第十七話:夏休み明けの静寂と、劇的な再起動
六月の結衣の発表会は大成功に終わり、我が家には誰もが羨むような幸福な空気が満ちていた。父親の健康状態も完全にオールグリーン、母親も心にゆとりが生まれ、佐藤家の家庭内はこれ以上ないほど強固に安定していた。
そして季節は巡り、長くて短い夏休みが終わりを告げた。
九月、新学期初日。一年二組の教室には、久々に顔を合わせる同級生たちの騒がしい声が響き渡っていた。
「ねえねえ、夏休みどこ行った? うち、軽井沢の別荘に行ったんだよね!」
「いいなー! うちはおじいちゃん家に行くだけだったよ」
そんなありふれた会話の中心にいるのは、やはり高橋美咲だった。彼女は一学期の終わりに俺に言い負かされたことなどすっかり忘れたかのように、再び取り巻きを従えて、夏休みの自慢話に花を咲かせている。
「まぁ、軽井沢もいいけどさ。やっぱり本物の社長令嬢なら、ハワイくらい行かないとね。パパの会社が今度、新しい通信の大規模なプロジェクトに関わるらしくて、その前祝いとして連れて行ってもらったの。ほら、これがお土産のチョコレート!」
「きゃー! 美咲ちゃん、やっぱり格が違う!」
「パッケージからして英語でオシャレ〜!」
美咲は満足そうに胸を張り、カーストの頂点に君臨する快感に浸っていた。だが、その視線が教室の入り口へ向いた瞬間、彼女の誇らしげな笑顔がピキリと凍りついた。
同時に、それまでガヤガヤと騒がしかった教室が一瞬にして静まり返る。
すべての生徒の視線が、教室のドアの前に立つ『一人の少女』へと、磁石のように吸い付けられていた。
「え……誰、あの子……?」
「転校生……? いや、でもうちの制服着てるぞ……」
「嘘だろ……めちゃくちゃ美人じゃん……」
ざわめきが波のように広がる。
そこに立っていたのは、長く艶やかな黒髪を後ろできれいにハーフアップにまとめ、誰もが二度見するような洗練された佇まいを見せる、絶世の美少女だった。
一学期までのクラスには、あんなにスタイルの良い、華のある女子は存在しなかったはずだ。何より、その上品で知的な顔打ちは、アイドルのそれをも遥かに凌駕していた。
だが、その少女が、おずおずとした足取りで、教室の最深部――白雪華の席へと歩き始めたとき、クラス全員の脳内に致命的な処理エラーが発生した。
「嘘……っ。嘘でしょ……!? あいつ、白雪……なの……!?」
美咲の取り巻きの一人が、絶叫に近い声を上げた。
そう、そこにいたのは白雪華だった。
一学期までの、ふくよかで前髪を垂らし、いつもおどおどと周囲の目を気にしていたあの地味な少女の面影は、どこにもなかった。
俺が夏休み中も徹底してアドバイスし続けた最新の栄養学メニュー、そして源さんの家でリラックスしながら創作に打ち込める精神的救済環境。それらが彼女の身体の代謝システムを完全に正常化させ、ふくよかさに隠されていた『本来の美貌』を現世に顕現させたのだ。
華はクラス中の驚愕の視線を浴びながらも、うつむいて逃げるようなことはしなかった。
彼女は、俺が教えた通りの美しい姿勢を保ち、上品な足取りで、真っ直ぐに俺の席の前へと歩み寄ってきた。
そして、俺の前に立つと、彼女は周囲の誰もが惹き込まれるような、凛とした、しかしどこか特別に柔らかい、世界一美しい笑顔を咲かせた。
「佐藤くん……おはよう、ございます。……夏休み中は、いろいろと、お世話になりました。その……今日のわたし、変じゃ、ないかな……?」
声にはまだ、ほかつてのおどおどした名残がある。けれど、その内面には、世界的なトップイラストレーターとして自立し始めた、確固たる『芯』が宿っていた。性格の明確な変化が、彼女の言葉の端々から感じ取れる。
