第22話:風のソヨカゼと、新しい採集エリア
朝食を終えた木漏れ日亭の裏庭で、琴音は手のひらを空にかざしていた。
「――ソヨカゼ」
小さく紡がれた声とともに、柔らかな風がふわりと生まれる。
以前は加減がつかめず、時折強く吹きすぎては葉を散らしてしまうこともあったけれど、近頃はずいぶんと様子が違っていた。
「わあ、綺麗……」
風は洗濯物の裾を軽やかに揺らしただけで、静かに収まっていく。
『きょうも、じょうずにできたね……!』
フィニが嬉しそうに琴音の肩の上で羽をぱたぱたと震わせた。
「フィニが、上手にできたねって」
「ありがとう、フィニ」
得意げにはにかむ琴音の様子を、洗濯物を干していた葵はそっと見守っていた。
「本当に安定してきたわね。最初の頃を思うと、見違えるようだわ」
「えへへ、毎晩ちょっとずつ練習してきたから」
照れくさそうに頬を掻く琴音の姿に、葵は目を細めた。
「もう一回、見せてもらってもいい?」
「うん、任せて」
琴音が改めて手のひらをかざすと、今度は少し強めの風が生まれ、庭先に落ちていた枯れ葉をふわりと巻き上げた。
「あ、これは強すぎたかな」
「ううん、力の込め方を自分で調整できてる証拠よ。すごいじゃない」
葵の言葉に、琴音は嬉しそうに目を輝かせた。
初めて成功した夜、たった一筋の頼りない風しか起こせなかったことを思うと、今のこの安定ぶりは驚くほどの進歩だった。
戦う力を持たない自分たちにとって、この小さな風の魔法がどれほど心強い味方になったか、改めて実感する朝だった。
「フィニとの息もぴったりだものね」
「うん! フィニが教えてくれたおかげだよ」
肩の上で丸くなっていたフィニが、褒められて嬉しそうに耳をぴくぴくと動かした。
『えへへ、よるのとっくん、せいかだよ……!』
「フィニが、夜の特訓の成果だって」
得意げな声を伝える琴音の様子に、葵は思わず頬を緩めた。
◇
「そうだ、聞いて聞いて!」
洗濯物を畳み終えた頃、フィニが思い出したように声を弾ませた。
『あっちの川の近くに、すごく綺麗なお花と薬草がたくさん咲いてるの、フィニ知ってるよ!』
「川の近くに、お花と薬草?」
琴音が興味津々に聞き返すと、フィニは得意げに胸を張った。
『うん! せせらぎの音がする、きれいな小道だよ。まだ二人には教えてなかったけど……』
フィニの言葉を琴音がそのまま伝えると、葵も思わず身を乗り出した。
「そんな場所があったのね。ぜひ行ってみたいわ」
「私も! 新しい場所、なんだかわくわくする」
普段の採集エリアとは少し離れた場所らしく、フィニは地図代わりに宙へ指を滑らせながら、大まかな道筋を教えてくれた。
「今日はそこへ行ってみましょうか。お弁当も持って」
「うん!」
支度を整える二人の足取りは、いつもより軽やかだった。
◇
木漏れ日亭を出て、いつもの採集エリアへの道を途中で逸れ、川沿いの小道へと足を踏み入れる。
見慣れた分かれ道を過ぎると、それまでとは違う、少し湿った土の匂いが漂い始めた。
歩くほどに、遠くからせせらぎの音がかすかに聞こえ始めた。
「本当だ、水の音がする」
「フィニの案内、頼りにしてるわね」
『まかせて! フィニ、この辺りもちゃんと覚えてるもん』
得意げな声を伝え聞いた葵は、思わずくすりと笑った。
道の両脇には、いつもの採集エリアでは見かけない背の高い草花が茂り、時折風に揺れて甘い香りを運んでくる。
「見て、お母さん。この葉っぱ、初めて見る形だね」
琴音が指差した先には、羽根のように細かく裂けた葉を茂らせた植物が生えていた。
「本当ね。この辺りは、いつもの場所とはまた違う植物が多いみたい」
木々の隙間から差し込む光が、水面のようにきらきらと道を照らしていた。
途中、小さな木の橋を渡ると、フィニが得意げに宙を旋回した。
『ここ渡ったら、もうすぐだよ!』
「フィニ、詳しいのね」
『えへへ、まえに、ひとりでたんけんしたことあるの』
「フィニが、前に一人で探検したことあるんだって」
