Episode5. 氷の公爵、温室で毒を食らう
その頃。アルベルトは、邸宅の温室でお茶会に臨んでいた。
今日の茶会の主催者はリリアだ。
王都から「慰問」と称してやってきた有力貴族の夫人をもてなすための会で、リリアがこの公爵家の夫人になるのに相応しいかを試される、花嫁修業の一環でもある。
ガラス越しに差し込む陽光は、北国の寒さを忘れさせるほどに温かい。温室内には、花が好きなリリアのために取り寄せた極彩色の異国の花々が咲き誇り、甘ったるい香りが充満していた。
だが、その陽だまりの空間で、アルベルトはかつてないほどの寒気を感じていた。
(……リリアは、今頃どうしているだろうか)
慣れない淑女の座り方に苦労しながら、アルベルトは脳内でリリアの姿を追っていた。
ノイシュタイン城での閣議。そこは、理屈よりも「力」が優先される場所だ。
あの将軍たちの怒号に、彼女の心は折れていないだろうか。怯えてはいないだろうか。
一度は「泣いているのではないか」と案じた。だが、すぐに考えを改める。
幼い頃から見てきた彼女は、誰よりも我慢強く、そして頑固だった。転んでも自分の手を借りることを拒み、泥だらけの顔で笑ってみせた少女。
あの強情さが、今の状況で裏目に出ていなければいいが……。
(怯えていても困るが、あの強情さを出されていても……。とにかく、無事に戻ってくれれば、それでいい)
アルベルトがリリアの青い瞳を憂いに沈ませていると、その沈黙を「敗北」と捉えたのか、目の前に座る毒舌な伯爵夫人たちが、優雅な手つきで扇子を広げた。
「あら、リリア様。先ほどから溜息ばかり。閣下との冷え切った関係は、やはりこの美しい温室の花でも癒せませんのね?」
「王都では、誰もが噂しておりますのよ。公爵閣下は、貴女様をこの邸宅に閉じ込めて、蔑ろにしているのではないかと」
「先日の舞踏会も、閣下はおひとりで参加されたそうじゃない。パートナーすら任せてもらえないだなんて」
アルベルトは、ゆっくりと視線を上げた。
夫人たちは扇子で口元を隠しているが、その瞳には明らかな嘲笑が宿っている。周囲の令嬢たちも、クスクスとさざ波のような笑いを漏らした。
(……なるほど。実にくだらんな)
アルベルトは内心で冷笑した。
夫人たちの言葉は、彼にとって「蚊が鳴くようなもの」だった。軍事戦略の駆け引きに比べれば、この程度の嫌味はあまりに稚拙だ。
言い返すのも、捻り潰すのも実に容易い。
ただ一つ問題があるとすれば、自分が今、リリアであるということだった。
リリアならばここで俯き、力なく微笑んで、嵐が過ぎるのを待っていたはず。彼女の本質は芯の強さにあるが、普段は『深遠の令嬢』を装っている。きっと、これまでは、まともに言い返すことすらしなかったのだろう。
――だからこそ、目の前の夫人たちは図に乗っている。
(さて、俺は彼女として、どう振る舞うべきか)
正直、この状況は不愉快極まりないが、リリアに迷惑をかけてはいけない。沈黙が彼女の戦い方だというのなら、それに従わなければ。
アルベルトは一先ず沈黙で押し通そうとする。だが、そんなアルベルトに、夫人の一人が、愚かにも踏み込んだ。
「あら、リリア様。すっかり黙り込んでしまって。図星でしたかしら? この分では、婚約破棄をされるのも時間の問題ではなくて?」
――婚約破棄。
その言葉に、アルベルトの心臓が不快に跳ねた。
確かに、アルベルトはリリアに婚約破棄を突きつけた。だがそれは、彼女を愛しているからこそだ。この不毛な地から彼女を解放してやりたいという、自分なりの決死の覚悟。
それを、『愛がないから』と決めつけられたことに、強い怒りが込み上げる。
