第十六・五話(華視点):消えない温度
夏休みが始まってから――ううん、佐藤君が庇ってくれた日から私の世界は、まるで知らない誰かの手によって新しく書き換えられていくみたいに、ものすごいスピードで変わり始めていました。
じっとりと汗ばむような、うだるような暑さの七月の午後。
私は、源さんの家の『秘密基地』にある、大きな姿鏡の前にぽつんと立っていました。
「白雪さん、今日のメニューの進捗はどうかな。……うん、データ通りだね。順調に、君の身体が正常な数値を刻み始めてるよ」
隣でノートパソコンを叩きながら、佐藤くんがいつものように、大人びた優しい声で私に話しかけてくれます。
「あ……う、うん……。佐藤くんが教えてくれた、お野菜のスープとアボカドのサラダ……お母さんに毎日作ってもらって、ちゃんと、食べてる、よ……? なんだか、最近、あんなに重かった身体が、嘘みたいに軽くて……」
鏡の中に映る自分を見て、私は自分の手で、そっと自分の頬に触れました。
一学期までの私は、クラスの男の子たちから「ブタ」とか「根暗」って、陰でクスクス笑われるような、丸くて地味な女の子でした。鏡を見るのも大嫌いで、いつも長い前髪で顔を隠して、教室の片隅で息を潜めるようにして、大好きな絵を描くことだけが私の逃げ場所だったのに。
でも、今の鏡の中にいる私は、なんだか、少しだけ違っていました。
佐藤くんが、海外の難しい論文(お仕事のデータ、って言っていました)から調べてくれた、私専用の食事のメニュー。それを一ヶ月続けただけで、顔の周りの余分なむくみがすっきりと落ちて、お肉に埋もれていた顎のラインが、自分でもびっくりするくらい、きれいな形を見せ始めていたのです。
「まだ、ちょっと、信じられなくて……。本当に、これが、私なのかなって……。佐藤くんが、変な魔法を、私にかけちゃったんじゃないかって……」
おどおどとした口調で、消え入りそうな声で呟く私に、佐藤くんはキーボードを叩く手を止めて、真っ直ぐに私を見つめました。
「魔法なんかじゃないよ、白雪さん。これが、君の本来の姿なんだ。ふくよかさに隠れていた君のパーツは、どれも一級品のデザインで構成されている。俺はただ、それを取り除くお手伝いをしただけさ。だから、もっと自分に自信を持っていいんだよ」
「じ、じしん、なんて……そんなの、急には、持てない、よ……っ」
私はカッと顔が熱くなって、慌てて両手で顔を隠しました。
佐藤くんは、いつもそうです。学校の男の子たちみたいに、からかったり、意地悪な目で値踏みしたりすることなんて絶対にありません。まるで、世界で一番価値のある宝物を取り扱うみたいに、私の絵も、私の心も、私の身体のことも、全部を優しく、全肯定してくれるのです。
そのたびに、私の胸の奥が、ぎゅーっと甘酸っぱく締め付けられて、なんだか熱いお湯が溢れそうになってしまいます。
(佐藤くんは、どうして、私にこんなに優しくしてくれるんだろう……?)
中学に入ったばかりの私には、この胸の痛みの名前が、まだ完全には分かりませんでした。でも、佐藤くんの傍にいると、心臓の音がうるさいくらいにドキドキして、彼が他の女の子とお仕事の話(美咲さんみたいな、意地悪な人じゃなくて、源さんとか大人の人の話です)をしているだけで、なんだか胸の奥がチリチリと焼けるように痛くなることだけは、知っていました。
「あの……さ、佐藤くん……」
「ん? 何かな、白雪さん」
「あのね……わたしの、この絵……アメリカの人たちが、すごく、褒めてくれたって、この前言ってた、よね……?」
「ああ。君の描いたマスコットキャラクターのおかげで、俺のソフトは今、世界中のエンジニアから絶賛されてる。君の才能は、もう世界が認めた本物の資産なんだよ」
「……ううん。世界の人に、褒めてもらったのも、もちろん、すごく、嬉しい、けれど……」
私は、自分の制服のスカートの裾を、小さな手でぎゅっと握りしめました。
心臓が、トントンと激しいビートを刻んでいます。恥ずかしくて、消えてしまいそうなのに、どうしても、この気持ちだけは佐藤くんに伝えたくて、私は勇気を振り絞って、前髪の隙間から彼の目を見つめました。
「わたしは……世界の人よりも……さ、佐藤くんに、綺麗だって……上手だねって、言ってもらえるのが……一番、うれしい、な……っ」
あ……言っちゃった。
言った瞬間、自分の言葉の恥ずかしさに耐えかねて、私は頭から湯気が出そうなくらい真っ赤になって、その場にしゃがみ込んでしまいました。
「白雪さん……?」
「う、嘘じゃないよ……っ! 佐藤くんが、わたしの絵を、世界で一番最初に『価値がある』って言ってくれたから……っ。だから、わたし……佐藤くんの、お仕事の、役に立ちたいの……っ」
お膝に顔を埋めて、消え入りそうな声で一生懸命に叫ぶ私。
そんな私の頭の上に、ぽんと、温かくて大きな手が載せられました。
佐藤くんの手です。十二歳の男の子のはずなのに、どうしてこんなに広くて、安心するんだろう。彼の手が、私の髪を優しく、愛おしそうになぞっていきます。
「ありがとう、白雪さん。君にそう言ってもらえるのが、俺にとっても、何よりのシステム稼働の原動力だよ。君のその真っ直ぐな言葉に、俺は何度も救われてるんだ」
「救われてる、なんて……大袈裟、だよ……?」
「大袈裟じゃないさ。……さあ、夏休みはまだ始まったばかりだ。秋の新学期には、あの教室の誰もが君から目を離せなくなるような、パーフェクトな君を完成させよう。そして世界中の人を魅了する絵が発信できるように俺が、ずっと隣でサポートするからね」
「うん……っ。佐藤くんが、隣にいてくれるなら……わたし、どんなことでも、がんばる、ね……っ」
お膝から顔を上げた私の目に、佐藤くんの、優しく澄み切った瞳が映り込みました。
まだ、この気持ちに『恋』っていう名前をつけて、佐藤くんに伝える勇気は、今の私にはありません。じれったくて、もどかしくて、甘酸っぱい、感情。
だけど、夏休みの終わりの新学期――新しく生まれ変わった私の姿で、佐藤くんの隣にしっかりと立って、いつかあの意地悪な人たちから、今度は私が佐藤くんを守れるくらい、強い女の子になりたい。
胸の奥の、消えない温かい温度を大切に抱きしめながら、私は佐藤くんの手のひらの感触を、一生忘れないように、その心に深く、深く刻み込んでいました。
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