第一章「臨海学校だ! おっしゃー、泳ぐぞー!」
『イジメられっ子の僕がオタサーの姫になっちゃった?』第三作目です。
今回の舞台は夏。
直人たちは、臨海学校で海へ向かいます。
新しい登場人物も加わり、また少し違った直人たちの物語が始まります。
それでは、第三作目もよろしくお願いします!
慎太郎と水族館へ行った、あの日から二か月が経った。
あの時のことを思い出すと、今でも少し胸の奥がきゅっとなる。
クラゲの水槽の前で、慎太郎くんが僕に顔を近づけてきたこと。
僕が、それを受け入れようとして。
でも、どうしてもできなくて。
泣いてしまったこと。
僕の名前は中村直人。高校二年生だ。
四ヶ月前、原因も分からないまま突然女の子になってしまった。
そのせいで、クラスでは男子から騒がれ、女子グループのリーダーだった藤原彩香とぶつかり、唯一の親友だった慎太郎とは水族館で少しだけ複雑な空気になった。
……本当に、いろいろあった。
あれから慎太郎は、何かを急かすようなことはしなくなった。
学校で会えば普通に話すし、部活の帰りに一緒に駅前の本屋や同人ショップへ寄ることもある。
たぶん、前と同じだ。
少なくとも、僕はそう思っている。
けれど、時々。
慎太郎が僕を見て、何か言いかけてやめることがある。
それが少しだけ気になっていた。
でも、今日はそんなことを考えている場合じゃない。
「あっ、お姉ちゃん。僕、今日から臨海学校だから」
玄関の前に大きなバッグを置きながら言うと、リビングから姉の美和が顔を出した。
「ああ、今日からだっけ」
「うん。二泊三日」
「いいじゃん。青春じゃん。楽しんできなよ」
美和はマグカップを片手に、にやにやしながら僕を見る。
「慎太郎くんも行くの?」
「慎太郎? 学年行事だから行くと思うよ」
「ふーん」
「なに?」
「別にー?」
それだけ言うと、リビングへ引っ込んでいった。
絶対に何か考えている顔だった。
けれど追及すると面倒なことになるので、僕はバッグの肩紐を持ち直した。
「あ、そうだ」
美和が思い出したように、顔も出さずに言う。
「直人、水着は?」
「昨日、駅前で買ってきたよ」
「なら大丈夫ね」
「うん」
僕は自信満々にうなずいた。
水着も買った。
タオルも入れた。
ゴーグルも入れた。
準備は完璧だ。
「じゃあ行ってきます!」
「はいはい。気をつけてね」
僕は玄関を出た。
夏の朝の空気は、もうすでに少し暑い。
でも、今日はそれすら気持ちよかった。
海。
臨海学校。
二泊三日。
正直に言うと、かなり楽しみだった。
「おっしゃー……泳ぐぞー……!」
小さく拳を握って、僕は駅前を通って学校へ向かった。
◇
学校の前には、貸切バスが何台も並んでいた。
いつもの校門前が、少しだけ旅行会社の駐車場みたいになっている。
生徒たちは大きなバッグを持って、あちこちで友達同士集まっていた。
「一台目、後ろから詰めて乗れー!」
「入口で止まるなよー!」
「友達を待たない! 乗ったら奥へ行け!」
先生たちが声を張り上げている。
クラスごとにきっちり乗るというより、来た人から順番に空いているバスへ乗っていくようだった。
僕もバッグを持って列に並ぶ。
すると少し前に、見慣れた後ろ姿を見つけた。
「あ、彩香!」
声をかけると、藤原彩香が振り返った。
今日も当然のようにきれいだった。
長い髪を軽くまとめ、涼しげな私服姿で立っている。
周りには同じクラスの女子たちが何人かいて、いつものように自然と中心にいた。
「おはよ、直人」
「おはよう」
彩香は僕のバッグを見る。
「荷物、多くない?」
「そうかな」
「泳ぐ気満々って感じね」
「うん!」
僕が即答すると、彩香は少し目を細めた。
「……まあ、直人だしね」
「えっ、なにそれ?」
「褒めてるのよ?」
「本当?」
「半分くらいはね」
半分なのか。
僕たちはそのままバスへ乗り込んだ。
車内はすでに半分くらい埋まっている。
