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今日の朝は物音もしない静かな目覚めだった。それもそのはずで、目をこすり周りをどれだけ見渡しても音も臭いもこの病室には僕しかいなかったのだから……
「―― 春子?」
朝、目覚めたら、あるはずだった春子の姿もベッドにはなく。ポツンと僕の目の前に、木下が整えてから誰にも触れられた形跡もない、晴子のベッドが残っていた。僕はカレンダーで日付を確認するが、良くも悪くも、僕たちの余命は一日短くなっていた。
春子が帰って来ないことは何回かあった。だけど、その時は必ず春子から事前に何らかの報告があった。
何かが良くない…… 気がする。
『明久!』
突然、春子の笑顔が頭に浮かぶ。
春子…… 大丈夫…… だよね。だって、君は生きるって……
『明久、私は生きるよ』
春子の自信に充ちた顔が浮かぶ。
…… 行かなくちゃ。
何処に行けば良いか、分からなかった。でも、じっとしては居られない。僕はまだ覚束無い足をベッドから下ろすと、春子を探しに歩き出した。
昔、ある医者が僕に言った。
『余命はあくまでも、予定だ。それも極めて変更が多い予定だ。君は明日死ぬかもしれないし、今日死ぬかもしれない。もしかしたら、余命より長く生きるかもしれない可能性も充分ある。だけど、予定は早まることが悲しいことにほとんどなのだよ。だから……』
まだだ。僕たちの予定はまだ先で、カレンダーもまだめくっていない。バツ印もまだあと、手に余るほど書かないとだめなんだ。だから、春子、違う…… よね? いや絶対、違う…… はず……
頭で、どれだけ否定してもよくないことが頭を過る。僕は覚束ない足ひきずりながら病室を出た。
「明久君?」
木下の声がした。木下を見てすぐに木下とは判断できず、その場に立ち尽くし、僕の脳内の処理が終わるのを待った。
「どうかした?」
「木下さん…… 木下……」
徐々に処理が終わっていく。ぼやけた視界がはっきりと木下を捉えると、僕の感情がどっと頭に流れ込んできた。一気に押し寄せる不安と安心に頭が真っ白になると、泣きじゃくむ子どものように僕は木下さんにすがりよった。
「き、木下さん! は、春子…… 春子が!」
「春子さんがどうしたの? ちょっ、落ち着いて」
「は、春子が帰って来てないんだ!もしたら、もしかしたら!」
「それは……」
木下が、後ろ方へと視線を逸らす。
「何、どうしたの。明久、私が何って?」
「――えっ?」
木下の後ろから、あまにも聞き慣れた声が聞こえた。
「フフフ、何よ。その顔は…… 今にも泣きそうな顔ね、明久」
僕は目をぱちくりさせながら、木下さんを見ると、木下さんは静かに頷いた。
ハ、ハハ…… よ、良かった…… 良かった。
僕は何度も心の安堵を噛み締めた。春子は生きていた。彼女はまた僕の前に現れてくれた。良かった。
「ううん、何にもないよ。お帰り、春子」
「うん! ただいま、明久」
本当はいろいろ、言いたかった。遅くなるなら、一言、話せ!とか、心配したんだぞ!とか…… だけど、昨日と変わらぬ笑顔でまた僕の前に帰って来てくれた彼女に対し、僕が言える文句は出てこなかった。僕は彼女の笑顔に弱い。
「さっ、春子さん部屋の中に入りなさい」
「――うん。そうする」
「明久君はこれから検査だから、このまま、私と一緒に来て」
「は、はい」
「明久、頑張ってね。私は少し寝るね」
春子は大きなあくびを一つすると、僕らの病室に入って行った。僕と木下は春子が中に入るのを見送った後、検査のために移動し始めた。
検査か…… こんな朝早くからなんの検査だろうか。血液検査? 尿検査? それとも、レントゲン? こんな、朝早くから?
