第三十四話
イノシシが、ずしん、ずしんと森の中を歩いていた。
そのたびに足元の土がわずかに沈み、周囲の枝葉が震える。近くまで来ると、分厚い鼻先がふごふごと動き、空気中の匂いを探るように上下した。
木の陰に隠れるように立つ俺たちの間には、息をするのもためらうような緊張が流れている。
背中を、冷や汗が伝った。
でっかーー!
声に出さなかっただけ、俺はかなり偉いと思う。
ふごっ、と鼻を鳴らす音すら、ずいぶん大きく響いた。
隣にいる御影さんは、イノシシを見たあと、すぐに周囲へも目を走らせた。
「……天斗くん。周囲に、ほかの大型個体の気配は?」
低く抑えた声で問われ、俺は喉の奥で息を止め、耳へ意識を集中する。
森の音が、一気に広がった。
葉の擦れる音。小鳥の羽音。土の上を小さな何かが走る音。遠くで枝が揺れる音。その中から、大きな気配だけを探る。
目の前のイノシシの気配は、あまりにも強い。
重くて、熱くて、押しつぶすみたいな圧がある。
それに引っ張られないよう、意識を周囲へ広げた。右、左、後ろ。少し遠くの森。その先の石畳の道。
けれど、同じくらい大きな気配はない。
「……コイツだけです」
声を潜めてそう返すと、御影さんの目がもう一度周囲を走った。
そして、こちらを見る。
「倒しましょう」
静かな言葉だった。その分だけ、余計に重く聞こえた。
静かに返ってきた言葉に、俺は一瞬、意味がわからなかった。
「はっ!?」
思わず返事が裏返る。
ぐりん、と勢いよく御影さんに目をやった。後ろでは凪が息を呑む音が聞こえる。無理もない。目の前にいるのは、どう見ても普通の獣じゃない。こっちに気づいていない今でさえ、鼻息ひとつで木の葉が揺れるような相手だ。
「いや、でも、牙とか歯とかすごいよ! 虫よりも圧倒的に強そうだけど!?」
声を抑えたつもりだったが、かなり焦りが混じった。
それでも御影さんは、まるで最初からその反応を予想していたみたいに冷静だった。薄い色の目が、静かにこちらへ向く。
「こっちの巨大化した個体にも、反発石があるかを確認しなければいけません。なかった場合、私たちが用意した安全装置が使えない可能性があります。または、このサイズがこの島での標準と考える必要があります」
その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
このサイズが標準。
考えたくねー。
巨大ニワトリだけでも十分すぎるほど嫌だったのに、この島では車より大きいイノシシが普通に歩いているのかもしれない。しかも、もし体内に反発石がなかったら、船の周りに設置した安全装置がどこまで役に立つかわからない。
つまり、今ここで確認しなければいけない。
怖いとか、嫌だとか、そういう話ではなかった。
俺がそんなことを考えている間にも、御影さんは手にしていた銃をホルスターへ戻した。そして腰に下げていた、長大な包丁のような片刃の剣をすらりと抜く。
鈍い光が、森の薄暗がりの中で静かに走った。その姿を見た瞬間、あの時の光景が浮かぶ。
島に来た敵を相手に、ためらいなく前へ出た御影さんの背中。重い一撃を受け流しながら、それでもこちらを守るように立っていた姿。
この人は、戦うと決めたら迷わない。だったら俺も、ここで固まっている場合じゃない。
腹の奥で、恐怖とは別の熱が灯った。
俺は斧を構え、左手の指輪を親指でぱちりと擦った。
小さな刃が指先をかすめる。
「っ……」
鋭い痛みと一緒に、赤い血がぷくりと浮いた。その血を、斧の刃へぐっと塗りつける。
次の瞬間、血が赤い線になって刃の上を走った。
