うのもしんどい。
可愛い顔をしているし、おとなしい。付き合っていて楽しかったので惜しい気もするが。
詠一には借金があった。割りの良い仕事をしているがそれでも足りない。
紅苑に貯金のことを聞いてからずっと離れなかったのは常に金が必要な状況に置かれていたからだ。
働き出してからすぐに貯金を始めたこと。
月5万ずつ貯めていて今年で5年目だということ。
紅苑から得たこの金に関する情報が詠一の頭の中でくるくると回る。
300万はある。
これがあればかなりの借金を返済できるかもしれない。
明日にでもこれを持って滞納している借金を返しに行こう。少しでも返したらまた貸してくれるかもしれない。
詠一がくたくたになっている体をやっと起こして箱を開けようとしたその時、インターホンが鳴った。
詠一には前科がない。指紋の照合はどうするのだろう。
鑑識の人があちこちに粉をふりかけたり、液体を垂らしたり、テープのようなものを貼ったりしているのを見ていた紅苑は部屋の隅でそんなことを考えていた。
「以上になります」
「ご苦労様です。ありがとうございました」
今頃詠一を探しているのだろうか。紅苑は詠一の名前しか知らない。住んでいるところも北千住としか聞いていない。
しかし詠一の名前が本名ならば探し当てるのは簡単だろう。
早く捕まえてもらいたいが自分にできることは
もうない。
ふあ、と一つあくびをして、紅苑はベッドに潜り込んだ。
詠一はギャンブル好きだった。仕事をしてはいるもののその金はほとんどギャンブルに注ぎ込まれ、家賃も滞納、電気も今月こそ払わなければ止められるような状態。
依存症なのだろう。こんな状態になってもギャンブルはやめられない。下手の横好きという言葉がピッタリと当てはまるほど負けていた。
しかしたまに勝つ快感が詠一をギャンブルの沼から出そうとしない。
よくある話だがその流れでかなりの借金をしていた。
紅苑と詠一が知り合ったのは居酒屋だった。
この日も競馬で負けた詠一は、ポケットの中の
わずかな金を数えて居酒屋に入った。
こんなけったクソ悪い日は飲んで寝るに限る。
これだけあれば安酒二杯とつまみぐらいは頼める。
数えた金をまたポケットにねじ込んで、詠一は
居酒屋ののれんをくぐった。
空いていた席に座りビールを注文して半分ほど
一気に飲む。好物のたこの天ぷらが来るまで
あとはチビチビと飲んでいた。
詠一が店に入ってから10分も経たずして入って来た客。キョロキョロと店内を見回し、詠一の近くにやって来た。
「あの、相席いいですか?」
「え?ああ、どうぞ」
詠一は四人掛けのテーブルに一人でいたが、カウンターも空いている。
なんで?とは思ったが断る理由もない。
その客は正面の席に座ってペコっと頭を下げた。
「色々食べたいんですけど、少食で。
もし良かったら一緒に食べてもらえませんか?」
その客は店内見回し、一人でいる客の中で一番食べてくれそうな席に座った、と笑いながら言った。
「逆にいいんですか?俺、今日あまり金持ってきてないんで、」
「食べてもらうんですからお金なんて。助かります」
変なヤツ、と詠一は思ったが、正面に座った客を見ると確かに細い。詠一も体格のいい方ではないがこの客よりはがっしりしていた。
宣言した通り、その客は10品を頼んだ。
そしてそこからひとくち取り皿に分けて食べる。その残りを詠一が食べていった。
「うまい。この帆立バター、ふわふわ」
「ホントだ。いい帆立使ってる」
二人で感想を言いながら食べていく。次から次へとその客が注文した料理が運ばれてくる。
最初は料理の感想を言い合っていただけだったが、三杯目の酒が終わりそうな頃、お互いの話になっていた。
仕事を聞かれた詠一は小さな建設会社で働いている、と言った。現場仕事なので夏と冬はキツイと客に笑って見せた。
「夏なんて幻が見えるんですよ」
「幻?どんな?」
「キンキンにエアコンの効いた部屋とか」
「あはは。そこ、湧き水とかじゃないんだ」
何を話してもこの客は笑ってくれた。
酒もまわり、詠一は調子に乗っていろんな話をした。
詠一が最後の皿の料理を食べ終わる。
店内の客は減ってはいたが、まだまだ賑やかだった。
「今日は本当にありがとうございました。
俺にご馳走させてください、と言っても俺が頼んだものばかりだけど」
「いや、食ったのは俺なんで」
そう言ったものの詠一はあまり金を持っていない。
それは最初にこの客に伝えていたが、一応言ってみた。
「俺も食べましたから。それにすごく楽しかった。こんなに笑ったのは久しぶり。ありがとう」
「それは俺も。久しぶりに楽しかったよ。
てかホントにいいの?」
うん、と頷いた客はテーブルに置かれた伝票を持って入り口に向かう。詠一もあわててついていったが、先に外に出ているように言われた。
外に出た詠一は風で揺れるのれんを見つめる。
ラッキー、という気持ちよりもなんだか本当に
申し訳ない気持ちの方が大きかった。
それぐらい楽しい時間だったからなのかもしれない。
「夜は冷えますね」
そう言って出て来た客に詠一はペコっと頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「いえいえ。こちらこそありがとうございました」
ニコッと笑った客は手を振って去っていこうとした。その腕を詠一は無意識に掴んでいた。
「あの、25日、またさっきぐらいの時間にここに来てくれます?」
「え?」
「俺、給料日なんですよ。今度は奢らせてください」
「そんな、いいですよ」
人に奢るぐらいならその金でパチンコでもしたい。
借金も家賃も滞納しているのに、詠一は自分でも何を言っているんだ、とつっこんでいた。
たぶん、もう一度会いたかったのだろう。
それしかない。腹の底から笑うことなど、楽しむなど最近は全くなかった。
この人となら何も考えずに笑える。自分のことを何も知らないこの人となら。
「割り勘なら来ます」
「いや、それじゃ、」
「奢りなら来ません」
厳しく言ってはいるが、客はずっと笑っている。詠一は折れるしかなかった。
「じゃあ割り勘で」
「25日ですね。楽しみ」
この日は連絡先を交換することもなく別れた。
25日まであと10日ある。一人の帰り道、本当に
あの人は来てくれるのだろうか、と詠一は不安になったが、信じるしかなかった。
そして25日がやって来た。詠一がATMに行くと
言われていた通りの額が振り込まれていた。
本来ならば借金を返して、残りは全部賭け事に使う。
しかし詠一は5万円下ろしただけだった。
少しだけ分厚くなった気がする財布が入っているポケットの中を何度も確認しながら詠一が居酒屋へ行くと、もうあの客はテーブルに座っていた。
「こんばんは。遅くなりました」
「俺も今来たとこです」
二人で顔を見合わせて笑う。その日から紅苑と詠一は会うようになった。




