第三十五章 劉秀百万の軍
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劉秀一行が信都にたどり着いた頃、邯鄲は揺れていた。太守の彭寵が、劉子輿に帰属するか、劉秀に帰属するかで悩んでいるためである。
街の裏路地にある薄暗い酒場で、呉漢は静かに盃を眺めている。
その後ろを、巨漢がのっしのっしと落ち着かない様子で行ったり来たりしている。
呉漢が眼を怒らせて言う。
「蓋延、五月蝿いぞ」
巨漢、蓋延は口を尖らせる。
「何も言ってねぇじゃねえかよう!」
「気配が五月蝿い。座っていろ」
蓋延はブツブツ言いながら座り、酒を一気に飲み干すと大きなげっぷをした。呉漢は低いくぐもった声で呟いた。
「若は劉子輿に気持ちが傾いている。だが、旅の儒生から得た情報によれば、劉子輿の正体は王郎なる怪しげな人相見に過ぎないという」
「若が偽の皇子に騙されちまったら大変じゃあねえか。なんでそんなに落ち着いてるんだ?」
編笠で顔を隠した小柄な男が店の中にゆらりと入ってきた。仲間の王梁である。
「頼まれた檄文、作ってきたよ」
呉漢は王梁から檄文を渡されると蓋延を手招きして彼にもその内容を見せた。
「大司馬劉秀は既に南方の諸郡を味方につけ、諸賊を併呑して、劉子輿を討たんとしている……劉子輿討伐に際し、太守彭寵が協力するならば高位大禄を約束する……これ、本当なのか?」
「私が作ったって言っただろ。全部デタラメだ」
王梁はやれやれとでも言うように、両手をひらひらさせた。
「まったく呉漢殿はすごいよ。こんな“自分、不器用ですから”みたいな顔して、主君を謀ろうというんだからな」
呉漢は貧家に生れながら自力で文字を覚えたという。財産制限さえなければ官吏として頭角を現していたとしてもおかしくはない、と王梁は思った。
「要は、偽の檄文をばら撒いて若を騙すってことだろ?大丈夫なのか?やばい橋を渡るのは嫌だぜ俺は」
オロオロする蓋延を横目に見やると、呉漢は酒を一口飲んで呟いた。
「勝ち馬に乗ることは、若のためにもなる。嘘も、勝った後ならば咎められはしない。それに……」
呉漢は思う。劉秀がもし自分が見込んだ通りの人物であれば、遠からず手紙の内容は嘘ではなくなる、と。
2
一方、上谷郡では功曹の寇恂が太守の説得にかかっていた。寇恂はもちろん劉秀を推している。
上谷太守の耿況は帰趨について胃に穴があくほど悩んでいた。耿況は息子の耿弇から届いた書状を机に置いた。この書状の内容も劉秀への加勢を説くものである。
「お前の言わんとするところはわかる。息子も確かな目を持っている、しかしあまりにも勢力が……。単独では邯鄲の軍勢に対抗できまいよ」
「歳をとって弱気になったな、友よ」
扉を勢い良く開けて入ってきたのは、年季の入った戎装に身を包む壮年の男だった。
「この景丹、上谷のためにいつでも命を差し出す覚悟は出来ているぞ。それに、突騎の力をなめてもらっては困る。上谷だけでも勢力差を覆す余地は十分にある」
景丹は長年に渡り耿況を支えてきた副官である。親友の言を聞いて、耿況は頭を掻きむしった。頭上に雲脂が舞う。
「突騎の力を以ってしても、単独では厳しい……しかし、漁陽郡はどう動く、寇恂?漁陽の突騎も合わされば、あるいは」
「やはり帰趨を迷っているようです。部下の何人かは大司馬劉秀につくよう説得を試みている、とのこと」
耿況は、ひとしきり頭を掻きむしった後、不意に手を止めて言った。
「決めた、決めたぞ。私は大司馬劉秀殿につく!寇恂、お前は漁陽太守の彭寵殿に駄目押ししてこい。景丹は突騎をまとめて出発の準備をしてくれ。郡全体の浮沈に関わる重大事、二人共抜かりなくたのむ!」
3