鈍く光っていた斧の輪郭が、ネオンみたいな赤で縁取られる。刃に埋め込まれた反発石が低く唸り、足元の落ち葉がふわりと浮いた。俺の髪と服の裾も、風なんてないのに一瞬持ち上がる。
赤黒い圧が、斧から腕へ這い上がった。
手首、肘、肩、背中。
ぞわりと全身を撫でるように広がったそれは、すぐに斧へ戻り、刃の輪郭へ吸い込まれていく。
ずしり、と手の中の斧が重さを増した。
初めて血装した時と同じ、あの変な感覚が全身に走る。
御影さんへ目をやると、ちょうどこちらを見ていた。
どちらからともなく、一つ頷く。
「いきますよ」
御影さんが木陰から飛び出した。
長い包丁のような剣を低く構え、巨大なイノシシへ向かって一直線に走る。その気配に気づいたのか、イノシシの分厚い鼻先がぐりんとこちらへ向いた。
次の瞬間、巨体が動く。
地面を抉るように踏み込み、イノシシは御影さんへ向かって突進した。
速い。
あの大きさからは考えられない速度だった。
御影さんはぎりぎりまで引きつけてから、ひらりと横へ身をかわす。だが、イノシシの勢いは止まらない。そのまま俺たちが隠れていた横の木に突っ込み、数本の幹がまとめてへし折れた。
バキバキバキッ、と乾いた音が森に響く。
太い木が傾き、枝葉が降ってくる。
「すっげーパワー……」
思わず目を見開いた。
あんなの、まともに食らったら一発で終わる。
その瞬間、前方から御影さんの声が飛んだ。
「後ろ、狙ってください!」
はっとして、俺は地面を蹴った。
イノシシの背後へ回り込むように踏み出し、血装した斧を振り上げる。重い。けれど、振れない重さじゃない。むしろ、斧の方が落ちる場所を知っているみたいに、腕が自然と動いた。
「っらぁ!」
俺はイノシシの後ろ脚めがけて斧を振るう。
だが、振り下ろす直前、イノシシがこちらを振り向いた。
でかい目が、俺を捉え、素早く身を翻したかと思うと、長い牙が、斧の刃にぶつかった。
ガキンッ!
金属と牙がぶつかる硬い音が響き、腕に信じられない衝撃が走る。
「ぐっ……!」
踏ん張った足が石畳の上を滑った。
血装した斧ごと、俺の身体が弾き飛ばされる。背中から地面へ転がりそうになり、慌てて片足をついて踏みとどまった。
重い。
虫とは全く違う。こいつは、ただ硬いだけじゃない。
頬を汗が伝うが、拭う余裕なんてなかった。イノシシは俺をめがけて踏み込もうと足に力を入れる。その隙に、御影さんが低く身を沈めた。
イノシシの視線が俺に向いた一瞬を逃さず、巨体の下へ滑り込む。地面すれすれを走るような動きだった。泥に汚れた剛毛の下で、長い包丁のような剣が鈍く光る。
御影さんは、そのまま首元を狙って、下から上へ剣を走らせた。
「……硬い」
低く漏れた声が聞こえた。
剣は確かに入った。けれど、虫を相手にした時とは違う。硬い外殻を割るのではなく、分厚い毛皮と脂肪と肉が刃を受け止めている。致命傷まで届いていないのが、見ている俺にもわかった。
それでも、ぶしゅっ、と血飛沫が上がる。
「ぶぎゅぅぅぅ――!!」
巨大なイノシシの鋭い悲鳴が、森の中に響き渡った。
鳥の声が一瞬止まる。
イノシシは頭を大きく振り、首から血を撒き散らしながら、御影さんを振り払うように暴れた。地団太のようなその動きに、周囲の木々がまたもなぎ倒されていく。次の瞬間、その巨体がこちらへ向き直るのではなく、森の奥へ逃げるように駆け出す。
「させるかよ!」
反射的に体が動く。
イノシシの進む先へ回り込み、斧を振り上げる。足元の石畳が割れかけていて踏み込みづらい。それでも、逃がしたらまずいという感覚だけで身体が前へ出た。
走ってくるイノシシの動線に合わせ、俺は斧を振り下ろす。