前の方では女子たちが楽しそうに話していて、後ろの方では男子たちが騒いでいた。
座席を探していると、少し奥の席から声がした。
「おっ、直人!」
慎太郎だった。
僕の隣のクラスの佐藤慎太郎くん。
僕が男だった頃からの親友で、文研で知り合って一番仲がよく、いつも一緒にいた相手だ。
慎太郎は二人掛けの通路側に座っていた。
窓際には、見覚えのない女の子が座っている。
「あ、慎太郎!」
そちらへ行く。
「後ろ、空いてるの?」
「ああ、まだ誰も座ってないぞ」
「そういえば、酔い止め持ってない?」
「お前また忘れたのか」
「昨日、水着買ってたら忘れた」
「どういう言い訳だよ」
慎太郎くんは呆れた顔をしながらも、鞄をごそごそ探してくれた。
相変わらず優しい。
「あれ?」
僕は窓際の女の子を見る。
「慎太郎のクラスの人?」
「ああ。結城さん」
慎太郎が紹介してくれる。
「結城さん。こいつ、隣のクラスの中村直人」
「あっ、はじめまして」
僕は軽く頭を下げた。
「中村直人です」
女の子はなぜか、少し驚いた面持ちで僕の顔をじっと見ていた。
黒髪のボブカット。
少し幼く見える顔立ちで、白いブラウスに淡い色のスカートを穿いている。
大人しそうな子だった。
「……中村、直人さん?」
「うん」
「えっ、本当に?」
「え?」
「本当に……中村直人さん?」
「そうだけど」
なぜか二回確認された。
僕が首をかしげると、結城さんは少し声を落として言った。
「あの……女の子になったっていう……?」
「ああ、うん」
僕はうなずく。
「そうだよ」
「本当にいたんだ……」
「いるよ!?」
思わずツッコんでしまった。
慎太郎が横で思わず吹き出す。
「春頃、うちらのクラスでも噂になってたぞ」
「えっ、そうなの?」
「そりゃなるだろ」
まあ、確かに。
ある朝突然、男子だったはずの生徒が女の子になって登校してきたら、普通は噂になる。
僕のクラスでは、あの日、本当に大騒ぎだった。
でも隣のクラスでは、どんな風に伝わっていたんだろう。
気になる。
「直人、後ろ詰まってるよ」
後ろから彩香の声がした。
「あ、ごめん」
僕が横へ避けると、彩香たち女子グループも近くの席へ移動してきた。
その瞬間、結城さんがまた固まった。
今度は僕ではなく、彩香を見ている。
「あれ?」
僕は結城さんを見る。
「藤原さんのこと知ってるの?」
「えっ」
結城さんは少し慌てた。
「知ってるっていうか……有名だから」
「彩香って隣のクラスでも有名なの?」
「そりゃそうでしょ」
彩香が当然のように言った。
「そうなんだ」
「なんで直人が驚くのよ」
「いや、彩香ってすごいんだなって」
「今さら?」
彩香はため息をついた。
僕からすると、今では普通に話す友達だけど……いや、あの事件の前は、確かにクラスの女子グループの中心にいる近寄りがたい人だった。
隣のクラスから見れば、今でもそうなのかもしれない。
「直人、酔い止め忘れたの?」
「うん」
「水着は買って、酔い止めは買い忘れたの?」
「うん」
「何やってんのよ」
「水着選ぶのに集中してたから」
「……ふーん」
彩香が少しだけ目を細めた。
なんだろう。
一瞬、すごく嫌な予感がした。
「はい、これ」
慎太郎が酔い止めを渡してくれる。
「ありがとう!」
「水なしで飲むなよ」
「分かってるって」
「前にラムネと間違えて飲もうとしただろ」
「あれはたまたま!」
「たまたま薬をラムネと間違えるな」
僕たちがそんな話をしていると、結城さんが不思議そうにこっちを見ていた。
「……中村さんって、佐藤くんと仲いいんだね」
「うん」
僕はすぐに答える。
「親友だから」
慎太郎くんが一瞬だけ変な顔をした。
「え?」
「親友で合ってるよね?」
「親友……」
結城さんは小さく繰り返した。
「なんか、思ってたのと違う」
「何が?」
「えっと……」
結城さんは少し困ったように視線を泳がせる。
「もっと……その……」
