第三十六話:夜の街の綻びと、愛人の焦燥
「――おい、藤堂。この請求書の数字は一体どういうことだ? うちの若い衆に払う今月分の経費が、まだ口座に振り込まれてねえぞ。どうなってんだ、あぁ?」
六本木の高級クラブ。重厚な革張りのソファに深く腰掛けた城崎が、冷え切った目で藤堂を睨みつけていた。低い声が、派手なVIPルームの空気を一瞬で凍りつかせる。
テーブルに乱暴に叩きつけられた未決済の書面を前に、藤堂は額にじっとりと嫌な汗を浮かべながらも、全能感を崩さないよう必死に虚勢の笑みを浮かべた。
「ははは! 城崎さん、そんなに血気盛んにならないでくださいよ。ただのシステム上の、ちょっとしたラグですよ、ラグ」
「ラグやと? こっちはな、毎日若い衆を動かして実力行使の準備までさせてるんや。そんなガキみたいな言い訳が通ると思っとるんか」
「いえいえ、滅相もない! 我が社が【RS-HS】の利権枠に総額五十億円を一括でオールインした関係でね、ほんの本当にほんの数日だけ、目先の運転資金のキャッシュフローに一時的なエラーが出ているだけなんです。年が明ければ数百億になって戻ってくるんですから、そんなはした金で騒がないでください。ビジネスには、タイミングの波っていうものがあるんですよ」
「はした金、だと……? 調子に乗るなよ、カタギの若造が。うちはボランティアで動いとるんやないぞ。次に口座を確認して一円でも足りんかったら、その時は分かっとるんやろうな?」
城崎の放つ本物の極道の威圧感に、藤堂の喉がひくりと鳴る。
藤堂の会社『藤堂ネクスト・ソリューションズ』の財務ステータスは、蓮が配置した底なしの罠に全リソースを注ぎ込んだせいで、急激なキャッシュアウトを引き起こしていた。銀行からの短期融資も枠が限界に達し、社内の開発ラインへの支払いすら微かに滞り始めるという、致命的な「資金繰りの綻び」が内部で発生し始めていたのだ。
「……まぁまぁ、城崎さんも藤堂さんも、そんなに怒らないで。お酒が不味くなっちゃうわ。ほら、藤堂さん、今日も凄く格好いいわね。お疲れ様」
張り詰めた空気を変えようと、隣に座る高橋美咲が、藤堂の腕にそっと身を寄せた。今日も藤堂に買い与えられた数百万の毛皮のコートを羽織り、指先には大粒のダイヤが輝いている。美咲は甘えた声を出しながら、藤堂のグラスに高級ブランデーを注ごうとした。
だが、次の瞬間、藤堂は鬱陶しそうに美咲の腕を激しく振り払った。
「――チッ、気安く触るな! 今、俺がどれだけ重要なビジネスの話をしているか分からないのか!」
「え……っ!?」
激しい衝撃と共に、美咲の手からグラスが滑り落ち、テーブルの上でガシャーンと派手な音を立てて割れた。ブランデーが美咲のコートに飛び散る。
美咲は目を見開いた。藤堂からこんなに手荒く拒絶されたのは初めてだった。
「あ、あの……藤堂さん……? 私、ただあなたを気遣おうと……」
「うるさい! お前みたいな底辺のガキが、大人の資金繰りの話に口を挟むな! 黙って酒でも飲んでろ!」
藤堂の怒声がVIPルームに響き渡る。城崎はフンと鼻で笑い、つまらなそうに煙草に火をつけた。
床に落ちた高級ブランドのバッグを、這いつくばるようにして拾い上げる美咲。惨めさと恥ずかしさで顔が真っ赤に染まる。惨めな姿を見られたくなくて化粧室へと移動しようとしていると、VIPルームの入り口付近に控えている黒服たちのひそひそ話が、耳に飛び込んできた。
『おい、見たかよ。藤堂の社長、完全にあの小娘に飽きてるな』
『そりゃそうだろ。最近じゃ、銀座の有名店のナンバーワンキャバ嬢を自分の新しい愛人にしようって躍起になってるらしいからな。あの美咲ってガキ、もう完全に用済み(お払い箱)なんだよ』
『元々はあの進学校の佐藤ってガキを引きずり下ろすための、ただのきっかけ作りの道具だったんだろ? 買収が成功した今、あんな底辺高校のガキをいつまでも隣に置いておくメリットなんて社長にはねえよな。適当なところで、ポイだよポイ』
「な、何よそれ……。嘘、嘘よ……っ!」
化粧室のガラスに映った自身の姿を見つめながら、美咲の心臓が激しいパニックの警告音を鳴らし始めた。
全身の血の気が引き、激しい焦燥感が脳内を支配していく。ガタガタと指先が震え、ダイヤの指輪が虚しく輝く。
(私が藤堂さんにとって、ただの道具……? そんなわけないわ! 私は夜の街の女王なのよ!? 佐藤や白雪をカーストの底へ叩き落として、あいつらの一文無しになる姿を特等席で嗤うのは私なのに……っ! もし藤堂さんに捨てられたら、私はまた、あのどん底の負け犬に逆戻りしちゃう……! あんな底辺の泥水みたいな生活に、戻るなんて絶対に嫌……!!)
