旅行の支度
私の腕は細かくぷるぷる震えていた。
精いっぱい伸ばした指先に神経を集中させ、美しく見えろ、と念じる。
その目の前にプリマドンナがふわっと舞い降りる。
くるっと回って回って、何回か数えるのが難しくなった頃、ぴたっと正確に停止した。
今の私には到底真似できない美しく切れのある動きだ。
素敵、ナターシャ先生、最高!
感激している私と同じように、観客たちが感激して拍手している。それがようやく収まって、挨拶に移るころ、観客席から色々な声が聞こえて来た。猫は人間よりずっと耳が良いのだ。
「まだ小さいのに上手ね。動きがすごくなめらかだわ。ナターシャのデビュー当時を思い出したわ。そしてとても可愛い」
「そうだな。今回来て得したね。ええと、妖精の王女役は……ミーア嬢か」
どうやら、私の事を褒めているようだ。私にとっては不本意な出来だったのに。
観客席の一角にお父様が友人知人を招いて座っている。
周囲から称賛の声をかけられ、お父様自身が舞い上がりそうになっている。さんざん褒められ、おめでとうの言葉をシャワーの如く浴びた後、お父様は大きな二つの花束を抱えて舞台に近付いて来た。
一つをプリマドンナのナターシャ先生に、もう一つを私に手渡す。
「素晴らしかったです。ナターシャ嬢。そしてミーア、お前は最高だよ」
私はスタッフが渡してくれたタオルを首に掛けて、汗をぬぐっていたが、その誉め言葉を素直に聞けない。
「一カ所、間違えてしまったの。勢いが付きすぎて、少し行き過ぎてしまって、先生が合わせてくれたの」
下を向いて言う私の肩に、ナターシャ先生の手が触れた。
「ミーア、それくらい良くあることよ。気にしないでね。それらをリカバリーして収めるのもプリマドンナの役目なのよ」
「私、もっと練習してプリマドンナになる」
お父様は「お前なら絶対になれるよ」と言って私を抱き上げくるくる回った。
「本当に仲の良い親子ね。うちの父も、少し見習って欲しいわ」
ナターシャ先生の父親は、気ままに旅をしては、その地で猫の姿で過ごす生活をしている。そのため、あまり家族と一緒に暮らしていない。
だから、私達の親密な様子を、時々うらやましがるのだ。
ナターシャ先生はきれいな短毛種の白猫で、ほっそりとした、しなやかな体をしている。人間の姿もやっぱり似ていて、白い肌にほっそりとしなやかな筋肉質の体をしている。
私が貴族猫の世界と関わり始めてすぐ、ナターシャ先生はバレエの個人教師になってくれた。
王立バレエ学校での私達は、プリマドンナと一般の生徒としてお付き合いしていて、個人レッスンを受けていることも、仲良しなのも内緒だ。
今回の公演で私は妖精の王女をソロで踊ることになり、バレエ団でも、ナターシャ先生と一緒に練習するようになった。そのため、仲良しなのを隠さなくて済んで、とても楽になっている。
お父様の手が下がっていくと、私はふわふわのスカートをふんわり膨らませて、床にトンとトウで立った。
「立ち姿がすごくきれいよ。やるわね」
王立バレエ団の先生が、満足そうに言って手を叩いた。
『華麗なるデビュー』と新聞で絶賛されたおかげで、その後しばらくは、新聞記者や友人知人の訪問が続いた。
そう、私は突然、人気者になってしまった。
そんな中、お父様が旅行を提案してきた。私へのご褒美だと言う。
「さて、どこに行こうか?」
「私は海を見たいわ」
それで、お父様が海辺のホテルを選んでくれた。
海は見た事が無い。
絵本や本で読んだことはあるけど、ずーっと水があって、その先も水だなんて無茶なもの、あるはずが無いと疑っていたのだ。
そして、もし本当なら、ぜひ見てみたい。
水はどこで止まるの?
端っこが無ければこぼれるじゃない。
もしかしたら、海を見るには、高い崖のようなものを登らないといけないの?
私は体力を付けるため、食事をいつも以上に摂り、運動もたくさんした。
ルルは、最初色々と言っていたが、その内にあきらめたようだ。今は黙ってせっせと旅の荷物を詰めている。
昼間のドレスに夜用のドレス、下着に水着。
この水着がすごい。ビラビラがいっぱいついた、長毛種の猫のような代物だ。しかもツートンカラーの横縞模様。
横縞模様の長毛種っていたかしら? 今度、生物学の先生に聞いてみよう。
私は今年十歳になった。
人間の学校に通い始める来年までは、家庭教師に人間の学問を教わり、猫の国でカリキュラムに沿って勉強をしている。
中でも特別に面白いのは魔法学だ。最近、熱中しているのが空中飛行で、鳥のように飛ぶのではなく、一蹴りでの飛距離を数倍、数十倍に伸ばすものだ。
上達すると、一キロの道のりを数歩で行けるし、木の天辺から他の木の天辺を渡り歩くことも出来る。
私は一蹴りで三百メートルまで飛距離を伸ばし、先生たちを驚かせている。
ほとんどの魔法に関して、私は破格の成績を叩き出していた。王女猫で特別に魔力が強いせいだけど、それを知っているのは、国の要職に就いている猫たちだけだ。
宰相が先日、政治・経済の授業で言っていた。
国の要職には、人間界で貴族として生活している一族が就く。
それは、人間界ではレジーナ侯爵家として知られている王家を、人間界の中で守る盾となるためなのだ。
レジーナ侯爵家の派閥は、皆貴族猫。非常に結束が固く数も多いので、一大勢力になっているそうだ。それゆえ、厄介な干渉をはじき飛ばせる。
本来自由を好む猫の中で、面倒な仕事をしようと思う者は少数派だ。
特に宰相になど、なりたい猫は一匹もいない。彼はくじ引きで負けたそうだ。
宰相は人間が地位に執着するのは、お金がないと生活できないからだろうと言う。
猫は違う。
自前の毛皮があるし、ハンティングができる。家は無くても特に困らない。
つまり衣食住は働かなくても賄える。
人間のような生活をしたければ、人間のお金を稼ぐ。その時の気分で選ぶのだ。
貴族猫は自分たちの生き方に、充分満足している。
文句があるのは、要職を押し付けられている家くらいだが、それを宥めるため、年に二度、王宮で栽培される高級マタタビが報酬としてたっぷり贈られる。
あれには、誰も逆らえない。
宰相の話を聞いて、私はおじいさんを思い出した。そういえば、おじいさんは猫に近い生活をしていた。
魚を釣り、ウサギや鳥を狩る。
庭で野菜を育てる。
それを食べて生活する。
半日お金をもらうために働いて、後は昼寝してから私と遊ぶ。
夜は一緒に星を見て、温かいミルクを飲んで寝るのだ。
宰相が言った。
「それは珍しいくらい上等な人間ですな」
私もそう思う。




