第30話:凍える街を温める笑顔と、二人だけの秘密の相談
数日が経ち、あれほど吹き荒れていた冷たい風は、嘘のように和らいでいた。
「お母さん、見て! お日さまが出てる!」
窓を開けた琴音が、弾んだ声を上げる。
雲の切れ間から差し込む陽の光は、まだどこか控えめではあったけれど、久しぶりに感じる暖かな色をしていた。
「本当ね……。やっと、寒波が落ち着いてきたのかもしれないわ」
葵も窓辺に立ち、空を見上げた。
凍りついていた通りの水たまりも、朝日を受けてきらきらと溶け始めている。
道行く人々の表情にも、この数日にはなかった余裕が戻りつつあった。
「よかった……。本当に、よかった」
琴音がほっと胸を撫で下ろすように呟いた。
耳を澄ませば、遠くから荷馬車の車輪が石畳を鳴らす音や、市場の呼び込みの声が、少しずつ賑わいを取り戻しているのが聞こえてくる。
凍りついていた数日間、すっかり息をひそめていた街が、ゆっくりと動き出そうとしていた。
「なんだか、街全体がほっとしてるみたいだね」
「ええ、本当に。……こうして日常が戻ってくるのを見ると、私も嬉しくなるわ」
窓辺に差し込む光を浴びながら、二人はしばらくその変化を見守っていた。
◇
身支度を整えて食堂に降りると、いつもより賑やかな声が二人を出迎えた。
「おお、葵ちゃんに琴音ちゃん、おはよう!」
顔なじみの冒険者が、朝から上機嫌に手を振ってくる。
「おはようございます。今日は、なんだか賑やかですね」
「そりゃあそうさ。ようやく寒さが緩んで、みんな一息つけてるんだよ。それもこれも、あんたたちのおかげでもあるんだぜ」
「私たちの……ですか?」
首を傾げる葵に、隣にいた常連のご婦人が微笑みながら頷いた。
「ええ。あの寒波の間、あんたたちが集落まで物資を届けてくれたり、温かいお鍋を振る舞ってくれたりしたでしょう。おかげで、辛い思いをせずに済んだって、街のあちこちで話題になってるのよ」
「そんな、私たちはただ、できることをしただけで……」
葵が恐縮して言葉を濁すと、マルタが厨房から顔を出し、誇らしげに胸を張った。
「謙遜しなくていいんだよ。あんたたちがいてくれたから、この寒波を乗り越えられた人が、どれだけいたことか」
その言葉に、周りの客たちからも次々と賛同の声が上がる。
「本当だよ。うちの隣の家族も、あんたたちが届けてくれた薪と毛布に、どれだけ助けられたか分からないってさ」
「市場のおばさんの店も、あんたたちのおかげで開け続けられたって聞いたよ」
「そういえば、この間物資を届けてくれた集落からも、伝言が届いてたよ」
マルタがそう言うと、懐から一枚の紙切れを取り出した。
「赤ん坊のいるお宅の人が、ギルド経由でお礼の言葉を書いて寄越したんだとさ。『おかげで家族全員、無事に寒波を乗り越えられました』って」
その文字を目にした瞬間、葵の胸に、あの日の震える声と涙ぐんだ笑顔が鮮やかに蘇った。
「よかった……。本当に、よかったです」
込み上げるものを堪えるように呟く葵の隣で、琴音も瞳を潤ませていた。
温かい言葉に囲まれ、葵と琴音は顔を見合わせ、くすぐったいような、嬉しいような気持ちで頬を緩めた。
◇
朝食を終え、ギルドへ納品に向かう道すがら、二人はいつもの眼鏡の職員に呼び止められた。
「葵さん、琴音さん、少しよろしいでしょうか」
「はい、何でしょう」
「先日の集落への物資輸送、そして木漏れ日亭でのお鍋の振る舞い、ギルドとしても大変感謝しております。冒険者ギルドの掲示板にも、感謝の声が寄せられていまして」
職員はそう言うと、丁寧に頭を下げた。
「本当に、お二人には助けられました。この寒波の対応で、ギルド側も手が回りきらなかったところがあったので……」
「私たちも、街のみなさんのお役に立てて嬉しいです」
葵が微笑むと、職員はほっとしたように表情を緩めた。
「これからも、何かあれば頼らせていただくかもしれません。よろしくお願いします」
「はい、いつでもお声がけください」
職員は少し照れくさそうに微笑むと、もう一つ付け加えた。