「そうだったのね」と、葵は感心したように頷いた。
しばらく歩くと、視界がふっと開け、清らかな川のせせらぎが目の前に広がった。
「わあ……!」
思わず声を上げたのは、琴音と葵、二人同時だった。
川辺には、見たことのない青や紫の小さな花が一面に咲き誇り、その間から爽やかな香りの草花が顔を覗かせている。
水面は木漏れ日を受けてきらきらと輝き、涼やかな水音があたり一帯を包み込んでいた。
「こんなに綺麗な場所があったのね……」
「うん。まるで絵本の中みたい」
しばらく二人は、その光景に見とれて立ち尽くしていた。
『でしょでしょー! フィニのとっておきの場所だよ!』
誇らしげに宙を舞うフィニの様子に、琴音がくすくすと笑いをこぼす。
「フィニ、ありがとう。こんな素敵な場所、教えてくれて」
「うん、フィニのおかげだね」
その言葉に、フィニは照れくさそうに小さな体をぷるぷると震わせた。
◇
一通り景色を堪能した後、三人は早速採集に取りかかった。
「あそこに咲いてる青い花、薬草っぽい香りがするわ」
葵が指し示した先には、細長い茎に小さな花をいくつも咲かせた草花が群生していた。
しゃがみ込んで一本手に取り、【食】の加護で状態を確かめてみる。
(傷みもなく、状態はとてもいいわね。これなら薬師組合でも喜ばれそう)
「琴音、根元についた泥を落としてもらえる?」
「うん、任せて」
差し出された束に、琴音がそっと手のひらをかざした。
「――ソヨカゼ」
ふわりと吹いた風が、根元の泥だけを綺麗に払い落としていく。
「わあ、本当にあっという間」
葵が感心したように呟くと、琴音は誇らしげに小さく胸を張った。
「最近、風の加減もだいぶ分かるようになってきたの。強すぎず、でもちゃんと泥は落とせるように」
「すごいわ。琴音の腕前、どんどん上達しているのね」
葵が花を摘み、琴音が風で泥を払う。
その作業を繰り返すうち、二人の間には自然と息の合ったリズムが生まれていった。
葵の包丁さばきも、この連携に一役買っていた。
根元を傷めないよう、鋭く薄い刃先で無駄なく茎を切り分けていく手つきは、前世で幾度となく台所に立ってきた経験の賜物だった。
「お母さんの手際、いつ見てもすごいなあ」
琴音が感心したように呟くと、葵は少し照れくさそうに微笑んだ。
「ふふ、褒めてくれてありがとう」
フィニは二人の周りを飛び回りながら、時折思い出したように声をかけてくる。
『そっちの株は、まだ蕾だから残しておこ』
「フィニが、蕾のは残しておこうって」
琴音がその都度伝えると、葵は頷きながら摘み取る場所を調整した。
小さな案内役のおかげで、無駄なく効率よく作業が進んでいく。
摘み進めるうち、ひときわ大きな花の群生が、棘のある蔓に囲まれているのを見つけた。
「これ、綺麗だけど、近づくのが難しそうね」
葵が眉を寄せると、琴音がふと手のひらを構えた。
「私がやってみる。……ソヨカゼ」
狙いを定めた風が、蔓の隙間をすり抜けるように吹き抜け、花びらを揺らすことなく、周囲の細かい棘だけをそっと払いのけていく。
「わあ、上手にできた……!」
自分でも驚いたように目を丸くする琴音に、葵は思わず拍手を送った。
「すごいわ、琴音! そんな細かい調整までできるようになったのね」
「えへへ、ちょっとびっくりした……。でも、できてよかった」
安全になった隙間から、葵が丁寧に花を摘み取っていく。
『琴音、どんどんじょうずになってる……!』
フィニが興奮した様子で二人の周りを飛び回った。
一通り青い花を集め終えると、フィニが今度は川沿いの岩陰を指し示した。
『こっちには、いいにおいのする葉っぱもあるよ!』
案内された先には、丸みを帯びた小さな葉を茂らせた低木があった。
葉を一枚摘んで鼻に近づけると、ほのかに柑橘に似た爽やかな香りが漂う。
「これも、きっと重宝されるわね」
「わあ、いい匂い……。お茶にしたら美味しそう」
「今度、木漏れ日亭で淹れてみましょうか」
「賛成! マルタさんにも味見してもらいたいな」
