Episode7. 真夜中の密会
アルベルトが倒れて三日目の夜。
リリアの部屋は、窒息しそうなほど重苦しい空気に沈んでいた。
――深い、あまりにも深い、アルベルトの昏睡。
彼は、リリアの身体で熱に浮かされながら、己の精神を自ら切り刻んでいた。
(……すまない、リリア。俺が、君の恋を殺した。……俺という不純な存在が、君の純粋な想いを汚したんだ)
アルベルトは、夢の中で何度もリリアに謝罪する。
暗闇の底。意識の最下層で、彼は自らを処刑し続けた。
目覚めることは、その罪を直視することに他ならない。だから、彼の精神は、目覚めることを拒絶した。
その傍らで、リリアは、荒い呼吸を繰り返すアルベルトを見守り続けていた。
三日間。彼女は食事も睡眠も、公爵としての公務の最小限を除いて拒絶し、愛するアルベルトの側に居続けた。
彼女が今握っているのは、寝台に横たわる、白く、細く、どこまでも頼りない自分の掌。
(……ごめんなさい、アルベルト。……私の想いが、貴方をこんなにも苦しめて)
セドリックの言葉が、耳元で呪いのように繰り返される。
――『そろそろ素直になったらどう?』
セドリックが、自分の恋心をアルベルトに伝えてしまった。それを知ったアルベルトは、あまりの嫌悪感から、心と体が耐えきれなくなってしまったのだろう。
リリアは、祈るようにアルベルトの細い指先を握りしめる。それはもはや看病ではない。
「自分を拒絶し、軽蔑の眼差しを向けるであろう愛しい男」への悲しみの懺悔だった。
――その光景を、部屋の入り口から観測している男がいた。
アルベルトの補佐官、ハンス・ヴェーバーである。
彼は眼鏡のブリッジを押し上げると、目の前に広がる「誤解という名の悲劇」から視線を外した。
その瞳の奥に宿るのは、自身に対する猛烈な憤怒だ。
(私が……しっかりしていれば)
ハンスは、セドリックが二人の入れ替わりに気付いていることを知っていた。にも関わらず静観を貫いたのは、己の驕りに他ならない。
アルベルトに「不測の事態への対応力」を求めた教育的配慮が、これほどまでにアルベルトの精神を摩耗させることになるとは、流石の彼も思わなかったのだ。
ハンスは、自らの計算違いを悔いた。
そしてまた、その「狂った計算」の端緒となった、増長した王太子を、これ以上野放しにしておくことはできなかった。
*
月明かりが、薄暗い室内を青白く照らしている。
セドリックは、部屋の片隅に置かれたチェンバロを優雅に奏でていた。旋律は物悲しく、しかし、どこか酔い痴れるような自己陶酔を含んでいる。
そんな中、不意に蠢く一つの影。 ――刹那、不遜な声が響き渡った。
「……演奏を、止めていただけますか。殿下」
扉の開く音さえしない。突如として現れた気配に、セドリックは鍵盤を叩く手を止める。
だが、セドリックは振り返らなかった。彼は、その声の主をよく知っていたからだ。
「……やあ、ハンス。随分遅かったじゃないか。待ちくたびれたよ。……もう、僕には会いに来てくれないのかと」
それは挑発でも、皮肉でもなかった。事実だ。
ハンスは、眼鏡の奥の瞳を鋭く細める。
「……扉の前に騎士の一人もいなかったのは、そういう訳ですか」
「ああ。僕らの話を聞かれるわけにはいかないし……万が一にでも、僕の可愛い護衛たちが傷付けられたら困るからね」
セドリックは、ハンスが纏う殺気を肌で感じながらも、あえて軽薄な笑みを崩さない。
対するハンスも、憤りを隠そうともしない。
「私の貴方に対する怒りを、理解していると?」
「そりゃあね。僕にだって良心くらいある。まさか、アルベルトがあれほどリリーへの想いを拗らせているとは、流石の僕も予想外だったんだ。……でも、それはハンス。君も同じじゃないのかな」
「…………」
セドリックは、音もなくチェンバロの椅子から立ち上がった。刺すような空気の中、カツカツと靴音を響かせ窓際のテーブルに近づくと、見せびらかすようにワインボトルを持ち上げる。
「久しぶりにどうだい? 一六三〇年産、『黒い瞳の聖母』だ。かつて我ら一族が、和解の儀でしか開けなかったと伝わる逸品だよ。……君に詫びようと思って、用意させたんだ」