けれど、その瞬間。
イノシシは前足を地面へめり込ませるようにして急停止した。
巨体が沈む。土と落ち葉が跳ねる。
あの大きさで止まれるはずがないと思ったのに、イノシシはそのまま横へ弾けるように方向を変えた。まるでステップを踏むみたいな、獣らしい鋭い動きだった。
斧が空を切る。
「っ、マジかよ!」
虫なら、あのまま突っ込んでくる。
曲がるとしても、もっと直線的だ。
けれどこいつは違う。体が大きいくせに、足が生きている。土を踏み、重心を落とし、こっちの攻撃を見てから逃げ道を変えてくる。
御影さんがすぐに駆けた。
イノシシの背へ向かって剣を振り下ろす。だが、察知したのか、イノシシの後ろ足が跳ね上がった。
丸太みたいな脚が、後ろへ向かって蹴り出される。
御影さんは紙一重で身をかわした。蹴りが掠めた先の木が、ばきりと折れて飛んでいく。
御影さんはすぐに体勢を立て直し、再度剣を繰り出そうとした。けれど、その時にはもう、イノシシは加速していた。
血を流しながら、それでも森の奥へ向かって突っ走っていく。
「あー! くそっ!」
思わず声が出た。
狙えない。
虫の動きと違いすぎる。
駆け出すイノシシの背中が、木々の間へ逃げ込もうとする。あの巨体がこのまま森の奥へ消えたら、追うのはかなり厳しい。血の跡は残るだろうが、他の生き物を呼び寄せる可能性だってある。
逃げられる。
そう思った瞬間だった。
ぼっ、と空気を押し潰すような音がした。
凄まじい圧を放ちながら、俺の横を何かが通り過ぎる。反射的に肩をすくめた次の瞬間、それはイノシシの進行方向へ一直線に飛んでいった。
槍だ。
凪の大身槍だった。
飛んでいく槍の柄には、赤い光が絡みついていた。血が細い線になって、槍の穂先から柄までをなぞっている。ネオンみたいに淡く光るその赤は、穂先の輪郭を鋭く縁取り、周囲の空気をわずかに歪ませていた。
血装。
凪も、いつの間にか血装していたのだ。
さっきまで不安そうに槍を握りしめていた手で、あいつは自分の血を槍に塗り、イノシシの動きを見ていた。
槍は、ステップを踏むように方向を変えたイノシシの動きを、最初から読んでいたみたい真っすぐと飛ぶ。
肉を裂く音がした。
槍はそのまま、真っ直ぐに巨体を貫いた。
「ぶぎゅぁぁぁぁ――!」
悲痛な声が森に響く。
それでも槍の勢いは止まらない。イノシシの身体を貫いた先で、後ろにあった岩へ突き刺さり、岩肌にひびを走らせた。乾いた破砕音が響き、砕けた石が地面へ散らばる。
巨大なイノシシの足がもつれた。
何歩か進もうとして、膝が崩れる。分厚い体が横倒しになり、どくどくと血が石畳と土の間へ広がっていく。
森が、静かになった。
さっきまで遠くで鳴いていた鳥の声も聞こえない。
俺は荒い息を吐きながら、思わず御影さんと目を見合わせた。御影さんも、ほんのわずかに目を見開いている。
それから、俺たちは同時に後ろを振り返った。
そこに、凪が立っていた。
大きな手をまだ前へ伸ばしたまま、肩で小さく息をしている。親指の先からは赤い血がにじみ、その血が細い光の筋になって、イノシシを貫いた槍の気配と繋がっているように見えた。
さっきまで不安そうに槍を握りしめていた姿とは、違って見えた。
目が合う。
凪は一瞬だけきょとんとして、それから、へにゃりと笑った。
「良かった。無事に当たって」
いつもの、気の抜けるような声だった。
けれど、その声を聞いた瞬間、俺はようやく息を吐けた。
凪が来てくれてよかった。
さっき俺が言った言葉は、慰めなんかじゃなかったのだと、倒れた巨大なイノシシを見ながら思った。