美咲の誇り高いハリボテのプライドが、根底からメキメキと音を立てて崩れていく。
一度味わってしまった最高位カーストの快楽。そこから再び転落することへの恐怖が、美咲の精神を急速に、そして狂気的に追い詰めていく。
焦燥感を感じながらVIPルームへと戻ると、藤堂のお抱えの三流クラッカーが、青ざめた顔でノートパソコンを抱え、部屋に駆け込んできた。
「と……藤堂社長、ちょっとこれを見てください。例の【RS-HS】の進捗ログなんですが……」
キーボードを叩くその手は目に見えて震えている。
「あぁ!? 今度は何だ! 俺の天才的なシステム乗っ取りが、一〇〇%の完了間近だって報告か!? 早く見せろ!」
「い、いや、それが……その、九割は超えてるんですが、コア層の手前で急に防壁が分厚くなって足踏み状態でして……。相手もさすがに気づいて必死に抵抗してるみたいです」
「チッ、往生際が悪すぎるな、あのガキどもめ! だが時間の問題だ。あと数%、何としてでも力技で捩じ伏せろ!」
藤堂が血走った目でそう怒鳴り散らした、その時だった。
「――フフ、ハハハハ! あーあ、可笑しい。何が『時間の問題だ』よ。ねえ、藤堂さん、あなたのそのやり方、未だにぬるくて甘すぎるんじゃないの?」
割れたグラスのブランデーを毛皮のコートで拭いながら、美咲が突如として、甲高い声で下品にあざ笑った。その瞳には、焦燥を通り越したドロドロとした狂気の光が宿っている。
「なんだと……? 美咲、お前、今この俺のビジネスを笑ったのか!?」
「笑うに決まってるじゃない! あんたが『世界の王になる』なんて大口叩くから期待して付いてきてあげたのに、たかが高校生二人のシステムひとつ、まだカンペキに奪えてないじゃない! 画面に向かってパチパチお上品にキーボード叩いてるから、あの佐藤蓮や白雪華に舐められてるのよ!」
「黙れ! お前みたいな素人に、最先端のIT技術の何が分かるんだ!」
「分かるわよ! あいつらはね、痛い目を見なきゃ絶対に折れないの! 藤堂社長のやり方が、男として甘ちゃんすぎるからいけないのよ。どこのどいつもこいつも、あいつらをコケにするだけで誰も息の根を止めようとしないんだから!!」
美咲は狂ったように叫び、贅沢なネイルが施された爪をガリガリと噛んだ。自分がカーストの最底辺に転落するかもしれない恐怖が、彼女のブレーキを完全にぶっ壊していた。
「……ねえ、藤堂さん。いい加減、現実を見たら? システムとかビジネスで連中の尊厳を奪うのも良いけど、それより手っ取り早いのは物理的にあいつらの自由を奪っちゃえばいいのよ」
美咲はコートの汚れをバサリと払うと、ソファに深く腰掛けている城崎の元へとすり寄り、その肩に手を回した。
「ねえ、城崎さん。城崎さんの若い衆を動かしてよ。佐藤蓮の父親とか、あの白雪華って女を拉致して、あいつの目の前で痛めつければ、あいつだってすぐにシステムを全部差し出すわよ! そうすれば、藤堂さんの会社の資金繰りだって、今すぐ解決するじゃない!」
美咲の口から飛び出した最悪の犯罪教唆に、部屋の中が一瞬、静まり返る。
かつて中学時代に、自分の実家を破滅に導いた原因でもある「暴力による解決」という最低の暴走。それを、美咲は自分の立場を守るため、今度は自ら主導して引き起こそうとしていた。
「ククッ……嬢ちゃん、言うてくれるやないか。ガキの分際で、拉致だの拉致監禁だの、物騒なことを提案しよる」
城崎が不敵に目を細め、ニヤリと笑った。
「いいじゃないですか、城崎さん! 藤堂さんが世界一になるためよ! あいつらを泥水の中に引きずり落として、私たちがカーストの頂点に立つのよ! そのためなら、私は何だってやるわ!」
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