「もっと?」
「……何でもない」
何でもないらしい。
でも、絶対に何かある顔だった。
そういうのは、僕にも少し分かるようになってきた。
男だったときは、あまり他人の顔を見ていなかった気がする。
女の子になってから、そういう表情を読む機会が増えたかもしれない。
ただ、その意味までは分からないことが多い。
バスがゆっくりと動き出した。
◇
バスの中は、すぐに遠足みたいな空気になった。
誰かがお菓子を開ける音。
スマホで写真を撮る音。
先生の「菓子を食べるなとは言わないけど、ゴミはちゃんと持ち帰れよー」という声。
窓の外の景色が、学校の周りの住宅街から大きな道路へ変わっていく。
僕は慎太郎の席の背もたれに腕を乗せて、後ろから話しかけた。
「慎太郎、それ何味?」
「チーズ」
「一個ちょうだい」
「自分のあるだろ」
「だって、そっちの方がおいしそうだし!」
「じゃあ最初から買えよ」
「ケチ」
「お前なあ……」
慎太郎くんはそう言いながらも、一つくれた。
「ありがとう!」
「酔い止め飲んだんだから、食べ過ぎるなよ」
「大丈夫だよ」
「絶対あとで気持ち悪くなるやつだろ」
「ならないって」
僕がそう言うと、横から彩香が口を挟んだ。
「直人、あんた一回言われたことは聞きなさい」
「ええ……」
「慎太郎の方が正しい」
「彩香まで」
みんなして僕を子供扱いしてくる。
すると、結城さんが少しだけ笑った。
「あ」
僕は思わず言った。
「今笑った」
「えっ?」
結城さんはすぐに真顔に戻る。
「笑ってないです」
「笑ってたよね?」
「笑ってないです」
「慎太郎、笑ってたよね?」
「笑ってた」
「佐藤くん!?」
結城さんがちょっとだけ慌てる。
それを見て、僕も笑ってしまった。
なんだ。
大人しそうだけど、ちゃんと話せる子なんだ。
そんな風に思った。
バスはやがて高速道路に入った。
しばらくすると、トンネルが増えてきた。
車内の騒がしさにも少し慣れてきた頃、前の方の席から誰かが叫んだ。
「海だ!」
その声に、僕は反射的に窓へ顔を向けた。
建物の隙間。
遠くに、青い色が見えた。
「おおーっ!」
思わず声が出る。
「海だ!」
「見れば分かるわよ」
彩香が呆れたように言う。
「だって海だよ! ほらっ!」
「臨海学校なんだから当たり前でしょ」
「でも海だよ!」
「二回言わなくていい」
窓の外に、夏の光がきらきらしていた。
海を見るだけで、なぜか体が前のめりになる。
早く泳ぎたい!
せっかく水着も買ったんだし。
今日は本気で泳ぐ。
「直人、窓に張りつかない」
「はーい」
彩香の声で座り直す。
結城さんがまた、少し不思議そうに僕を見ていた。
「なに?」
「いえ……」
「?」
「……中村さんって、思ってたより元気なんですね」
「そうかな?」
僕は少し考える。
「海だからじゃない?」
「海だと元気になるんですか?」
「えっ、ならない?」
「……そうなんだ」
結城さんは納得したような、していないような顔をした。
◇
旅館は海岸から少し歩いたところにあった。
古いけれど清潔な建物で、玄関には「歓迎」と書かれた紙が貼られている。
僕たちは先生の指示に従って、部屋に荷物を置いた。
畳の匂い。
大きな窓。
遠くから聞こえる波の音。
セミの鳴き声。
完全に夏だった。
「集合時間までに水着に着替えて海岸前集合!」
「勝手に海へ入るなよ!」
「荷物は貴重品だけ持っていけ!」
先生の声が廊下に響く。
僕は荷物から、タオルと水着の入ったバッグを取り出した。
「よし」
「直人、はしゃぎすぎ」
同じ部屋の彩香が言う。
「だって海だよ!」
「また言ってる」
「彩香は楽しみじゃないの?」
「楽しみだけど、あんたほどじゃない」
ひどい。
こんなにいい天気で、こんなに海が近いのに。
女子たちはそれぞれ水着を持って、砂浜にほど近い更衣室へ移動した。
海の家というより、旅館が借りている団体用の更衣スペースらしい。