信都城の劉秀のもとには一万程度の軍が集まった。人数が集まった安心感からか都への帰還を主張する者が多く現れた。この意見を力強く否定したのが、遅れて合流した下曲陽の実力者、和成太守の邳彤である。
「ここに集まったのは、大司馬とともに戦い、功名を遂げんとする者達です。劉秀殿を都まで護衛したところで彼らは何ら得るものはない。それにいま劉子輿を叩かねば、彼奴らは河北のみならず三輔をも脅かすでしょう。帰還などありえません」
劉秀は力強く頷くと、自ら策を提案した。
「とは言え、劣勢は間違いない。ここからそう遠くない場所に、更始帝に帰順した盗賊団がいるという。彼らと協調する手はないか?」
「城頭の子路と力子都の軍ですね。いけません」
任光も邳彤に負けず劣らずはっきりものを言う。城東の子路は、盧県の城頭で挙兵した盗賊で、姓名ではなく字の子路で呼ばれていた。力子都は東海郡に拠って立つ盗賊で、赤眉に協力して勢力を拡大した。
「確かに二つ合わせて二十万を越す大軍ということですが、それ故に我々が主導権を握れずに吸収されてしまう。それよりも、彼らが既に帰参したと偽って兵を募るというのはどうでしょう。また、奔命を招集し、兵には抵抗する町に限り略奪を許可しましょう」
奔命とは、緊急時に選抜されて編成される精鋭部隊である。奔命として選ばれる兵士は雑兵よりも高待遇を与えられるので、兵士達の歓心を買える。略奪による財貨もまた兵士の士気を上げるものである。
劉秀は任光と邳彤の策を容れ、檄文を放って募兵し、近隣の都市を攻略することに決した。
会議の後、思案顔の劉秀に鄧禹が声をかけた。
「ご自分の策に未練があるご様子ですね。盗賊など、あてになりますか」
劉秀はかぶりを降った。
「今すぐに盗賊を仲間にしたい、というわけではないさ。ただ、万を超える盗賊団が十も二十もあるわけだろ。全てと戦うのは無茶な話だよ。それに、彼らは農地を失った元百姓だ。百姓を殺すことが天下のためになるとは、私は思えない」
鄧禹は頷いた。
「いずれ仲間に加える機会もあります。それまで胸に暖めておくことと致しましょう」
4
任光の放った檄文は信都の西に位置する堂陽に届いていた。
「“大司馬劉秀が城頭の子路と力士都の軍を従え、百万の軍勢をもって邯鄲を討つ。漢室に志を持つ者は速やかに帰参し、他日の刑戮を免れ、子孫の基業をも草創せよ。”だってよ。これ、まずいんじゃないか、おい」
「劉秀って王莽百万の軍を破った猛将なんだろ?そいつが百万の軍を率いてくるなら、この堂陽なんざひとたまりもないやな」
堂陽の守備兵達は檄文に恐れ慄いていた。その内容が末端まで伝わった頃、深夜に事件は起きた。
「た、大変だ。外を見ろ!すごい数の敵だ!」
兵士達が城壁の上から外を眺めると、空を焦がさんとするほどの松明の火が城の周囲を包み込んでいた。
「百万の軍は本当だったんだ!逃げろ!」
「こら、貴様ら、持ち場に戻れ!」
「俺は死にたくない!どけ!」
結局、混乱の末に勝手に城門を開ける者が現れ、堂陽の城は一晩で陥落してしまった。
劉秀は諸将の前で任光と邳彤を賞した後、鄧禹に言った。
「兵士一人につき二本松明を持たせただけなのにな。一兵も損なわずに、一城を降せてしまった。信じられん」
堂陽の兵士達はまったくの錯誤から降伏してしまったのである。勝った劉秀のほうがまるで狐につままれたような顔をしているので、鄧禹は可笑しくなってしまった。
「明公の武名はそれほどの威力があるということです。もっと自信を持たれてはいかがか」
劉秀は鼻を鳴らした。
「そうだな……よし。いけるとなれば、行動は速いほど良い」
劉秀は、鄧禹に北西の常山郡、馮異に北東の河間国を攻めるように命じ、自身は北の中山国を攻略せんと出発した。