「おはよう、白雪さん。どこも変じゃないよ。むしろ、俺の計算以上に綺麗だ。夏休み中の努力が、完璧な成果として出ているね。とてもよく似合っているよ」
俺が席から立ち上がり、穏やかに微笑みながら答えると、華は嬉しそうに瞳を潤ませ、白い頬をほんのりとサクラ色に染めた。
「うん……っ! 佐藤くんが、毎日はげましてくれたから……わたし、がんばれたの。本当に、ありがとう……っ」
それを見ていたクラスの男子たちは、あまりの華の美しさと、俺に対する彼女の特別な態度に、激しい嫉妬の混じったため息をもらした。
「おいおい……白雪って、あんなに化けるのかよ……」
「佐藤の奴、夏休み中に白雪と何してたんだよ……クソッ!」
そして、その光景を最も信じられないといった様子で見つめていたのが、高橋美咲だった。
彼女は自分がハワイ土産で築き上げたばかりの小さなプライドの城が、華が降臨した瞬間に跡形もなく粉砕された現実を受け入れられず、顔を真っ赤にして身体を震わせていた。
「な、何よそれ……何よその格好! ちょっと痩せたからって、調子に乗ってんじゃないわよ白雪!」
美咲は耐えかねたように、俺と華の間に割り込もうと激しい足音を立てて近づいてきた。
「あんたみたいな根暗なブタが、ちょっと見た目を変えたくらいで、私より上になったつもり!? どうせ、変なダイエット薬でも飲んだに決まってるわ!」
ヒステリックに叫ぶ美咲。だが、一学期までの華なら、この言葉に傷ついて泣き出していたかもしれない。
しかし、今の華は違った。
華は穏やかな表情を崩さないまま、美咲の目を真っ直ぐに見据え、きっぱりとした、凛とした口調で静かに言い放った。
「高橋さん。私のことは、どう言っても構いません。でも……佐藤くんのことを、悪く言うのはやめてください。佐藤くんは、あなたのお父さんの会社よりも、ずっと広い世界で、本物の素晴らしいお仕事をしているんですから」
「な……っ!? あんた、私に向かって、何言ってるのよ!?」
「事実を言っているだけです。私は、佐藤くんの技術と、佐藤くんの言葉だけを信じています。だから……あなたのその意地悪な声は、今の私たちには、一文字も届きません」
華の放つ、圧倒的な正妻の風格と、有無を言わせない経済的・精神的な余裕のオーラ。
それは、美咲の「中の上」の容姿や、父親の会社の安っぽい威光など、並ぶことすらおこがましいほどの完全な公開処刑だった。美咲の取り巻きの女子たちすらも、華のあまりの気品と正論に気圧され、美咲の後ろで完全に硬直している。
「もういいだろ、高橋さん」
俺が冷淡に追い打ちをかけると、美咲は悔しさと、自分のカーストが完全に崩壊した絶望から、ついに言葉を失ってその場にへたり込み、大粒の涙を流して大号泣し始めた。
「……っ、う、うわぁぁぁん! みんな大嫌い! パパのお仕事の方が、絶対にすごいに決まってるのにぃぃぃ!」
泣き叫びながら自分の席へと逃げ戻る美咲。だが、クラスの誰も、彼女を慰めようとはしなかった。
朝のチャイムが鳴り、静寂を取り戻した教室で、俺は再び席に座った。
後ろの席から、華がそっと机の隙間から俺の制服の袖を指先で引き、穏やかに微笑んだ。
「佐藤くん……わたし、ちゃんと言えた、かな……?」
「ああ、完璧だったよ、白雪さん。君はもう、誰にも負けない強い女の子だ」
「ふふっ、強い女の子だなんて……。でも、佐藤くんの隣にいるためなら、わたし、もっと強くなれる気がするよ」
前髪をきれいに分けた華の瞳には、かつてのおどおどした不具合の影は一切なく、未来の幸福へ向けて、どこまでも澄み切った光が輝いていた。
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