中ではみんながわいわい話しながら着替え始める。
「これ可愛くない?」
「ラッシュガード持ってきた?」
「日焼け止め貸してー」
女の子の準備は大変だ。
僕はバッグから、昨日買った水着を取り出した。
「よし」
黒を基調にした、シンプルな競泳水着。
店員さんに「泳ぎやすいのください」と言ったら、これを勧められた。
見た目もかっこいいし、動きやすそうだ。
完璧だと思う。
その瞬間。
更衣室の空気が、少し止まった。
「……直人?」
彩香の声がした。
「えっ、なに?」
「それ、自分で買ったの?」
「うん。昨日」
「店員さんには何て言ったの?」
「泳ぎやすいのくださいって。ほら、駅前のスポーツ用品店あるじゃん」
「スポーツ用品店?」
「うん。そうだけど」
「……ふーん」
彩香は僕の水着を見る。
それから、僕を見る。
そして、なぜか小さく笑った。
嫌な笑い方だった。
「な、なに?」
「別に」
「変?」
「変じゃないわよ」
「ならいいじゃん」
「そうね」
彩香は腕を組む。
「いいと思うわ」
なんだかすごく棒読みだった。
周りの女子たちがざわつく。
「中村さん、本当にそれ着るの?」
「うん」
「海で?」
「海で」
「競泳水着で?」
「泳ぐんだから」
何を確認されているのかよく分からない。
泳ぐために水着を着る。
水着は泳ぎやすい方がいい。
何も間違っていないはずだ。
結城さんまでもが、遠慮がちに言った。
「あの……中村さん」
「うん?」
「それで、本当に出るんですか?」
「出るよ。なんで?」
「……そうなんだ」
結城さんは困ったような顔をした。
彩香の方を見る。
「藤原さんは、止めなくていいんですか?」
「いいのよ」
「いいんですか?」
「面白そうだし」
「面白そう!?」
結城さんが驚いている。
僕も驚いた。
「彩香、何が面白そうなの?」
「何でもないわ」
「絶対何かあるでしょ」
「ないない」
彩香はニコニコしている。
すごく信用できなかった。
でも、着替えはもう始めてしまったし、今さら変える理由もない。
僕は競泳水着に着替えた。
鏡を見る。
うん。
動きやすい。
これなら本気で泳げそうだ。
軽く肩を回す。
「よし!」
その瞬間、女子たちがまたざわっとした。
「中村さん、やる気だ……」
「本当に泳ぎに来てる……」
「なんかすごい」
なぜか感心された。
◇
海岸に出ると、男子たちはすでに集まっていた。
夏の砂浜。
青い海。
白い波。
遠くに浮かぶヨットみたいなもの。
思っていたよりずっと広くて、思っていたよりずっとまぶしい。
女子たちが更衣室から歩いていくと、男子たちが少しざわついた。
「おお……」
「夏だな……」
「藤原さんすげぇ……」
彩香は当然のように視線を集めている。
まあ、それは分かる。
彩香は何を着ても似合う。
まるでモデルのようだ。
慎太郎はキョロキョロと、誰かを探すように見回していた。
「慎太郎くん、直人を探してるの?」
「えっ? あっ、うん」
すると彩香が、なぜか楽しそうに笑った。
「ほら、来たわよ」
「おっしゃー!」
両手を上げる。
「泳ぐぞー!」
その瞬間。
なぜか男子たちが固まった。
「……」
「……」
「……」
慎太郎もこっちを見たまま止まっている。
「あれ?」
そんな慎太郎を見ながら、彩香はわかっていたかのようにわざとらしく首を傾げる。
「どうしたの?」
「な……」
慎太郎は何か言おうとして、言えなかった。
顔が赤い。
「慎太郎くん?」
「直人……」
「うん」
「あれ……」
「水着」
「いや、それは分かる」
「じゃあなに?」
「……いや」
慎太郎くんは片手で顔を覆った。
「ちょっと待て」
「なんで?」
周りの男子たちも、なぜか動揺している。
「直人、マジかよ……」
「競泳……」
「いや、似合ってるけど……」
「直視していいのかこれ……?」
何を言っているんだろう。
水着なんだから、海で着るものでしょ。
女子たちは少し離れたところで、完全に呆れ顔だった。
