第七十二章 Ἀπολλύων
1
鄧禹は長安を制して後、長安南方の藍田において延岑と戦っていた。延岑は劉嘉に追われてこの地に流れつくと再び兵を集めて、長安に偵騎を差し向ける等の不穏な行動をしていた。これを自身に対する挑発と見なした鄧禹は、留守を張宗と僅かな兵に任せて自ら討伐に赴いた。鄧禹がこうした行動に及んだのは、略奪の旅に出た赤眉は戻ってくる公算が低いと判断したこと、各地からの書状を読んで全てが“順調”に進んでいることに気を大きくしていた事も関係している。
「残りの小物は虎牙大将軍あたりが勝手に炙りだしてくれる。しかし、延岑め!ちょこまかちょこまかと本当にウザったい奴だ」
鄧禹は小部隊に分散して奇襲攻撃を繰り返す延岑の軍に翻弄されていた。数では優っているのに、有効な打撃を加えることが出来ない。そんな折、長安からの伝令が血相を変えて飛び込んできた。
「赤眉帰還!赤眉帰還!突如帰還した赤眉が、数万の軍勢で長安を取り囲んでいます!」
2
長安では張宗が僅かな兵で絶望的な防衛戦を試みていた。赤眉は自身が鄧禹に破られた時に突破された箇所へ攻撃を集中させていた。
「やはり欲目をかかずに城壁の再生と強化を優先すべきだったのだ!」
そう憤る張宗とて、藍田を放置していたらそれはそれで鄧禹は信望を失っていただろうということは、内心では理解していた。
「報告!突門が複数ヶ所同時に破られました。市街地に赤眉侵入!」
「ぬぅ!止むおえん、住民を逃がしつつ長安を脱出する!」
赤眉の先鋒を率いるのは廖湛、更始政権から赤眉に寝返った武将である。元々率いていた部隊に誅殺された張卬等の兵も吸収して、かなりの規模の軍勢を指揮していた。
「樊崇様に認めていただくには、ここで気張らにゃなるめえよ」
廖湛は乱杭歯を覗かせて笑うと、九環刀を鳴らして市街地に兵をけしかけた。彼はかつて居住したこの長安に対しても、その住民に対しても全く容赦をすることがなかった。廖湛率いる兵は、逃げ遅れた住民を殺害しながら怒涛の勢いで宮城へ到達した。
鄧禹が藍田から長安に戻った時、かの都市は完全に赤眉の占領下に置かれていた。鄧禹は雲陽にて脱出した張宗と合流し、悔しさに震える筆で洛陽の劉秀に書状を送った。
こうして、鄧禹は一度得た長安を再び赤眉の手に帰するところとなったのである。
3
赤眉の兵達がある場所に向かって行進していく。その手には武器ではなく、土工具が握られていた。突如、この軍の前に飛び出してきた老人があった。
「馬鹿な真似はやめるんじゃ!帝の墓を荒らすなど、罰が当たるぞ!」
諸葛稚が進み出てこの老人の首を掴んで釣り上げた。
「おい、老いぼれ!あの世に行きてえなら手伝ってやろうか?」
泡をふいてばたばたと足を動かす老人を哀れんで、楊音が止めに入る。
「諸葛!やめねぇか!爺さんなんかほっといてもくたばるんだ。無闇に殺すこたぁねえよ」
諸葛稚はつまらなそうに老人を放り捨てた。老人は諸葛稚を眺めて咳き込みながら言った。
「汝ら赤眉は琅邪の出だと聞く。諸葛ということは、気骨の士と謳われたあの諸葛豊の子孫か?こんな事に加担していては、草葉の陰でご先祖様が泣いておるぞ?」
「何を言ってるんだ。このジジイは?」
楊音は混乱する諸葛稚に言う。
「この爺さんはお前のご先祖様の話を知っているんだとよ。盗掘は俺らに任せて、話を聞いていったらどうだ?」
諸葛稚は楊音の奨めに従い、この老人、劉秀の義父である劉良の話を聞くことにした。
4
樊崇が長安にはまだ略奪のあてがあると徐宣に言っていたのは、歴代皇帝の陵墓の事であった。
土工具で乱暴に墓を打毀し、内部から副葬品の金銀財宝を運び出していく。
皇帝の墓を盗掘し尽くしたら、次は歴代皇后の墓だった。
「樊崇様!み、見てください!凄いものが!」
樊崇が見せられたのは、まるで生きているかのように瑞々しい肌をした女の屍体、高祖劉邦の皇后である呂后の屍だった。死後すぐに身体中の血を抜いて水銀と入れ替えることにより、生前と同様の美しさを保つ技術が秦代から漢代にかけて存在しており、これはその賜物であった。
樊崇はしばらく呂后の屍を眺めていたが、次第にその目には怒りの光が浮かび、遂に吐き捨てるように言った。
「犯せ!」
赤眉達は当初尻込みしていたが、一人が呂后の服を剥いで劣情を果たすと、我も我もと屍体に群がっていった。
「おい、こっちの女、若いぞ!」
「うそ!焦ってオバハンに出しちまった。損したぜ!」
赤眉は歴代皇后の墓を暴いて、彼女達の屍体を汚し尽くしていく。
建世帝劉盆子をはじめ赤眉政権の皇族は、「盗掘も皇帝のお墨付きで行われている」としたい狡猾な徐宣によってこの場に連れて来られていた。
式侯の劉恭は、この悍ましい光景を見て、ただの百姓だった者達がこれ程までに凶猛になることに恐怖を感じていた。
屍体までも荒らしていくこの有り様は、新の末年にあった蝗害のようである。
ただの無害なバッタが旱を受けると変質するのだ。眼は釣り上がり、脚は鎌のようになり、真っ黒な群れをなして全てを喰らい尽くし、薙ぎ倒していく。後には何も残らない。
「ねえ、兄さん。樊のおじさん、大丈夫かな」
劉盆子が尋ねる。
「おじさん、すごい辛そうな顔してたよ」
劉恭には樊崇に対する親愛の情はないので、劉盆子の言う事は意外であり、返答出来なかった。
強い雨が降り始めた。樊崇は供の者もつけず、ひとり陵墓を後にしようとしていた。
「樊崇、どうしてあんな事を?女には優しいあんたが ……」
女水賊の遅昭平が追いすがって樊崇の腕を掴んだ。樊崇は振り向くと苦悶の表情を浮かべていた。
なぜ俺達は生きていても死んでもみじめなのに。あいつらは違う。生きていても死んでからさえも輝いている。生まれや育ちが違うだけで、そんなにも差があるのか。しかし、学のない樊崇にはこういった内心を上手く言語化出来なかった。それもまた彼の怒りや悲しみを増幅させるのだ。
樊崇は遅昭平を引き寄せて口吸いをすると、その場に押し倒した。
「ちょっと、こんな道端で……!」
乱暴に乳房を弄りながら、樊崇の目には涙が浮かんでいた。遅昭平は泥濘に手を浸すと泥のついた指で樊崇の鼻梁をなぞり、その頰に掌を当てた。
「……いいよ。一緒にどこまでも汚れてあげる」
遅昭平はゆっくり両脚を開くと樊崇の腰に絡ませた。
二人の息遣いは豪雨の中に吸い込まれていった。