「明久君は春子さんから、彼女の病気について何か聞いている?」
しばらくして、僕の少し前を歩いていた木下が、話を切り出した。
「いいえ、何も…… 」
「―― そう」
木下は何か煮え切らないような返事をする。木下は浮かない表情をしている。木下の目の下には黒い炭でこすられたようにくまが出来ていた。
「木下さん、疲れているの?」
「どうして?」
「目の下にくまがあるよ」
「あら、本当? 今日はまだ、鏡見ていないから気がつかなかったわ。後で、厚化粧しなくちゃね」
僕との他愛もない会話に笑顔を見せる木下だったが、やはり何かあるのか、浮かない表情は抜けない。
「春子に何かあった?」
この質問に深い意味はなかった。ただ、僕が心のどこかにある、少しの疑問を木下にしてみただけだ。
「・・・・・・」
「木下さん?」
木下からの返事はない。僕は木下の様子を窺うようにもう一度、問いかけた。木下が、足がピタッと止まる。僕も木下に合わせ、足を止める。少しの間の後、木下は静かに口を開いた。
「春子さんの検査結果が出たわ」
「検査結果?」
木下がこちらを振り替える。木下の浮かない顔は悲痛な顔となって、僕を見た。僕の顔が一気に強張り、頬にピシッと線が走る。
「春子さんの余命が残り一ヶ月になったわ」
僕は呼吸するのを一度、忘れた。忘れた後、肺が圧迫される苦しみよって、僕の呼吸は荒く、早く、再び活動し始めた。
「嘘だよね?」
木下は何も言わない代わりに、ただ顔を二、三度、横に振る。
ドクドクドクドク。心臓の動機が激しくなる。血液が体、全体を激しく循環し、脳に酸素を送る。
「嘘だよね?」
酸素が足りてないのか。僕は壊れたおもちゃのように同じ言葉を繰り返す。木下も壊れているのだろう、また首を横に振る。
ハハハ。
僕は少し肩を浮かして笑った。笑って見せた。そんな、僕を見てか、木下は眉間により一層、悲痛を深める。
「ごめんね」
木下がぽつりと僕に呟く。
「ごめんね」
また、ぽつりと今度は誰かに呟いた。
木下はもう僕を見ていない。自分の腕を抱え込んで、冷たい廊下の床と会話している。だけど、僕にはさっきよりも木下の声が、僕の耳から体の奥底まで全部に届く。もう、『嘘』だと口が裂けても言えなかった。
「い、いつから春子の体調が悪かったの?」
「ずっとよ。だけど、本当に悪くなったのは最近だわ…… 昨日、春子さんは発作で倒れたのよ」
「えっ…… 」
僕は驚きのあまり言葉を失う。木下が口にする春子と僕が見て来た春子ではあまりにもかけ離れている。その春子は誰なんだ? 僕が知っている春子は体調が悪い素振りなんて一度も見せなかった。別れるときだって、弾けた笑顔を僕に春子は見せてくれた。
それに、春子自身から僕は何も聞いていない……
木下は僕がどんな反応するか分かっていたのか僕の顔を見て、一度、僕と目を合わせてゆっくりと頷いた。
「発作で倒れることは今まで、何回もあったの。でも、最近は明らかに回数が増えている」
「それが、余命に関係でもあるの? 僕だって発作ぐらい……」
「違うのよ!」
木下の声が僕の言葉に重なった。木下の声は硬い物体をコンクリ―トの壁にぶつけたようなきつさがあった。僕は思わず、口をつぐむ。
「違うの…… 明久君と春子さんでは違うの。あの娘は心臓の病気なのよ。春子さんにとって、発作の期間が短くなるということはあの娘の心臓に限界が近づいていることを意味するのよ。多分、今の状態だと、生きていること自体が苦痛のはず……」
木下は溢れた感情を再び抑えるかのように、声のトーンを落としていった。それでも、眉間に残るしわが木下の抑えきれない感情をよく表していた。
生きていることが苦しい。
だったら、僕にいつも見せてくれた笑顔はなんだったんだ。
春子はいつも笑い、自由奔放で、僕に生きているということを実感させてくれて…… 彼女は強いと思っていた。でも、違った。春子は僕に見せる笑顔の裏でずっと苦しんできた。僕は自分が都合のいい所しか春子を見てこなかった。いつのまにか僕は彼女が笑っていることが当然のように思っていた。
彼女、岡崎春子は僕と同じ余命三カ月で、僕と同じく苦しんでいたんだ。
今まで、僕の生きがいだった春子の笑顔が頬が引きつり、眉間のしわが寄っていく。暗い、苦しい笑顔に変わっていく。
これが、本当の春子なんだ……
パキン…… パキパキパキ……
僕の中で一つ何かが欠けた。欠けた部分を始まりに、鏡が割れるような高い金属音が連鎖的に僕の中を走り周った…… そして、僕の中から春子が消えていく……
