謝罪
バタンッ!!
外開きのドアが大きな音を立てて開いた。
「ひっ!」
驚いておかしな声が出てしまい、とっさに手で口をふさぐ。そして恐る恐る前方を見た。
そこに立っていたのは、背の高い茶髪の青年だった。息が荒く、これでもかというほどにルミナスを、いや、ルミナスの向こうの存在を睨みつけていた。
「……レントールお兄様」
いつも冷静沈着な兄がひどく怒っているようだということが目に見えて分かり、ルミナスは目を瞠った。何をそんなに怒っているのだろうか。
その場に縫い付けられたかのように動かないルミナスにイライラしたのか、青年はぐいっとルミナスを押しのけて部屋の中に入る。
衝撃によろめきながらもなんとかその場に踏みとどまったルミナスは、半ば呆然と兄の姿を見つめていた。
青年はツカツカと父の机に歩み寄り、ルミナスと同じ、翡翠をはめ込んだような瞳で父を見据えた。
「父上、ルミナスをじょ……メテルヤード公爵のもとへ嫁がせるというのは本当ですか」
「ああ」
父の答えに、兄は顔をゆがませて反論した。
「なぜです?!ルミナスの不運が公爵の身に危険を及ぼしでもしたら、ハーリントンの名は地に落ちることになるかもしれないのですよ?!」
兄がそんなふうに声を荒げるところを今までで見たことがなかったルミナスは、唖然として目を瞬かせた。
(どういうこと……?)
記憶の中にある兄はいつだって無表情で、表情を変える時といえば自分を憎たらしそうに見つめる時だけだったのに、今の兄はまるで別人のように激昂していた。
その反論がハーリントン家のためっであってルミナスを守るどころかけなしているだけなのだとしても、どうにも信じられなかった。こんな兄の姿、見たことがない。
「落ち着け。メテルヤード公爵もそれは重々承知の上で求婚してくださったのだ。無下に断るわけにもいくまい。それに、彼の力は強大だ。『呪われ姫』の呪いなど何でもないとおっしゃっていたのだし、大丈夫だろう」
「……楽天的すぎます」
言いながら公爵の実績を思い出したのだろう。一応の反論はしたものの、その言葉には先ほどのような覇気はなかった。
メテルヤード公爵の実績は国内だけにとどまらない。特に治安の悪い国々からの幽霊退治の依頼は多くあり、国内での仕事の量と同じくらい依頼が来るのだ。時には、この世界に住まう『妖魔』の退治を依頼されることもある。
幽霊や妖怪たちが負の感情に飲み込まれ、別の存在になってしまうことは珍しくない。その場合はもう幽霊などとは呼ばず、『妖魔』という別の生物として扱われる。
その生物たちを浄化して元の存在に戻すことも浄霊屋の仕事だが、何しろ普通の霊たちよりも数段強い。普通の霊でさえ手こずることがあるというのに、妖魔退治ともなれば無傷で帰れることはまず難しい。あまり優秀でない浄霊屋なら死んでしまうほどの重責なのだ。
しかし、メテルヤード公爵の力はその『妖魔』をも凌駕する。
彼は今まで妖魔退治を何十件と引き受けてきたが、骨折などの大けがを負ったことが一度もないのだ。もちろん怪我をしないわけではないだろうが、その全てが軽傷であり、重賞に至ったことは一度もないという。
「では、万が一ルミナスの呪いが公爵を傷つけたらどうなさるのです?可能性がないとは言い切れないでしょう」
苦々しげなその言葉を聞くなり、父は嘲るような笑みを口元に浮かべた。
「簡単だ。『呪われ姫』は呪いのせいで死んだ、ということにする」
ぞわり、と強烈な悪寒が体の中を駆け巡った。ひどく冷たい手で喉元を押さえつけられたかのように、息ができなくなる。
それは、完璧なる脅しだった。つまり父は、メテルヤード公爵とうまくやれなければルミナスを殺す、と言っているのだ。
もし殺されないにしても、世間にはルミナスは死んだこととなるのだろう。
そうなった時自分がどうなっているのか、ルミナスは考えることをやめた。
(お父様……そこまで私を?)
