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私の日常が平和すぎるのは、周囲の男たち(全員ヤンデレ)が水面下で不可侵条約を結んでいるかららしい  作者: ヒデコ


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第60話:世界はやっぱり優しい(完結)

冬の張り詰めた冷気配がふわりと緩み、街路樹の梢(こずえ)に膨らみ始めた小さな新芽が、すぐそこまで迫る春の気配を告げる休日の午後。


東京の空は、雲ひとつない抜けるような冬晴れの青空がどこまでも高く澄み渡っていた。


やわらかな午後の陽光が降り注ぐ、港区の閑静な並木道。


その通り沿いに佇むデザイナーズマンションの一階、アンティークな木枠のガラス窓が美しいブックカフェ『月白(つきしろ)』のウッドデッキテラスには、春先取りの暖かな日差しを浴びながら、贅沢なティータイムを楽しむ女性たちの姿があった。


「ふふ、見てごらんなさいよ、あの光景。今日も平和そのものねえ」


店主の及川志乃(おいかわ しの)が、淹れたての特製カモミールミルクティーのポットを傾けながら、目を細めて微笑んだ。


テラスの円テーブルを囲んでいるのは、関茉莉花(せき まりか)、日下部莉緒(くさかべ りお)、そして休日返上(という建前の優雅なオフ)を満喫している佐伯千冬(さえき ちふゆ)の三人だった。


「平和……かしらねえ、志乃さん?」


莉緒がサングラスを細い指先で少し押し下げ、並木道を見下ろしながら苦笑混じりにアイスティーのストローを弄んだ。


「平和というよりは、歩く活火山地帯じゃない? あいつら、新条約で『裏工作の禁止』を言い渡された途端、水面下の冷戦をそのまま白昼堂々の全面戦争にスライドさせただけじゃないの」


「全くだわ」


茉莉花がスコーンを口に放り込み、吹き出すように笑った。


「見てみなさいよ、あのフォーメーション。アパレルの春物特集のグラビア撮影でもあんなに画になる男たち、そうそう揃わないわよ。……全員、目がギラギラしてて笑えるけど」


「申し上げます」


千冬が手帳を開くこともなく、完璧な姿勢でティーカップをソーサーに戻した。


「副社長は本日、社用車をすべて本社の地下駐車場に封印し、『休日に愛する女性と並木道を散策することこそが、英国紳士の至高の嗜みである』と宣言なさいました。……なお、その散策のために、先週から伊勢丹の特注サロンで誂えた春物ツイードジャケットを着用しておられます。お値段は私の月給三ヶ月分です」


「あはは! 相変わらず重いわね、あの副社長!」


女性陣の朗らかな笑い声が、テラス席のパラソルの下に響き渡る。


四人の視線の先――


木漏れ日が揺れる並木道の中央を、軽やかな足取りで歩く一人の少女と、その周囲を四重の衛星のように取り囲む男たちの姿があった。


◇


「ふあー……っ! 風は少し冷たいけど、日差しがぽかぽかしてて気持ちいいな!」


淡いパステルピンクのチェスターコートに、オフホワイトのプリーツスカート。


首元に巻いたラベンダー色のマフラーをふわりと揺らしながら、槇原紬(まきはら つむぎ)は、春の光に満ちた空を見上げて無邪気に微笑んでいた。


今日はお気に入りのアニメの劇場版公開初日。


休日のチケットを握りしめ、映画館へと向かう道中である。


――しかし。


彼女の左右、そして真後ろからは、木漏れ日の穏やかさを一瞬で焼き焦がさんばかりの、凄まじい密度の「殺気と情熱」が渦を巻いていた。


「槇原。風が冷たいな。私のストールを使いなさい」


紬の右隣を歩くのは、東証プライム上場の総帥・鷹見征司(たかみ せいじ)。


今日は会社で見せる隙のないスリーピーススーツではなく、洗練されたライトグレーのテーラードジャケットにカシミアのタートルネックという、上質な休日のエリートスタイル。


鷹見は自らの首元から、最高級パシュミナのストールを外すと、紬の肩へそっと掛けようと長い腕を伸ばした。


――だが、その手が紬の肩に触れるコンマ五秒前。


「ストップ! ストップですよ鷹見さん!!」


紬の左側から、だぶだぶのミントグリーンのオーバーサイズパーカーにスキニーデニムという軽快なストリートスタイルの青年――成瀬郁(なるせ いく)が、すばしっこく割り込んできた。


成瀬は自らの身体を紬と鷹見の間に滑り込ませると、パーカーの大きなポケットから、カチリと音を立てて手のひらサイズの充電式電子カイロを取り出した。


「紬さん! ストールなんて重たいものより、僕が昨夜から急速充電しておいた、このネコちゃん型モバイルカイロを使ってください! 最高温度五十度、表面は肌触り抜群のマイクロファイバー仕様です! ほら、握ってみてください、すっごく温かいですよ!」