「あぁ……ああ、うわぁぁぁああああああああああああああ!!」
消えていくと同時に、心臓を鷲掴みされたような苦しみが僕を襲ってきた。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい……
僕は胸を押さえ、冷たい病院の廊下に膝から崩れ落ちた。
今まで、何をしてきたんだ。何を……
後悔が止まらない。止まらない後悔が苦痛になっても収まらない。視界がぼやけてくる。目がジーンと熱い。一粒の後悔が外に出ると、崩壊したダムのように留まることなく…… 僕の体から外へ流れ出た。
「あああああああぁぁぁ…… 僕は…… 僕は!」
喉がガラガラだ。声を上げる度にヒシヒシとした空気が触る痛みが僕の喉を襲うが、その痛みがまた、僕に声を上げさせる。自分で喉を締め上げるが、僕の嘆きの声は消えない。
「明久君!」
木下の声が僕を呼ぶ声が微かに聞こえた。木下は僕のもとに駆け寄ると、僕をそのままの勢いで抱きしめた。木下の肩に僕の後悔が積もり、広がっていく。
「木下さん、僕は…… 僕は……」
木下がやさしく、僕の頭を抱き込む。木下の匂い、温くもりを感じる。
「明久君、あまり自分を責めないで…… 」
木下は一言そう言うと、またギュッと僕を抱きしめた。僕は木下の表情を確認できなかったが、この時の僕の肩はやけに冷たく、湿っぽかった。
僕は落ち着くまで木下の中に居た。けれど、落ち着いた後も、僕の中に春子が帰って来ることはなく、僕の中の鏡は散らばったまま、鋭利さを保って僕を刺していた。
※※※※※※
「はい、どうぞ」
木下から、一本の缶ジュースを受け取る。
「いいの?」
「いいよ。でも、これは他の人には内緒ね」
木下はそう言って、僕の横に腰かけた。僕たちが今、居るのは病院の食事処。ピークのお昼も過ぎ、そこは閑散としていて席を選ぶのには苦労しなかった。
「春子はこれからどうなるの?」
「手術を受けて完璧に病気を治すか…… このまま何も処置をせず余命を全うするかしかないわ」
「木下さん、春子の病気は治せないの?」
「治せる。心臓の移植手術をすれば春子さんの病気は助かるわ。ただ……」
「ただ?」
「あの子は心臓移植を望んでいない」
「どうして…… 心臓を移植すれば、春子は助かるんだろ?」
「—― そうね。でも、心臓移植には相当なリスクがあるのよ。手術中に死ぬかもしれないし、移植した後、心臓が自分の体になじまず、体が拒否反応をみせて結局、だめになることもあるの。だから、春子さんが慎重になるのは分からないのではないの。でもね……」
と、何かを言いかけた木下だったが「ハァ、ダメね」と、がっくりと肩を落とした。
「木下さんは春子に手術を受けてほしいの?」
「…… 受けてほしい。だけど、それは私のエゴ。看護師として私が春子さんに手術を進めることは出来ない」
「どうして?」
「看護師は医者でないの。簡単な治療は出来ても、人の最後の時はただ、見守ることしかできない。実際、私は何度もこの目で人の最後を見て来た。だけど、その中で私が出来たことと、言えば必死に涙を堪えることだった。涙を堪えて、堪えて、堪えて…… 残るのはただ後悔。私が早く病気の兆候を見つけられれば、もっと病気の発見が早ければ…… そして、どうにもならない後悔のなか、感じることはいつも一緒。ただ、無力…… だから、そんな私が春子さんの命の選択を決められるはずがないのよ」
木下は時折、目を細めながら話すと最後に、もう一言「無力ね……」と、吐露した。
「ごめんね、明久君。また、暗い話になっちゃったね」
「いいよ。木下さんの話、聞けて良かったよ。何か、安心した」
「どうして?」
「木下さんも人なんだって……」
「そうね。患者さんの前では、常に冷静いないといけないからね。明久君たちの前でも看護師を演じているわ。だけど、最近、あなた達の笑っている姿を見ていると、私も私で笑っているわ。だから、木下としてはあなた達には絶対に生きてほしい」
「木下さんそれは、わがままだよ。だって、僕の余命は残り……」
「そんなの関係ない! 明久君、あなたは生きるのよ!」
木下さんはわがままだ。だけど、看護師の木下さんもわがまま。いつも、「僕に生きろ」って言う。他の看護師が言わなくなっても、木下さんだけは僕に「生きろ」って言い続けた。言い続けられた僕は今日、初めて木下に「—― はい」と返事をした。