「……愚問、ですわね」
刹那――リリアの、鈴を転がすような声が響いた。だが、その響きにはアルベルト本来の、絶対的な支配者の冷気が宿っていた。
「よもや伯爵夫人ごときが、ヴァロア家の人間であるこのわたくしに、愛の何たるかを説くつもりか?」
アルベルトは、リリアの口調をそっくりそのまま模倣した――つもりだった。だが、怒りのあまり、うっかり語尾に素が出てしまう。
「閣下がわたくしをこの地に留めているのは、このノイシュタインを――ひいては王国を守るため。わたくしの存在が、北の結束を強めるからに他ならない。それを……『婚約破棄』などと、この国の在り方を理解していない証拠ではないのか?」
口調は不自然ながらも、しごく冷静な正論。
――ヴァロア侯爵家とノイシュタイン公爵家の間には、建国以来続く「血の盟約」がある。食糧生産と物流を握るヴァロア家と、軍事の要であるノイシュタイン家。この二家が結ばれることは、王国の繁栄と秩序の象徴であり、代々、ヴァロア家の女子は、ノイシュタイン家に嫁ぐのが慣わしだ。
つまり、アルベルトとリリアの婚約は必然であり、宿命だった。アルベルトが五歳のときリリアが生まれ、その瞬間に、二人の婚約は成立したのだから。
そこに、愛の介入する余地など、あるはずがない。
「わたくしは閣下に、愛など欠片も求めていない。あの方も同じでしょう」
「――なっ」
夫人たちは、リリアから放たれた異様な口調と威圧感に気圧されつつも、顔を真っ赤にして食い下がる。
「……つ、強がりを! 北の結束だなんて言って、あなたが閣下に愛されていないことは事実でしょう! それを、よくもまあそんな澄ました顔で……!」
「フッ。……そうですわね。 もし、閣下がこの婚約を解消することがあるとすれば、それは『リリア・ド・ヴァロア』という駒が、この盤面において不要になったとき。そこに愛などという不確かな感情が入り込む余地は、最初から存在しない」
――言いながら、アルベルトは内心唇を噛み締めた。
リリアを守るために口にした、完璧な正論。だが、『リリアが自分に愛など欠片も求めていない』という、自らが信じ込み、自分に言い聞かせてきた現実を、いま彼女自身の口を使って宣言してしまった。
その事実に、胃の底からせり上がるような吐き気を覚えた。
アルベルトは、ずっとこう考えてきた。
リリアは家の都合で俺に縛り付けられているだけだ。俺のような、鉄と血の匂いしかしない男を、彼女が好くはずがない。好きでもない男から愛を向けられることほど、淑女にとって不快なことはないだろう――と。
だからこそ、彼は必要以上に彼女に触れず、距離を置き、淡々と振る舞ってきた。それが彼女への唯一の礼儀だと信じて。
(……ああ。そうだ。俺たちは、こうして義務だけで繋がっている。そうでなくてはならない。……だというのに、なぜこんなにも苦しいんだ)
アルベルトが内に秘めた激情を押し殺そうとすればするほど、リリアの小さな身体から、隠しきれない殺気が漏れ出す。
「……っ! ひ、ひっ……!」
温室内の気温が一気に下がる。
夫人たちは、目の前の少女が放つ、言葉にできない「何か」に震え上がった。その眼光は、もはや可憐な少女のものではない。自分たちの首筋を今にも断ってしまいそうな、冷徹な死神のソレだ。
「……あ、あら。わたくし、急用を思い出しましたわ!」
「ええ、わたくしも! お暇させていただきますわね!」
蜘蛛の子を散らすように、夫人たちは逃げ帰っていった。
その背中を煩わし気に見送って、アルベルトは静寂が戻った温室で、ひとり小さく、溜め息をついた。




