Episode7. 補佐官ハンスと試練の予告
部屋に満ちた沈黙は、鋭利な刃物のようだった。
扉の前に立つハンス・ヴェーバーは、眼鏡の奥の瞳で、「リリアの姿をした主君」を射抜くように凝視している。
まさに、心臓を凍らせるようなその静寂。だが、アルベルトは動じなかった。
「――はぁ……。なんだ、ハンスか。驚かせるな。……問題ない、リリア。こいつには、最初から話そうと思っていたんだ」
「……そう、なの?」
「ああ」
アルベルトにとって、ハンスは単なる補佐官ではない。年はアルベルトが三つ下だが、二人は同じ乳母に育てられた「乳兄弟」であり、戦場でも政争の場でも背中を預け合ってきた、この世界で唯一、己のすべてを曝け出せる相手。
アルベルトは安堵の息を吐いたが、同時に、ハンスを鋭く見上げる。――リリアをここまで怯えさせるとは、いくらお前でも許さんぞ、と。
すると、ハンスは眼鏡を指先で押し上げ、「リリアの姿をしたアルベルト」を、深々と見下ろした。
「……その不遜なまでの口調……仇に向けるような態度。……まさかとは思いましたが、本当に入れ替わっているのですか、閣下」
「お前、分かっていて言ったんじゃなかったのか? だいたい、不遜なのはお前の方だぞ。さっきから主人を見下ろすな」
「ああ、いえ。これは失敬。……正直、半信半疑でしたので……。ですが、閣下。リリア様のお身体はとても小さく、見下ろすなという方が無理な話――」
「……ハンス、お前、さっきから俺をおちょくっているのか?」
「まさか、滅相もありません。これが私の通常運転ですよ。閣下はよくご存じでしょう?」
「…………」
アルベルトはリリアの可憐な顔で、苦々しく眉根を寄せた。ハンスのこの「食えない性格」には、子供の頃から一度も勝てた試しがない。
リリアは、二人のやり取りを呆気にとられたように見つめていた。アルベルトが、これほどまで剥き出しの感情を見せ、誰かに信頼を寄せている姿を、彼女は初めて見たのだ。
アルベルトは長く重い息を吐くと、椅子に深く座り直し、リリアのしなやかな足を無造作に組む。
「もういい。ハンス、今日の報告をしろ。閣議はどうなった。国境は」
「――はい。では、まず閣議の方から」
瞬間、ぴりりと部屋の空気が張り詰める。
アルベルトの横顔は、確かにリリアであるのに、リリアではあり得ない厳しさがあった。
リリアは、その空気がいたたまれず、遠慮がちに問いかける。
「……ね、ねえ、アルベルト。私は、一度席を外した方が……?」
だが、アルベルトは即座に首を振った。
「いや、居てくれ。今の君は『アルベルト』だ。この家の現状、そして国境の情勢を知っておく必要がある。……ハンス、報告はリリアにも分かるようにな」
ハンスは一つ頷くと、冷徹な軍師の顔を見せる。
彼は胸元から一通の書簡を抜き出し、アルベルトに手渡した。
「本日の閣議ですが、グスタフ将軍をはじめとする反対派は、リリア様の見事な一喝により一時的に沈黙しています。ですが、彼らは閣下の変調を『精神的な疲労』と見て、隙を伺うでしょう。……それから国境ですが、隣国との緩衝地帯で不審な傭兵団の動きがありました」
リリアが「えっ」と息を呑む。
「……それについては、既に手を打ってあります。彼らの兵站路を三つほど……合法的に潰すよう策を講じました。これで一週間と持たず、撤退せざるを得ないでしょう。当面、物理的な衝突はないはずです。……ですが、閣下」
ハンスは眼鏡の奥の光を一段と鋭くした。
「国境の火種よりも、はるかに厄介な爆弾が二週間後に控えています。……王太子セドリック殿下の、ノイシュタイン御来訪。そして、歓迎の舞踏会です」
アルベルトの頬が、ピクリと引き攣った。
――セドリック・フォン・エシュリオン。
この国の王太子であり、同時に、リリアの幼馴染だ。年齢はアルベルトの三つ下、リリアの二つ上で、二十歳。人懐っこく太陽のような輝きを放つ男だが、本質は極めて冷静で現実的。王族随一の智謀家であり、そしてリリアに異常なまでの執着を見せる、蛇のような男。
「殿下は非情に勘の鋭いお方。入れ替わった貴方が、淑女としての完璧な振る舞いを見せられなければ、一瞬で正体を見抜かれるでしょう。発言にも一言一句、気をつけなければなりません。特に、舞踏会でのダンスは逃げ場がない。お二人はホストなのですから」
ハンスは、アルベルトとリリアの二人を交互に見据えた。
「アルベルト様。貴方はリリア様として、殿方のリードに身を任せ、優雅に、かつ可憐にステップを踏む。逆にリリア様は、閣下として、エスコートのすべてを完璧にこなし、殿下に付け入る隙を与えない覇気を見せる。……明日から二週間、お二人の睡眠時間を極限まで削り、互いのステップと立ち居振る舞いを、文字通り骨の髄まで叩き込ませていただきます」
「……ま、待て、ハンス! つまりお前は、俺に、あのセドリック相手に、女のステップを……あの男に抱かれて踊れと言うのか!?」
「ええ、その通りです。ホストが客をもてなすのは当然でしょう。殿下は必ず、リリア様をダンスに誘われる。その相手は、貴方ですよ、閣下」
「……っ、そんな……そんな無様な真似ができるか!! あの男と踊るくらいなら、崖から飛び降りる方がマシだ!!」
「いいえ、閣下。貴方に拒否権はありません。殿下は我らと同じ王党派ですが、だからといって、隙を見せていい相手ではない。まして、当日は北部のみならず、王都からも大勢の貴族がやってきます。貴方が淑女として完璧でなければ、このノイシュタインを守ることはできませんよ。……お覚悟は、よろしいですね?」
ハンスの冷静な正論に、アルベルトは押し黙る。
ハンスは、それを肯定と受け取り、今度は緊張で固まるリリアに向かって、優しく、しかし有無を言わせぬ笑みを向けた。
「リリア様。貴女のお身体は繊細ですが、かと言って、無理をさせないというお約束はできません。明日からは、閣下には地獄を、貴女には『効率的な極限』を味わっていただきます。……さて、長い二週間になりそうですね」
ハンスは礼儀正しく一礼し、嵐のような宣告を残して部屋を後にした。
残されたアルベルトは、呆然と、リリアの華奢な白い指先を見つめる。
(……俺が一体何をしたというんだ。このような仕打ち、あんまりだ……)
夕闇が深まる公爵邸。
信頼する乳兄弟を共犯者に加えつつ、アルベルトは頭を抱えた。




