エピローグ
セレネが謁見の間に呼ばれたのはカジミールが王宮から放り出された後だった。交渉が上手くいったことは、両陛下や宰相、そしてユーグの表情から分かった。
だが、なぜここにギュスターヴまでいるのだろう。王子は少々緊張気味に、しかし皆と同じように嬉しそうにしている。弟のそんな表情を見るのは初めてだった。
「セレネ、実は私たちにはおまえに隠していたことがある。それをとうとう話す時が来た」
「は……はい、伺います」
カジミールの件は良いのだろうか? 予想していた展開が外れ、困惑しながらも頭を垂れる。王は手振りでそれを止めた。
「よいのだ。そうすべきは私たちの方であるかもしれぬ」
「え……?」
「話すのは、おまえとツァイス子爵に関することだ」
ユーグが隣に寄り添ってくる。見上げると、眉尻を少し下げられた。
「実は、おまえと子爵が出会ったのは偶然などではないのだよ」
セレネは見えざる目をぱちくりと瞬いた。
「あの日、おまえが植物園に出かけると聞いて、私と王妃と宰相が子爵に頼み込んだのだ。二人きりになれるよう、おまえの侍女にも少しばかり手伝ってもらった」
「…………」
「だが子爵からの求婚は本物だった。おまえへの伝え方には苦労したぞ。私たちはとても嬉しかったが、おまえも同じように喜んでくれるわけがないことは分かっていたからな。婚約を義務のように話したのはそのせいだ。本当はそんな冷たい父ではないことは、分かっておいてほしい」
「ええ……」
「それと、婚約に付けた条件だが、あれは全て私から出したものだ。子爵はよく従ってくれたものだよ。自分を抑圧することしか知らなかったおまえが今回のような妙案を思いついたのは、一緒に暮らしている間に子爵がその堅物な頭を解してくれたからに違いあるまい」
セレネはしばらく硬直した。頭の中は疑問符だらけだったが、はっきり分かったことが一つだけある。
「……つまり、全てわたしのためを思ってなさってくれたのですね」
両陛下が安堵の溜息をついた。
「分かってくれて何よりだ」
「強引だけど、これがわたくしたちの手助けだったの。ずっと心配だったのよ、何も尋ねてこないから『王宮から追い出された』と思っているのではないかって」
「それは少し考えましたけれど……」
セレネは話を把握するのに必死で、両陛下が慌てたことに気づかなかった。
「婚約を秘密にしたのもわたしのためだったのですね?」
「そうとも。おまえには自分について考える時間が必要だったのだ」
「でも、どうしてユーグはわたしを選んだの?」
急に話を向けられて狼狽えるが、やがて頬を仄かに赤く染めた。
「一目惚れしたからさ」
「……一目?」
「初めて会った時、あなたの本当の姿が一瞬だけ見えたんだ。きっとあまりの驚きで自分を忘れた瞬間だったんだろう。肖像画と同じ瞳が……すごく綺麗だった」
全員の視線が集中し、頬がどんどん赤くなっていく。だが、セレネが肩を震わせるのを見逃しはしなかった。
「セレネ……」
ボンネットを脱がして透明な目元を手で拭う。涙はほとんど肌と同化して見えないため手探りだ。
そこへ、背の低い人影が近づいてきた。
「姉上、お使いください」
ギュスターヴがハンカチを差し出している。
その言葉を聞いた時、その姿を見た時。セレネの胸にまるで花が開いたように、温かいものが広がった。感情が優しく湧き上がって涙を押し上げ、次から次へと溢れてくる。
「……ありがとう、ギュスターヴ……」
震える手で受け取ったハンカチを顔に当てた時、誰もが目を瞠った。
ユーグが急いで手袋を脱がせた。自分の肌がそこにある。
「あぁ……」
ようやく、もう失われることのない姿を取り戻したのだ。
大聖堂の前は厚い群衆で覆われていた。約二年間の婚約期間を経て、ついに王女と公爵令息の結婚式の日が来たのだ。
この二年間、二人にまつわる多くの驚きと喜びがあった。ツァイス子爵の帰還に始まり、王女と子爵の婚約が発表され、その日を堺に病身と思われていた王女が公に姿を現し始めた。白い肌に黒い髪、宝石のような紫色の瞳の美しい、淑やかで賢明なる王女の姿に、誰もが様々な意味の溜息をついた。ある紳士曰く、『美しく成長なさる過程を見届けたかった』と。
一方、公爵令息は少女や淑女たちの溜息を攫った。少しも浮名を流さないと思えば、突然王女との婚約が発表されたのだ。帰国した時はあんなに手を振ってくれたのに、あっという間にはるか遠くの存在になってしまった、と寂しさに暮れるのだった。
この二年間、色々なことがあった。二人は一緒に出かけることもあれば、小さな喧嘩をすることもあった。結婚後の住まいや家族について考えていたら、いつの間にか両陛下と宰相夫婦も話し合いに参加していて、ちょっとした会議になったこともある。
ギュスターヴが立太子した。五人でお茶会を開いた。新しい肖像画を描いた。
そして今日、二人は永遠の愛を誓い合う。
真っ白なドレスと軍の礼服を着た二人が並び、指輪を交換して向かい合った。セレネの長いベールは淡く、微笑んでいる姿が透けて見える。
「とうとうこの日が来ましたね」
ジャネットは隣に座っているマクシムに囁いた。今日の二人は貴族令嬢と令息らしく晴れ着を着ている。
「なんだか巣立ちされる思いです」
「……実際そうかもしれない」
ベールが捲られ、参列者たちが身を乗り出した。
「私のことどう思ってます?」
いたずらっぽく尋ねると、小首を傾げられた。
「……戦友?」
「まぁ物騒」
マクシムは息をついて目を閉じた。
衆人環視の中で見つめ合える二人の図太さが信じられない。
「愛しているよ」
ユーグの囁きが最前列の人々の頬を染める。
「わたしも、愛してるわ」
セレネは幸せに顔をほころばせ、口づけを受けた。
祝福の鐘の音があまねく鳴り渡っていく。
〈おわり〉