最早嫌いというより殺したいくらい憎いという部類に自分が入っているということを、ルミナスは理解してしまった。
見れば、兄であるレントールも父の血も涙もない決断に絶句しているようだった。
掠れた声が響く。
「父上、それは、あまりにも……」
「何を言う。メテルヤード公爵と結婚すればそれもこれもすべて収まるところに収まるのだからそれでいいだろう」
兄はその言葉にぐっと唇をかみしめると、打って変わってはきはきとした声で言った。
「分かりました。では、ルミナスと少し話をしてきます」
「手短にな。準備もさせなければならない」
「はい、分かっています」
彼はくるりと踵を返すと、「来い」とこちらを見て一言つぶやいた。そのままドアに歩み寄り、ドアノブを回す。
「何をつっ立っているんだ。早く来い」
顎をしゃくられてハッとしながら、ルミナスは早足でドアに辿り着いた。
と、背後から声がした。
「勝手に帰ってきたらお前の存在はその場で消えることになるからな。よく肝に銘じておけ」
「……はい」
小さくそう呟くのがやっとだった。
(どう、したらいいのかしら……)
本だらけの部屋の中で、その部屋の主であるルミナスは困惑していた。
兄は部屋に入ってから一度も喋っていない。どころか、窓のほうを向いてばかりで、ドアの近くに立っているルミナスのことは見ようとしないのだ。
「あの、お兄様……?」
しびれを切らしたルミナスは、意を決してレントールに話しかけた。そろそろ沈黙が耳に痛い。
「何か、お話があるのでは……?」
おずおずとそう話しかけた瞬間、彼がこちらを振り向いた。
(え……?)
その様子に、しばしルミナスは固まってしまった。
瞳からはいつもの鋭さが消えて、代わりに顔に悲しげな微笑を浮かべている。その姿は、あの時以前の彼のようだった。
ゆっくりと、彼の口が動いた。
「すまなかった」
そう言って、彼は頭を下げた。
一瞬呆然としてしまったルミナスは、慌てて彼に駆け寄る。
「か、顔を上げてくださいお兄様!い、一体、どうしてーーーーーーーー」
兄はあの時から自分を許していないはずだ。なのに、何故。
(お兄様は、私があんなことをしてしまったから、私を恨んでいたはずではなかったの?)
何が起きているのかわからず困惑しているルミナスに、レントールは優しく微笑んだ。
「お前は『母親殺し』ではない」
びくり、とルミナスは肩を揺らした。
そんなルミナスに構わず、さらにレントールは続ける。
「確かに一時はお前を恨んだこともあった。けれど今はそんなことは思っていない。お前は何も悪くない」
今までの常識が覆されるような感覚。
「じゃあ、どうして今まで……」
なぜあんな冷たい態度をとっていたのか、と問うと、彼は再び「すまなかった」と答えた。
「俺たちの義母も、父上ですらも、お前を嫌っていた。特に父上は、十年前のことを今でも恨んでいらっしゃる。だから俺がお前を気に掛ければ気に掛けるほど、それに比例してお前への嫌がらせもひどくなるんだ。お前は覚えていないかもしれないが、父は幽霊を成敗すると称してお前を殺そうとしたこともあるんだ」
ドクリ、と心臓を鷲掴みにされたような気がした。
「だから結婚相手くらいは何とかしようと思っていたのだが、まさかそれすらも父の思うままにされるとは……本当にすまない」
「お兄様のせいではありません。それに、メテルヤード公爵なら私の呪いを解いてくれるかもしれないのですし」
一縷の望みを持って、微笑む。
「だから、そんなに謝らないでください」
「ルミナス……」
ルミナスの覚悟を感じ取ったのか、レントールはそれ以上何も言わずに、口を引き結んだ。
「……幸せに、なれ」
「はい」
二人の間に、それ以上の会話はなかった。
いつの間にか兄はいなくなっていて、窓から吹く風がルミナスの黒髪を揺らす。
メテルヤード公爵が悪魔と呼ばれる不遜な青年なのだということは知っていた。
けれど、仕方がないのだ。断ったら、少なくとも世間からは死んだ存在というふうに見られることになるのだから。
……それでも。
「普通に、ただ普通に、暮らしたかったーーーーーーーー」
はらり、と涙が落ちた。