Episode6. 残照の審判
窓の外、地平線の端からは、夜の帳が静かに忍び寄っている。
夕闇に沈むリリアの自室で、アルベルトは羽ペンを走らせ、(自分の書斎からこっそり運んできた)山積みの軍務書類を整理していた。
だが、リリアの華奢な腕はあまりに頼りなく、書類運びと数時間の書き物をしただけで、鈍い痛みが走る。
(……まさか、この程度で疲労を感じるとは。女の身体とは、これほどまでに軟いのか)
リリアの体に負担をかけすぎてはいけない。
アルベルトは作業の手を止め、入れ替わりの原因を探ろうと、昨日の自分の足跡を頭の中で一つずつ思い出すことにした。
昨日は、建国神を祀る安息の日曜日。軍事大国エリュシオンにおいて、日曜の朝に軍神へ祈りを捧げることは、平民から貴族に至るまで、法にも等しい厳格な義務である。
アルベルトもまた、朝一番に屋敷内の冷え切った礼拝堂へと足を運んだ。隣には、完璧な淑女の作法で跪くリリア。二人は一言も交わさぬまま、軍神の石像の前で頭を垂れた。
その後の行動も、いつも通りだった。
午後からは騎士団の調練を視察し、夕刻前には独りで書斎に籠もる。その後、夕食の席で、彼女に婚約破棄を突きつけた。
彼女をこの戦いの日々から、家の呪縛から解放してやりたいという、彼なりの祈りにも似た決断として。
(どこにも、異常の兆候はなかった。だが、現実に俺たちは入れ替わっている……。神の不条理な試練とでも言うのか)
アルベルトは、リリアの細い指で己の眉間を揉んだ。
彼の脳裏に、お茶会での自身の台詞が蘇る。
『わたくしはあの方に、愛など欠片も求めていない。あの方も同じでしょう』
あの言葉は、アルベルトにとって、まぎれもない真実だった。
自分はリリアから、愛を貰おうなどとは思っていない。自分が彼女を一方的に愛しているだけだ。
そしてまた、リリアがここにいるのは、ヴァロア家の宿命のため。
リリアと婚約を破棄すれば、王弟派に付け入る隙を与えることになるだろうが、だからといって、リリアをこのまま縛り付けておくわけにはいかない。
(一刻も早くこの入れ替わりの原因を特定し、彼女を解放してやらねば……)
そんな中、部屋の扉が、ノックもなしに開いた。
そこに立っていたのは、アルベルトの逞しい体躯を借りた――今にも崩れ落ちそうなほど憔悴したリリアだった。
肩は小刻みに震え、王国最強の騎士と謳われるその瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっている。
「リリア!? どうした、何があった!」
アルベルトは椅子を蹴るようにして立ち上がり、彼女のもとへ駆け寄った。
「グスタフの奴らに何かされたか? それとも、誰かに正体を怪しまれたのか!?」
「ア、アルベルト……」
リリアは、アルベルトの大きな手で顔を覆った。その野太い声が、悲鳴のように湿って響く。
「バレては……いないわ。でも、私、やってしまったの……。黙っていろって言われていたのに、大声で、あんな……あんなことを……!」
リリアは途切れ途切れに、自分が「お黙りなさい」と叫んでしまった失態を告白した。
アルベルトは一瞬絶句したが、すぐに彼女の肩を強く掴んだ。
「気にするな。たかが失言だ。俺が普段から不機嫌なのは周知の事実。聞き間違いで押し通せる」
「いいえ……。押し通せなかったのよ。将軍たちは誤魔化せても……ハ、ハンスは……」
「――ハンス?」
アルベルトが問いかけようとした、その時だった。
開け放たれたままの扉から、もう一つの、あまりにも理性的で冷徹な足音が響いた。
「――リリア様のおっしゃる通りです。将軍たちは猪同然ですから、閣下の語尾の変化など、一晩寝れば忘れるでしょう。ですが、私の目は誤魔化せません」
「!」
その声に振り返ると、そこには眼鏡の縁を光らせ、完璧に整った身なりで立つ男がいた。
アルベルトの右腕であり、ノイシュタイン公爵家の頭脳。補佐官ハンス・ヴェーバー。彼は予定を早めて国境から戻り、ちょうど閣議の終盤に、その「異変」を目撃していたのだ。
ハンスは静かに部屋へ入り、扉を閉めた。カチリ、という錠の音が、室内の空気を一変させる。
彼は憔悴したリリアと、リリアの姿をして立ち尽くすアルベルトを、眼鏡の奥の鋭い瞳で交互に見つめた。
「アルベルト様。……いえ、リリア様を演じていらっしゃる、我が主君よ」
ハンスは、慇懃無礼なまでの笑みを浮かべた。
「たった一日貴方のお側を離れただけで、何故このような事態になっているのか……」
夕闇の部屋。秘密を完全に掌握した切れ者の補佐官が、二人の前に立ちふさがる。
「今すぐ、ご説明いただきましょうか」