「……詫び、ですか。その態度で」
「仕方ないじゃないか。これでも精一杯やってるよ。寧ろ褒めてほしいくらいだ」
「……全く」
ハンスは呆れた。
憤りを通り越し、諦めの息を吐く。――態度はともかく、ワインの意味なら知っていた。詫びの気持ちがあるのは、間違いないのだろう。
ハンスはそれ以上何も言わず、セドリックの反対側の椅子に腰かけた。
セドリックは、ハンスのグラスにワインを注ぎながら、まるで寄宿舎時代の旧友と再会したかのような、懐かしげな口調で問いかける。
「ねえ、ハンス。どうして君は僕に、この奇妙な出来事を前もって知らせておいてくれなかったんだい? 事前に知らせてくれれば、僕だってここまでしなかったのに」
それは、打算のない純粋な疑問だった。
ハンスは表情を変えることなく、淡々と答える。
「私はただ、貴方に気付かれなければ、他の誰にも気付かれない。そう判断しただけですよ。……まあ、結果はこのザマですが」
ハンスにとって、今回のセドリックの滞在は、アルベルトへの過酷な試験でもあった。
この度の不可解な入れ替わり――これを乗り越えるには、例えどのような理不尽な状況でも、どれほど狡猾な相手であっても、欺き通す力が必要だ。
つまり、ハンスはセドリックを利用して、アルベルトを鍛えようとしたのである。
「……なるほど。実に君らしいやり方だ。忠犬の振りをして、やることがえげつない」
「振りなどと。私はアルベルト様に忠誠を誓っております。それに……えげつない、とは。貴方にだけは言われたくありませんね。いい加減、子どもっぽい悪戯は卒業しては? いい年なのですから」
「……わかってるよ。あまり僕を責めないでくれ。……君にそう言われると、正直、返す言葉がない」
「でしたら、二度とこのような真似はなさらぬように。――次は、ありませんよ」
嗜めるような、冷えた眼差し。不遜を超えた、あまりにも無礼な態度。
けれど、セドリックは気分を害するどころか、皮肉を込めて親しげに毒を吐く。
「ほんと、嫌だなぁ、その言い方。亡き伯父上にそっくりだ。やっぱり血筋かな」
「……どうでしょう。私は一度も会ったことがありませんので。分かりかねます。それに、血なら貴方にも同じものが流れているでしょう」
「――はは、そうだね。全くだ」
セドリックは天井を仰いだ。酒が回ったのか、頬が熱い。
ハンスはグラスをテーブルに置くと、その静寂をさらに一段、深く落とした。
「……殿下。貴方が彼らを愛し、その不器用な関係に手を貸そうとしたこと……その善意までは否定しません。ですが」
ハンスの瞳から、親愛の色が消える。
「あなたが彼らに与えたのは、救いではなく、死よりも深い自己嫌悪だ。アルベルト様は今、自分の存在そのものがリリア様への冒涜であると信じ、目覚めることを拒否しておられる」
セドリックの指先が、微かに震えた。
「……次に、あの方が目覚めたとき。あなたがなすべきことは、入れ替わりを知る事実を暴露することではない。……アルベルト様の抱く『大いなる誤解』を、完膚なきまで否定すること……それだけです」
「……僕に、『何も気付いていない』演技を続けろと言うのか?」
「その通りです。貴方が秘密に気付いたことをあの二人が知れば、少なからず甘えが出るでしょう。身体が入れ替わって、ひと月足らず。……今はまだ、その時ではありません」
ハンスは、セドリックの胸元をじっと見つめる。
そこには、かつてハンスが捨てたはずの王座が、見えない影となって揺らめいていた。
「それと……もし万が一にでも、入れ替わりの事実が外部に漏れるようなことがあれば、私はそれを、貴方の仕業であると判断することになる。……その座を奪われたくなければ、軽はずみな言動は慎むように」
「…………ふ。分かっているよ、ハンス。……立場は弁えているつもりだ」
セドリックは、グラスに残ったワインを一気に飲み干すと、窓の外――薄雲に覆われたかけた真夜中の月を見上げ、ほんの僅かに、口角を上げた。