「それと……これは正式な依頼報酬とは別なんですが、ギルドの職員一同からの、ささやかなお礼です」
差し出されたのは、小さな布包みだった。
「開けてみてもいいですか?」
「ええ、もちろん」
包みの中には、質の良さそうな乾燥ハーブの束と、温かみのある手編みの小さなポーチが入っていた。
「わあ……。こんなにいただいてしまって、いいんですか?」
「もちろんです。お二人の働きに比べれば、ささやかなものですから」
恐縮しながらも、葵と琴音は顔を見合わせ、嬉しさを噛み締めた。
深々と頭を下げる職員に見送られながら、二人はギルドを後にした。
通りを歩けば歩くほど、道行く人々から声をかけられることが増えた。
「おや、あんたたちが噂の二人かい。この間はありがとうね」
見知らぬ老人にまで礼を言われ、琴音はくすぐったそうに肩をすくめた。
「なんだか、照れちゃうね」
「ふふ、本当ね。でも……こうして、誰かの役に立てたことを実感できるのは、嬉しいものね」
葵の言葉に、琴音は大きく頷いた。
「思えば、この街に来たばかりの頃は、ヒールグラスと雑草の見分けもつかなかったのにね」
「本当ね。あの頃の私たちからしたら、今日みたいな一日が来るなんて、想像もつかなかったかもしれないわ」
Eランクへの昇格、増えていく採集の依頼、少しずつ顔なじみになっていった街の人々。
積み重ねてきた日々の一つ一つが、今日という日に繋がっているのだと思うと、葵の胸に温かいものがこみ上げてきた。
◇
夕方、木漏れ日亭に戻ると、マルタが厨房で忙しそうに手を動かしていた。
「お帰り。今日は、市場にも活気が戻ってきてね。おかげで、久しぶりにまともな仕込みができそうだよ」
「よかったです。街の様子も、少しずつ落ち着いてきたみたいですね」
「ああ。あんたたちのおかげさ。……そうだ、今夜は少し豪華にしようかね。お礼も兼ねて」
マルタはそう言うと、いたずらっぽく笑った。
夕食の席では、いつもより品数の多い料理が並び、食堂は久しぶりに穏やかな笑い声で満たされた。
湯気を立てる焼き立てのパンと、根菜がごろごろ入ったシチュー、それに小さな果物のタルトまで添えられている。
「わあ、今日は豪華だね……!」
琴音が目を輝かせると、マルタは満足げに頷いた。
「たまにはこういう日があってもいいだろう。さあ、たんと食べておくれ」
マルタは自らグラスを掲げ、集まった常連客たちに向かって声を張り上げた。
「今日は、寒波を乗り越えたお祝いだ! それと、葵ちゃんと琴音ちゃんへの感謝も込めて……乾杯!」
「乾杯!」
食堂中に響く声に、葵と琴音は少し照れくさそうに笑いながらグラスを合わせた。
シチューを口に運んだ冒険者の一人が、しみじみとした声を漏らす。
「はぁー、体に染みるなあ。この数日の疲れが、一気に吹き飛ぶようだ」
「本当にね。こうしてみんなで囲む食卓っていうのは、何よりのご馳走だよ」
隣に座ったご婦人が、しみじみと目を細めながら頷いた。
賑やかな声と湯気に包まれた食堂を眺めながら、葵の胸にも静かな充実感が広がっていった。
食後、片付けを手伝いながら、葵はふと今回の出来事を振り返った。
寒さに震える人々を前にして、自分たちにできることを必死に探した日々。
薪を届けた集落の家族の、涙ぐんだ笑顔。
お鍋を頬張って「体の底から熱が湧いてくる」と喜んでくれた冒険者たち。
行商人のおばさんが、教えた保存の知恵で店を開き続けられたと涙を滲ませたこと。
どれもが、葵の胸に温かく積み重なっていた。
「温かい料理って、本当にすごいのね……」
洗い物をしながら、葵はぽつりと呟いた。
隣で皿を拭いていた琴音が、その言葉に頷く。
「うん。お腹も、心も、両方あったかくなる気がする」
「ふふ、琴音は本当に、いいことを言うようになったわね」
「お母さんの背中を見てきたからだよ」
くすぐったそうに笑う琴音の様子に、葵の胸もじんわりと温かくなった。
いつか自分たちの店を持てたら――そう二人で語り合った夜のことを、葵はふと思い出していた。
温かいご飯で、誰かの一日を少しでも明るくできたら。