「成瀬。……貴様、私のエスコートを妨害する気か」


鷹見の切れ長の瞳が、一瞬にして冷徹な光を帯びる。


「妨害じゃないですー! 新条約【第1条:対等なアプローチ】に基づく、正当なプレゼンテーションですー! だいたい鷹見さん、歩幅が大きすぎて紬さんが小走りになってるじゃないですか! もっと女性の歩調に合わせられないんですか、この化石エリート!」


「何だと……? 私は彼女の歩行速度をミリ単位で計算し、心拍数に負担をかけない時速四・二キロメートルを維持している」


「それが理屈っぽくてモテないんですよ!!」


「ふふ、二人とも、相変わらず血気配が盛んだね」


紬のすぐ背後から、クスクスと喉を鳴らすような甘い声が降ってきた。


南青山のセレブ専門クリニック院長・保科貴文(ほしな たかふみ)。


今日は近隣の提携病院への往診帰りという名目で、ネイビーのシャツの上から純白のドクターコートを優雅に羽織り、銀縁眼鏡を指先で押し上げながら歩いていた。


保科は紬の斜め後ろから音もなく歩み寄ると、手元の紙袋から、ふわりと湯気を立てる小さな保温マグを取り出した。


「紬ちゃん。冷たい風に当たると、咽頭粘膜のバリア機能が低下してしまうよ。僕が今朝、生薬の蜂蜜とカモミール、それに乾燥生姜をブレンドして煮出してきた特製の喉ケアシロップだ。一口飲むと、身体の芯から温まって免疫力が跳ね上がるよ。……さあ、僕の手から直接飲んでおくれ」


「直接飲ませようとするな、このヤブ医者ァァァッ!!」


成瀬が叫び、鷹見が額に青筋を浮かべてペーパーナイフ(の代わりに持参した万年筆)を握りしめる。


そして――


紬の真後ろ、一歩下がった位置から、地底のマグマのような重低音が静かに響いた。


「……前を見ろ。段差がある」


黒のタクティカルジャケットを隙なく着こなし、周囲三百六十度の死角に鋭い視線を配りながら歩いていたのは、隣人の元SP・梶原敦志(かじわら あつし)だった。


梶原は紬が歩道のわずかなマンホールの段差につまずきそうになった瞬間、触れるか触れないかの絶妙な力加減で、紬の肘の布地をクイッと引き上げ、完璧にバランスを補正した。


「あ……ありがとうございます、梶原さん!」


「……礼には及ばん。周囲の路面状況を監視するのは、俺の役目だ」


梶原はそう短く答えながらも、その耳の先端は――先週のスキヤキ事件以来、紬と目が合うたびにポッと茹でダコのように赤く染まるのが常となっていた。


男はそっと自らの左手首の時計を見つめ、低く呟いた。


「劇場までの所要時間はあと七分。歩行者専用道路の信号サイクルは確認済みだ。……周囲に不審人物の気配はない。安全は完全に確保されている」


「梶原さんまで何気なくボディタッチして抜け駆けしてるしーッ!!」


成瀬がギャンギャンと吠え、鷹見がストールを翻して前へ出ようとし、保科が優雅にマグを掲げて微笑み、梶原が無言で牽制の眼差しを返す。


バチバチバチバチッッッッ!!!!


並木道の澄んだ空気の中で、四つの巨大な熱量が火花を散らし合っていた。


以前のような、水面下で監視カメラをジャックしたり、裏で他人の口座を凍結したり、路地裏で人を絞め落としたりするような、陰湿で危険な冷戦ではない。


彼女の目の前で。


正々堂々と、誰が一番彼女を温められるか、誰が一番彼女を笑顔にできるかを、必死になって競い合う男たちの姿。


◇


「…………」


ふと、紬の足が止まった。


並木道の木漏れ日が、石畳の歩道に斑(まだら)の模様を描いている。


紬はくるりと踵を返し、自らの周りで小声の火花を散らし合っている四人の男たちを、静かに見つめた。


「「「「…………っ」」」」


紬が立ち止まった瞬間、男たちの争いがピタリと止まった。


鷹見がストールを持った手をスッと胸元に戻し、


成瀬が電子カイロを両手でギュッと握りしめて首を竦め、


保科が保温マグを抱えたまま微笑みの形を整え、


梶原がピシリと直立不動の姿勢を取る。


四人全員の瞳に、「また怒られるのではないか」という微かな緊張と、紬の一挙一動に怯えるような愛おしい狼狽が走る。


紬は、そんな男たちの顔を、一人ひとりじっくりと見つめた。


東証プライムの若き総帥。


世界屈指の天才エンジニア。


政財界セレブ御用達の名医。


要人警護の武闘派社長。


世間一般から見れば、誰もが平伏し、畏敬の念を抱くような雲の上のハイスペック男子たち。


けれど――いま、紬の目の前にいるのは、そんな肩書きに守られた完全無欠の怪物たちではなかった。


自分の前で平手打ちを食らって赤くなった頬を愛おしそうに撫でていた鷹見さん。


手作りクッキーの包み紙を金庫に祀って顔から火を噴いていた梶原さん。


眼鏡を外して心臓の鼓動を確かめさせながら、必死に想いを告げてくれたタカちゃん。


お茶を淹れてもらっただけで手が震え、正規応募で当てたペアチケットを握りしめて泣きそうになっていた成瀬くん。


(……本当に、馬鹿ばっかり)


