第一話
土は、まだ朝の湿り気を残していて、指を差し込めばすっと沈む。
しゃがみ込み、雑草を抜きながら、神代天斗は顔をしかめた。
「あーー! 腰痛ぇ!」
ぐっと背中を反らすと、ごき、ごき、と骨が鳴った。
見上げた空は、やけに青い。
雲の合間、遥か遠くにぽっかりと浮かぶ別島々島が見える。
手を開けば掴めそうなのに、決して渡る術のない遠い遠い世界。
伸ばしていた手を下ろし、太陽に照らされた畑を見回した。
日照国の朝は早く、空が白み始めた頃には、畑に人影があるのが当たり前だった。
学校へ行く前に働くなんて、別に珍しいことじゃない。
天斗もその一人だ。
今日から高校初日だというのに、やっていることは昨日までと大して変わらない。
変わったのは――髪くらいだ。
土で汚れた手で前髪をかき上げる。朝日を受けて、金に染めた髪がきらりと光った。
「……自分で染めたにしては、いい感じに染まったな~」
誰に言うでもなく呟いた。その時だった。
――ず。
低い音が地面の奥から這い上がってきて、眉をしかめる。
畑の一角に視線を落とすと、土が、不自然に盛り上がっていた。
ゆっくりと。だが確実に。
こちらへ向かって動いている。
「……来たか」
短く呟く。
立ち上がる動きに迷いはない。
トラックへ駆けより、荷台に手をかけて杭を掴む。
もう片方の手で、使い込まれた斧を引き抜いた。
感触を確かめるように、ぐっと握る。
手に馴染む重さ。汗ばんだ掌に、木の感触が食い込む。
土の膨らみは、もうすぐそこまで来ていた。
「せっかく雑草抜き終わったんだ」
駆け出し、一直線に距離を詰めていく。靴裏が土を蹴り、湿った土塊が後ろへ弾け飛んだ。
そのまま大きく跳び上がり、空中で腕を振り上げる。
地面の下では、巨大な何かがぐねりとうねっていた。
次の瞬間。
「荒らされてたまるかよっ!!」
手にしていた杭を渾身の力で投げる。
杭は一直線に飛び、盛り上がった土へ突き刺さった。
瞬間、地面が弾ける。
ぎゃぁぁぁああああ――!
大きな鳴き声をあげながら、 土の中から現れたのは、全長五メートルはある巨大ムカデだった。
ムカデの動きがほんの一瞬だけ、止まった。
その隙を逃さない。斧を握り直し、地面を蹴る。
まだ終わっていない。
今は動きを止めただけだ。ムカデの口が開き、地面に縫い止められたまま、牙だけがこちらを向いた。
「しつこいな」
思わず眉を下げ笑う。
その表情は怖がっているものではない。心底面倒だと感じている表情だった。
足元の土が崩れ、ムカデが最後の力で身をよじり杭ごと地面を割ろうとしていた。
このままだと畑がやられる。
それだけは、困る。
「だからさ」
一歩、前へ出る。
暴れる尾が横から迫るが、俺は目を逸らさなかった。
「せっかく終わったって言っただろ!」
尾が届く直前、低く身体を沈める。頭上を風が唸り、金の髪がばさりと揺れた。
そのまま踏み込み、斧を短く持ち直す。狙うのは、さっき杭が刺さった首元だ。
その首をめがけて、斧を振り下ろす。
ムカデが甲高く鳴いた。牙が土を噛み、巨体が大きく跳ねる。腕へ鈍い振動が伝わってきたが、さらに力を込めた。
足が土へ沈む。それでも止めない。
「――落ちろ」
斧を押し込む。
刃が外殻を割り、肉を断ち、その奥へ食い込んでいく。
次の瞬間、ぶしゅう――! と血が噴き出した。
首が完全に割れる。巨体がぐらりと傾き、ずずん、と地面へ倒れ込んだ。
畑が揺れ、土ぼこりが舞う。尾が二度、三度と痙攣し、それきり動かなくなった。
斧を引き抜き、ふう、と息を吐く。ふと見ると、作業着には派手に青い血が飛んでいた。