「うわぁ……」
「やっぱりこうなった」
結城さんは、半ば呆れたような一言。
「藤原さん、分かってたでしょ」
「もちろん」
彩香は満足そうだった。
「なんで止めなかったの?」
「面白かったから」
「最低」
「褒め言葉として受け取るわ」
結城さんが、僕と彩香を交互に見ている。
「あの……中村さん」
「えっ、なに?」
「本当に、泳ぎたかっただけなんですね」
「そうだけど?」
「……そうなんだ」
なぜか少し遠い目をされた。
僕は砂を払って、海の方へ向き直る。
波打ち際が光っている。
もう我慢できない。
「慎太郎!」
「な、何?」
「沖のブイまで競争しよう!」
「今!?」
「負けた方ジュース!」
「ちょっと待て!」
「よーい、ドン!」
「待てって!」
僕は走った。
熱い砂浜を蹴って、波打ち際へ。
足に海水がかかった瞬間、思わず声が出た。
「冷たっ!」
でも気持ちいい。
そのままざぶんと海へ入る。
久しぶりに泳ぐ感覚。
水が体を包んで、音が少し遠くなる。
僕は本気でクロールを始めた。
後ろから慎太郎の声が聞こえる。
「直人! 速いって!」
「慎太郎こそ! 遅いよー!」
「お前が本気すぎるんだよ!」
すると他の男子たちも、なぜか海へ入ってきた。
「俺も行く!」
「直人に負けんな!」
「なんの勝負だよ!」
気づけば、よく分からない水泳大会になっていた。
僕は笑いながら泳ぐ。
波が少し高い。
でも、それも楽しい。
こんなに何も考えずに体を動かすのは久しぶりだった。
女の子になってから、いろいろあった。
教室で騒がれて。
彩香とぶつかって。
文研の空気も変わって。
慎太郎くんとのことも、まだよく分からない。
でも今は。
ただ、海が楽しかった。
◇
砂浜へ戻ると、慎太郎くんは肩で息をしていた。
「直人……お前……本気すぎ……」
「慎太郎、体力落ちた?」
「お前が元気すぎるんだよ」
「そうかな」
僕はタオルで顔を拭く。
彩香が近づいてきた。
「直人」
「なに?」
「準備運動、ちゃんとした?」
「したよ」
「いつ?」
「心の中で」
「してないじゃない」
怒られた。
結城さんが近くに立っていたので、僕は声をかける。
「結城さんも泳ごうよ」
「えっ」
結城さんが少し驚いた顔をする。
そういえば、さっき慎太郎くんが「結城さん」と呼んでいたけど、下の名前は何だったんだろう。
「結城さん、下の名前は?」
「結城……雫です」
「じゃあ雫ちゃんでいい?」
「あ、はい……」
「じゃあ雫ちゃん、行こうよ!」
「私は……その、あまり泳ぐの得意じゃなくて」
「そうなの?」
「はい」
「じゃあ浅いところで遊ぼうよ」
「でも……」
雫ちゃんは少し困ったように視線を下げた。
僕は不思議に思う。
せっかく海に来たのに。
そんな顔をしているのはもったいない。
「大丈夫だよ」
「え?」
「怖かったらすぐ戻ればいいし」
「……」
雫ちゃんは少しだけ迷ったあと、僕を見て言った。
「中村さんって……」
「うん?」
「変な人ですね」
「えっ!?」
いきなり言われた。
慎太郎まで横で笑う。
「今頃気づいた?」
「慎太郎!?」
彩香までうなずく。
「正解ね」
「彩香まで!?」
雫ちゃんは少しだけ口元を緩めた。
その笑顔は、さっきバスで見た時よりも少し自然だった。
僕はなんだか嬉しくなって、もう一度海の方を向いた。
「よし!」
「もう一回泳ごう!」
「まだやるのかよ!」
慎太郎が悲鳴みたいな声を上げる。
僕は笑いながら、波打ち際へ走った。
初めて会った雫ちゃんが、僕のことをどう思っているのかは分からない。
でも少なくとも。
この臨海学校は、楽しくなりそうだった。
第三作目、始まりました!
今回は夏の臨海学校からスタートです。
そして直人が選んだのは、まさかの競泳水着。
本人はただ泳ぐ気満々なだけなのですが、周りはそうはいかなかったようです。
今回も直人たちをよろしくお願いします!




