Episode8. 夜明けの鏡像
アルベルトが倒れて、四日目の朝。
カーテンの隙間から差し込む陽光の中、アルベルトは、泥の底から意識を浮上させた。
視界が白く明滅する。……朝日が、眩しい。自分は一体どれほど長く眠っていたのか――酷く、頭痛がした。
「……っ……、…………」
(……何だ? 腹に……何か)
アルベルトは腹部に重みを感じ、首を向ける。
すると、視界に飛び込んできたのは、自分の身体に覆い被されるように伏せっている、自身の頭部だった。
「……リリ、……ア?」
アルベルトは目を見張る。
リリアが、アルベルトの大きな手を、自分の細い指先にそっと重ねたまま眠っていた。その顔は蒼白で、唇は乾ききり、誇り高き公爵の面影はどこにもない。
(なぜ、こんなにやつれている……?)
アルベルトは困惑した。けれど、すぐに、その理由に思い当る。
(……ああ、そうか。彼女は、もう知ってしまったんだな。自身がセドリックに失恋したことを)
アルベルトは、リリアの下敷きになっている小さな掌をそっと引き抜き、体の感覚を確かめるように、強く握り締めた。
罪悪感に、身が焼けるようだ。
(……すまない。リリア。俺が、君の恋をめちゃくちゃにした。君が掴み取るはずだった未来を……君の幸せを、俺が全て壊してしまった。あまつさえ……君の身体を、こうして危険に晒してしまった)
アルベルトの脳裏に、温室でのセドリックの言葉が蘇る。
――『僕たちは兄妹みたいなものじゃないか』。
あの男は、リリアを異性としてではなく、妹としてしか見ていないと断言した。
リリアはセドリックを愛しているが、セドリックはそうではない。考えてみれば当然だ。リリアは自分の婚約者。それも、『血の盟約』で結ばれた強固な関係。
そこには、たとえ王太子であろうと入り込む隙はない。つまりセドリックは最初から、リリアを他の男の物であることを理解し、立場を弁えていたということだ。
だが、セドリックにそう思わせてしまった原因は間違いなく自分にある。
もし、自分がもっと早くにリリアを解放していれば、彼女はセドリックに想いを告げることができたはずだ。あるいは、愛を育むこともできただろう。
兄妹のような関係ではなく、異性として。
それを、俺が壊してしまったのだ。
――にも関わらず。
アルベルトは、やつれた顔で寝息を立てる、自身の寝顔を見つめた。
(どうして、彼女はここにいる。なぜ、好きでもない……疎ましい男の看病をしなければならないんだ。こんなの、あんまりだろう)
体が入れ替わってしまったばっかりに、彼女は、自分の幸せを壊した男のそばに居続けなければならない。失恋の痛みに耐えながら、その原因である俺を、看病しなければならない状況に追い込まれている。
これほどの悲劇が、他にあるだあろうか。
「…………すまない、……リリア。……本当に、すまない」
アルベルトは、掠れたリリアの声で懺悔する。
俺は、どれだけ彼女を苦しめれば気が済むのだろう。
どうやって、彼女に許しを乞えばいいのだろう。
彼女の心も、体も、散々傷付け、苦しめておいて、今さら、どう接しろというのだろう。
本当は、今すぐ逃げ出してしまいたかった。
けれど、「リリア」の身体を占拠してしまっている状態で、逃げ出すなど不可能だ。
「……ん…………」
その時、不意に、リリアの瞼が震えた。彼女はゆっくりと瞳を開くと、濃紺の瞳に、ぼんやりとアルベルトの姿を映し出す。
「アル……ベルト……?」
「…………リ……、リア」
アルベルトは、リリアからの罵声を、非難の言葉を覚悟した。――だが。
「……っ、アルベルト!」
彼女の声から漏れ出たのは、眩いばかりの歓喜と、果てしない安堵の声。
リリアは切れ長の目じりに瞬く間に涙を溜めたかと思うと、わっと泣き出し、両手で顔を覆ったのだ。
「ああ、本当によかったわ……! 私、心配したのよ! このままずっと、あなたが目覚めないんじゃないかって……、本当に心配したんだから……!」
「……っ」
(な……、なぜ泣く……?)
アルベルトは、呆けた声を上げそうになった。けれど、どうにか押し留まる。
――勘違いしてはいけない。彼女が心配しているのは、俺ではなく、俺が今入っているリリアの身体だ。
「済まない。……君の身体なのに、心配をかけたな」
「違う! 違うわ、そんなことどうだっていいのよ……! ごめんなさい、アルベルト。貴方は知ってしまったのよね、私の気持ちを、セドリックから聞いたのよね。――だから、貴方は……っ」
リリアは低く、嗚咽を漏らす。
――気まずさも、恋心が知られたという羞恥心も、今の彼女の心からは消し飛んでいた。
三日三晩、高熱に侵され、生死を彷徨った愛する婚約者。アルベルトが、呼吸をして、自分を見つめている。それだけで、もう、何もかもが十分だった。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい、アルベルト……。(貴方を愛してしまった)私を許してちょうだい。私、この入れ替わりが解決したら、すぐにここを出ていくと誓うから……。これ以上貴方の負担にならないようにするから……、だから……っ」
「……っ、…………まさか、君は(セドリックに妹としか見られていないということを)、最初から知っていたのか?」
「ええ、(私が貴方に嫌われていることなんて)最初からわかっていたわ……! なのに、卑しくも側に居続けて……、私は本当に最低の人間よ……!」
「…………リリア、……君は……そこまで(あの男を愛しているのか)」
アルベルトの心臓が、抉られるように痛む。
彼は悟ってしまったのだ。
リリアの涙を見て。今の言葉を聞いて。
彼女は最初から、「自分が失恋していることを――セドリックが自分を妹としか見ていないことを、知っていた」のだ、と。
――それは救いようのない誤解だった。
二人の間に流れる、互いを愛するがゆえの致命的なディスコミュニケーション。それはもはや、修復不可能と思われる地点まで転がり落ちていく。
だが、その時だ。
バタンと音を立てて扉が開き、快活な声が響き渡った。
「やあ、良い朝だね、アルベルト! リリーの様子はどうだい?」
それは部屋の陰鬱な空気を問答無用でぶち壊す、あまりにも場違いな、朗々とした朝の挨拶。
その声に二人が振り向いた先には、セドリック・フォン・エシュリオンがハンスを従え、太陽の如く清々しい笑みを湛えて、佇んでいた。




