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第三十四章 光武氷河の応

 劉秀一行は吹き荒ぶ寒風に揉まれながら黙々と進んでいく。努めて喋らない、というわけではなく余りの寒さに会話をする余裕すら失われて来ているのだ。馬が蹄をおろすたびにシャクシャクと霜が砕ける音がする。耳と鼻の痛みが激しく、顔の皮膚はあかぎれのように裂けるのではないかとすら思われるほどだった。前方から物見の兵が戻ってきたが、その表情が暗いことに劉秀は気がついた。


「大変です。前方に大河あり。川幅一里あまり、河水の流れ早く、渡し船も見当たりませんでした」


「一里(五百米)であれば、泳いで渡れるのではないか……いや、馬鹿な事を申した。忘れてください」


賈復の言うように泳いで渡れば、心の臓が凍って死んでしまうだろう。二月の河の冷たさは彼のように頑丈な人間でも無事ではすまないだろうし、第一荷物を打ち捨てていくこともできない。本人も口には出したが、すぐそこに思い至ったようである。


「おそらくその河は滹沱河こだかであると思われます。もっと北に渡し船があったかと記憶していますが、敵前を横行することになりますね」


馮異の口調は落ち着いていたが、陰鬱な表情は隠し切れない。

滹沱河は、その源を山西の泰戯山たいぎさんに発し、五台山ごだいさん恒山こうざんの二霊山の間を縫って、太行たいこう山脈を貫く険しい峡谷を経て華北平原に至る大河である。


「この寒さで凍っていないなんておかしくないですか?」


王覇おうはが鼻をすすりながら言った。

彼が主張するところは、物見の兵が凍っていない河を見たのは事実としても戻ってくるまでに時間がかなりかかっているので、我々が河に到達するまでには凍っているに違いない、というものであった。

希望的観測である、という諸将の冷ややかな態度に王覇はむきになって言った。


「もう!そんなに皆が疑うならば、俺が確かめてきます。絶対凍ってるから帰りを待たずに出発してくださいね」


言うが早いか、王覇は馬に跨って駆け出してしまった。


 「こ、凍ってましたー。多分渡れると思いますぅ」


しばらくして戻ってきた王覇がそう言うと、劉秀一行は狂喜して滹沱河へと歩みを進めた。

皆が滹沱河に近づくにつれて口数が多くなるのに対し、王覇だけが無口になり、寒いのに汗までかきはじめた。

鄧禹は劉秀に馬を寄せて王覇の様子がおかしいと伝えたが、劉秀は笑って頷くだけだった。

劉秀一行が滹沱河のほとりにつくと、河の流れは止まり、水面には白いもやがかかっていた。


「これは、凍っているのか?」


劉秀がそう呟いたとき、王覇は河に向かって走りだしていた。

王覇は河に足を踏み出すと、果たして彼が水に落ちるようなことはなかった。王覇は数歩進むと腰が抜けたようにへたり込み、凍ってる、凍ってる、と呟きながら凍てついた水面を拳で叩いた。

諸将がざわついているのを見て、王覇はようやく我に返り、あからさまに狼狽えた。

諸将が疑惑の目を王覇に注ぐ中、劉秀は彼を助けおこして言った。


「君のおかげで敵に追いつかれずに済みそうだ。みんな、王覇が我らを助けようと“敢えて”偽ってくれたのは、ほとんど天瑞てんずいである」


劉秀が鄧禹に目配せすると、鄧禹がやれやれとでも言いたげな顔をしながらもバチバチと大きく音を立てて拍手をした。諸将はこれにつられて一斉に拍手をしだした。王覇は半泣きになっている。


「……河が凍ったことこそが天の助けです。“武王白魚の応”もこれには及びません」


劉秀一行が凍った河を渡っているとき、臧宮ぞうきゅう銚期ちょうきに馬を寄せて話しかけた。


「“ぶおうはくぎょのおう”ってなんです?」


銚期は、殷の紂王を倒すために武王が大河を渡ったとき白魚が船に飛び込んできたという瑞兆ずいちょうの物語を臧宮に聞かせた。

王覇がただ単に河が凍っていなかったことを言い出せずに嘘をついてしまったことを皆が気づいていたが、誰もその事を話題にするものはいなかった。

劉秀が“敢えて欺いた”と言ったのだから、それはもうそういうことで良いのだ。一行には強固な連帯感が生まれつつあった。

一行が渡りきると氷が割れ始め、追手が渡ることは出来なくなった。嘘のような光景を見て、陳俊が短く口笛を鳴らした。


 風に雪が混じりはじめ、寒さと疲労とが一行を責め抜いた。荷駄にだがぐらりとよろめいて倒れ、血の泡を吹いて死んでしまった。朱祜が言う。


「畜生と言えども仲間だ。手を合わせてから頂こう」


一行は死んだ駄馬の冥福を祈ると、解体して肉にした。一行は寝ないように馬の肉を噛みながら進んだ。遂に吹雪となり、凄まじい風と雪に前も見えない状況となった。馬が進まなくなったので、遂に降りて歩いた。闇の中で雪に足を取られた劉秀は転倒してしまった。


――頑張るのじゃ。――


耳に響く声に顔を上げると白衣を纏った老人が目の前に立っていた。

老人は長い白髪に白髯をたくわえて、樫の杖をついている。

老人の顔は長く、鼻は高い。とりわけ印象的なのは、まるで童子のような悪戯っぽい目である。


「汝らの仲間はわしの杖が指す先におる。信都しんとの城はもうすぐじゃ。挫けるでないぞ」


劉秀は老人の杖が指す先に目を転じると、吹雪の先にかすかに黒い影が見えた。人工物に見える。


「ご隠居、ありがとうござい……?」


劉秀が視線を戻すと老人の姿は消えていた。

一行は老人の指した先に向かって一歩一歩進んでいくが、なかなか信都城らしき黒い影は大きくならない。

あんな不思議なことがあったのに結局野垂れ死ぬなんてことがあるものだろうか?

後ろから馬のいななきが聞こえ、追手が来たかと慌てるものの、手がかじかんで武器を持つことももはや叶わない。

ついに騎馬の一群が、劉秀一行を超越して前に立ち塞がった。

馬上の人物が声を張り上げる。


「劉秀殿とお見受けするが、どうか?」


劉秀はその言葉に攻撃的な調子がないのを知り、如何にも、と返した。


「我が名は杜茂とも。南陽から劉秀殿の武威を慕って飛び出してきた者です。下曲陽かきょくようにて邳彤ひとう殿とよしみを結び、精兵二千を預かって信都城の加勢に参りました」


一行は杜茂率いる二千の歩騎に護られながら、遂に信都城に至った。

城門が解放されて、劉秀の乗った馬がゆっくりと歩をすすめる。

太守の任光にんこうが二人の腹心を引き連れて劉秀の目前に至ると片膝を着いて言った。


「お待ちしておりました。反撃の狼煙のろしをあげる時ですな」


劉秀は馬を降りて任光の肩に手を置くとにやりと笑った。劉秀が拳を高く振り上げると、城内は割れんばかりの歓声に包まれた。

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