(最悪だ。母さんに怒られる)
そう思いながら汚れた服を見ていると、腕につけた時計が目に入る。
「あーっ!ヤバい!もう時間なのに!」
そう叫べば、
「天斗っ! あんた、そろそろ学校じゃないの!? 今日初日でしょ!」
隣の畑から、母の声が飛んできた。
俺は血のついた頬を手の甲で拭い、倒れたムカデを見下ろす。首は割れているし、尾も動かない。きっちり仕留めた。
(大丈夫だな)
問題は、服がかなりひどいことくらいだ。
「わかってる! もう行くー! ムカデ出たし、焼却課に電話しといてー!」
「あら、さっきの音ムカデなのね? ……って、何よアンタその頭! 染めたの!?」
「どう? 似合うだろ?」
「何よ。高校デビュー? ほとんどの子が中学からの持ち上がりなのに?」
「いいだろ! 気分だよ気分! 俺、着替えたら行くから! あとよろしくな!」
言い終わる前に、家へ走り出していた。背中の向こうで、母が呆れたようにため息をつく。
それでも電話機を取り出すあたり、手際はいい。
たぶんもう焼却課へ連絡しているのだろう。畑に巨大ムカデが出たくらいでは、神代家の朝は止まらない。
シャワーの水音が、ばしゃばしゃと雑に響く。
「天兄ー! もう十一時だよー!」
扉の向こうから、妹の実里の声がした。
「やっべ!」
俺は即座に水を止め、風呂場から飛び出す。
パンツ姿のまま自分の部屋へと駆けていき、髪を拭くのもそこそこに、真新しい制服を引っ張りだし袖を通した。
ボタンは適当。襟も少し曲がっている。だが、遅刻しなければ勝ちだ。
その足元で、小さな影が動いた。
見下ろすと、実里がこちらを見上げていた。五歳の妹は、朝から全力で目を輝かせている。
「どうした?かわいい顔して」
「天兄……髪の毛、キラキラ。似合ってる!」
可愛い可愛い妹に、褒められたら仕方ない。
俺は鼻の下をこすり、胸を張った。
「だろっ?」
「高校でモテモテになっちゃうねー」
「マジかー!でも、もしモテたとしても、実里が一番だよー!」
抱きしめ、モチモチの頬へと自分の頬を寄せると、実里はきゃっきゃと笑いながら天斗の胸を押し返した。
照れている。間違いない。
「ちょっと! 天斗! 何してるの!? 本当に初日から遅れるわよ!」
「やっべ! 行ってくる!」
実里を抱えたまま玄関に走り、母親へと受け渡す。
「いってらっしゃーい!」
「いってきます!!」
手を振る実里に、俺も大きく手を振り返す。
家の前に立てかけていたボードを掴み、地面へ放るも、板は落ちない。地面から三十センチほどの高さで、ぴたりと止まった。
反発鉱石入りのフロートボードだ。
その上へ飛び乗り、足元のスイッチを踏む。後方のファンが回り、風が巻いた。
「間に合うかな」
呟いて、すぐに笑う。
「間に合うな」
もう一段、スイッチを踏み込む。
ゴウッ、とファンが唸った。
敷地の入口にひっそりと佇む、朱色の剥げかけた古い石の鳥居をくぐり抜け、ボードは一気に加速する。
畑も家も、青い空も、視界の端へ流れていく。
あっという間に、天斗の姿は遠くなった。
その背中を見送りながら、母は片手を腰に当てる。
「あの子、ボード改造したわね。よくあの速度で平然と乗ってられるわ。全く・・・入学早々、先生にばれなきゃいいけど・・・」
「お兄ちゃん、はやーい!」
母の憂いをよそに、実里の声が、のどかに響く。
畑の向こうで、倒れたムカデが朝日に照らされていた。
巨大ムカデの返り血と共に始まった、神代天斗の高校生活。
――その日。
空の向こうに、“見たことのない影”が現れた。