紬の胸の奥底に、じんわりと温かな、愛おしい感情の泉が湧き上がってきた。


彼らは確かに、狂っている。


執着が深すぎて、感情が重すぎて、放っておけばすぐにでも過保護のアクセルを床まで踏み抜いて暴走しかねない、とんでもなく危なっかしい人たちだ。


けれど――


その狂気の底にあるのは、世界中の誰よりも純粋で、誰よりも温かい、自分への無償の想いなのだ。


自分を傷つけないように。


自分が泣かないように。


自分が今日も明日も、心から笑っていられるようにと、自らの身を削ってまで差し出してくれる、不器用極まりない愛。


誰かが作った「無菌室」の中で、お人形のように守られていた頃には、見えなかったもの。


ガラスケースを自らの手で叩き割り、対等な人間として向き合ったからこそ、今、彼らの温もりが、痛いほど鮮やかに心へと染み渡ってくる。


(私、やっぱり……)


紬の口元が、自然とやわらかな弧を描いた。


世界は、優しい。


それは、見えない壁に守られていたからではない。


こんなにも不器用で、こんなにも一生懸命な人たちが、自分の隣にいてくれるからこそ――この世界は、息を呑むほどに温かく、優しいのだ。


◇


紬はマフラーを両手で軽く整えると、胸いっぱいに春の光を吸い込んだ。


そして――


満開のひまわりが咲き誇るような、世界で一番眩しい太陽の笑顔を浮かべて、四人に向かって大きく両手を振った。


「――みなさん!」


澄み渡る青空に、鈴を転がすような明るい声が響き渡る。


「そこで立ち話してたら、映画始まっちゃいますよ! 早く行きましょ!」


紬は手招きをしながら、くるりと回って歩き出した。


その瞬間。


「「「「…………っっっっ!!!!」」」」


四人の男たちの胸の奥で、理性のタガが心地よい音を立てて弾け飛んだ。


太陽の笑顔。


いかなる悪意も、いかなる謀略も、いかなる理不尽も一瞬で霧散させてしまう、彼女だけの【無敵の笑顔結界】。


その輝きを真正面から浴びせられ、男たちにこれ以上の迷いなど存在するはずがなかった。


「待ちなさい、槇原! チケットの発券は私がすでに済ませてある!」


「待って紬さん! ポップコーンは僕がキャラメルと塩のハーフ&ハーフを買いますからね!」


「走ると危ないよ、紬ちゃん! 転んだら僕が抱き留めなければならなくなる!」


「……足元に気を配れ。俺が前方の動線を確保する」


先ほどまでの牽制などどこへやら、四人は我先にと、愛する少女の背中を追って一斉に駆け出した。


タッ、タッ、タッ、と石畳を蹴る足音が、春の並木道に小気味よいリズムを刻んでいく。


並んで歩く、五人の影。


右隣を奪い合う鷹見と成瀬。


左隣で優しく微笑みかける保科。


半歩後ろから、静かに、けれど誰よりも頼もしい盾となって見守る梶原。


中央で、呆れたように、けれど最高に幸せそうに笑う槇原紬。


◇


テラス席の木陰から、その賑やかな背中を見送りながら、及川志乃がふふっと優しく喉を鳴らした。


「ほらね。やっぱり、あの子の笑顔には誰も敵わないわ」


「全くだわ」


莉緒がサングラスを胸元にかけ、満足そうにカクテルグラスを傾けた。


「あいつら、一生あの子の手のひらの上で転がされ続けるのよ。……まあ、あの子が世界一幸せそうに笑ってるんだから、親友としては及第点をあげてもいいけれど」


「ええ」茉莉花がスコーンを完食して立ち上がった。


「月曜日からの編集部、また一段と騒がしくなりそうね。……千冬さん、副社長がまたオフィスで奇行に走ったら、遠慮なくボイスレコーダー回すからね」


「よろしくお願いいたします、関デスク」


千冬が冷徹に、けれどどこか楽しげに眼鏡を押し上げた。


「副社長の暴走手当として、社内カフェの特別割引クーポンを編集部全員に配布する準備は整っております」


女たちの温かな笑い声が、再び青空へと溶けていく。


◇


木漏れ日が降り注ぐ、光の並木道。


賑やかに言い争いながら、それでも寸分の狂いもなく彼女の歩調に合わせて歩き続ける、愛すべき四人の男たち。


ふと、紬は横を歩く男たちの横顔を見上げ、心の中で静かに呟いた。


(今日も世界は、ちょっと騒がしくて……)


お互いの足を引っ張り合いながら、それでも自分のためだけに命を燃やしてくれる、世界一厄介で、世界一愛しい人たち。


(……やっぱり、とびきり優しいな)


微笑む彼女の足元で、男たちはこれからも互いを牽制し合いながら――


世界で一番愛しい彼女の日常を、全力で、永遠に彩り続けていくのだった。

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