琴音が瞳を輝かせながら、丁寧に葉を摘み取っていく。
葵も隣にしゃがみ込み、傷んだ葉を選り分けながら籠に加えていった。
日差しを受けて艶やかに光る葉を一枚一枚確かめる作業は、単調なようでいて、どこか心を落ち着かせる時間だった。
川のせせらぎと、時折吹き抜ける涼やかな風、そして甘い花の香りに包まれながらの採集は、いつもとはまた違った心地よさがあった。
◇
作業が一段落した頃、汗ばんだ額を拭いながら、葵は川辺に近づいた。
透き通った水面に手を浸すと、ひんやりとした冷たさが心地よく指先に染み渡る。
「わあ、気持ちいい……!」
隣にしゃがみ込んだ琴音も、同じように水面に手を浸して声を弾ませた。
水底の小石まではっきり見えるほど澄んだ流れに、小さな魚影がすいすいと泳いでいくのが見える。
「魚もいるのね」
「捕まえられたら、晩ご飯に一品増えそう」
「ふふ、今日はさすがに難しそうだけれど、いつか挑戦してみましょうか」
そんな軽口を交わしながら、二人はしばらく水辺の涼しさを楽しんだ。
「琴音も、少し休憩しましょうか」
「うん!」
川岸の平らな岩に腰掛け、二人は持参したお弁当を広げた。
朝早く握ったおにぎりと、昨夜の残りの野菜の和え物を包みから取り出す。
「わあ、外で食べるご飯って、なんだか特別な味がする気がする」
「そうね。景色がいいと、それだけで美味しく感じられるものね」
頬張ったおにぎりの塩気が、涼やかな空気の中でいつもよりずっと美味しく感じられた。
フィニにも小さくちぎった欠片を渡すと、両手で大切そうに抱えて頬張る。
『おいしい……! ここでたべると、もっとおいしい……!』
「フィニも、ここのご飯は格別なんだって」
その言葉に、葵はふふっと笑みをこぼした。
食べ終えた後、川面を流れる木の葉をぼんやりと眺めながら、琴音がぽつりと呟いた。
「こういう場所、もっとたくさん知りたいな。フィニと一緒なら、きっとまだまだ素敵な場所がたくさんあるんだろうね」
「そうね。二人と一匹で、少しずつ世界を広げていけたら素敵だわ」
葵の言葉に、フィニが嬉しそうに肩の上で身を弾ませる。
『フィニ、もっといろんな場所しってるよ! こんどはあっちの丘とか、むこうの森とか……!』
「フィニがまだまだ知ってる場所があるって」
「楽しみが尽きないわね」
くすくすと笑い合う三人の周りを、涼やかな川風がやわらかく吹き抜けていった。
籠いっぱいに集めた花と薬草を前に、三人はしばしの休息を満喫した。
水面に反射する木漏れ日が、きらきらと三人の周りで揺れている。
「そろそろ戻りましょうか」
「うん。今日はいつもよりたくさん採れたね」
籠を抱えて立ち上がると、川のせせらぎが名残惜しそうに二人を見送るように響いていた。
帰り道、ギルドに立ち寄って納品を済ませることにした。
「今日は、いつもと違う場所で採ってきたんです」
籠を覗き込んだ受付の眼鏡の職員が、目を丸くした。
「これは……薬師組合が探していた花ですね。しかも、こんなに状態のいいものは久しぶりです」
「本当ですか?」
「ええ。実は先日お伝えした指名依頼、これがまさにその品でした。助かります」
思いがけない繋がりに、葵と琴音は顔を見合わせて微笑んだ。
「新しい場所を見つけたおかげですね」
「フィニのおかげでもあるわね」
肩の上でフィニが得意げに胸を張る。
『えへへ、フィニ、やくにたった……?』
「フィニが、役に立てたかなって」
職員も微笑ましそうに目を細め、大きく頷いた。
「精霊様にも、よろしくお伝えください」
ギルドを出ると、夕暮れの空が茜色に染まり始めていた。
帰り道、琴音がふと空を見上げて呟く。
「今日、本当に楽しかった」
「ええ、私も。また今度、来ましょうね」
「うん! 次はどんな発見があるか、楽しみだね」
夕暮れ前の柔らかな光を浴びながら、三人は満ち足りた気持ちで木漏れ日亭への道を歩いていった。
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