今回の一件は、その夢がただの願望ではなく、確かに手が届くものなのだと教えてくれた気がした。
(いつか本当に、そんな場所を作れたらいいわね)
皿を拭く手を止め、葵は静かにそう心に刻んだ。
◇
夜、部屋に戻った二人は、ベッドに並んで腰掛けた。
窓の外には、久しぶりに澄んだ星空が広がっている。
フードから出てきたフィニが、二人の間にちょこんと収まり、満足げに目を細めていた。
『きょうは、みんな、えがおだったね……』
「フィニが、今日はみんな笑顔だったねって」
琴音がそっと伝えると、葵も小さく頷いた。
「うん、私も。今日一日、ずっと温かい気持ちだった」
しばらく、二人は星空を眺めながら、穏やかな沈黙を分け合っていた。
やがて、琴音が少し緊張した面持ちで口を開いた。
「ねえ、お母さん」
「どうしたの?」
「行商人のおばさんが話してた、あの町のこと……。私、やっぱり気になってるんだ」
琴音の声には、迷いと期待が入り混じっていた。
葵は少し驚いたように目を見開いたあと、静かに微笑んだ。
「実は私も」
「え……?」
「あの寒波の間、色んな人と関わる中で、ふと思ったの。この街での暮らしは、本当にかけがえのないものだけれど……。私たちには、まだ知らない場所がたくさんあるんじゃないかって」
「湖と果樹園に恵まれた、静かで美しい町。……あの話を聞いてから、ずっと頭の片隅に残っていたの」
葵の言葉に、琴音の表情がぱっと明るくなった。
「本当に? 私も、ずっと考えてたの。グランベルは大好きだけど……いつか、あの町も見てみたいなって」
「ねえ、琴音。……本当に、行ってみる?」
葵が真っ直ぐに問いかけると、琴音は少しの間、考え込むように視線を落とした。
木漏れ日亭での日々、マルタの温かさ、ギルドの人々、市場のおばさん。
初めて【住】の加護でテントを出した夜のこと、ヒールグラスの見分け方を根気強く教えてくれた職員のこと、右も左も分からなかった自分たちを、何も聞かずに受け入れてくれたマルタのこと。
この街で築いてきたものは、決して小さくない。
けれど、それでも。
「うん……。行ってみたい。お母さんと一緒になら、どこへ行っても、きっと大丈夫だと思うから」
琴音のまっすぐな言葉に、葵の胸の奥が温かくなった。
「そうね。……でも、まだ誰にも話さないでおきましょう。マルタさんたちにきちんとお話しできる時が来るまでは、私たちだけの秘密ね」
「うん、分かった」
「それに、すぐに旅立つわけじゃないもの。もう少し、この街でできることをやりながら、少しずつ準備を進めていきましょう」
「うん。マルタさんにも、ちゃんとお別れの準備ができるように、時間をかけようね」
こくりと頷く琴音の頭を、葵はそっと撫でた。
その様子を見ていたフィニが、興味津々に二人を見上げる。
『あたちも、いっしょについてくよね……?』
「フィニも、一緒についていくよねって」
琴音が伝えると、葵は迷わず頷いた。
「もちろんよ。フィニも一緒に来てくれると、心強いわ」
その言葉に、フィニは嬉しそうに小さく身を弾ませた。
「よかった……! フィニがいないと、寂しいもの」
窓の外に広がる星空の下、二人と一匹だけの小さな秘密が、静かに芽吹き始めていた。
まだ先の見えない未来だったけれど、それでも葵の心には、確かな希望の灯りがともっていた。
(琴音と一緒なら、どんな場所でも、きっと温かい居場所を作っていける)
そんな想いを胸に、葵は静かに窓の外の星々へと目を細めた。
寒波を乗り越えた街の灯りが、遠くにぽつぽつと瞬いている。
その一つ一つに、この数日で関わった人々の顔が重なって見えるようだった。
いつか、この街を離れる日が来るとしても、ここで育んだ絆や思い出は、きっと色褪せることなく二人の中に残り続けるだろう。
その光景を眺めながら、二人はこれから始まる新しい物語の予感に、そっと胸を膨らませていた。
お読みいただきありがとうございました!
面白かったらぜひ【ブックマーク】とページ下の【★★★★★評価】で応援よろしくお願いします。




